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【時代】 戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】 天文9年(1540年)
【死没】 天正10年6月15日(1582年7月4日)
【別名】 通称:次右衛門、二郎、二郎四郎、号:長閒斎
【主君】 明智光秀
【氏族】 明智氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

明智光秀の家臣。

丹波国八上城主。

剃髪して長閒斎(ちょうけんさい)と号した。

明智光秀の叔父にあたる明智光久の子。

[sengoku-2]

光秀の従父弟で、光秀の重臣の1人のようであるが、事績が登場するのは主に『明智軍記』で、確かな史料は乏しい。

父・光久は伯父・光安と共に弘治2年(1556年)の明智城陥落時に死亡したとされる。

天正5年(1577年)に丹波過部城と篠山城を落とした後、光秀は亀山城に光忠を留守居として入れた。

天正7年(1579年)、兵糧攻めにしていた八上城が落ちると、この城に光忠を駐屯させた。

[sengoku-3]

天正10年(1582年)6月1日、光秀は左馬助・次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵助と謀って本能寺の変を起こした。

次右衛門光忠は、『惟任退治記』によれば、本能寺への攻め手の一方を務めた。

『野史』によれば、信長の子の織田信忠らが篭る二条御新造を攻撃したが、その際に鉄砲で撃たれ重傷を負う。

知恩院で療養していたが、2週間後、山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れ討ち死にしたと聞いて、近江坂本城に向かい、15日、明智光春(秀満)および明智一族と共に自害して果てた。

享年43。

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