【時代】 戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】 不明
【死没】 天正9年5月24日(1581年6月25日)
【別名】 政澄、賢政、信広、通称:新八郎
【官位】 信濃守
【主君】 織田信長→信忠
【氏族】 尾張浅井氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

織田氏の家臣。

尾張国中島郡苅安賀城主。

尾張浅井氏当主・浅井高政(信濃守)の子と伝わる。

[sengoku-2]

尾張浅井氏は近江国の浅井氏の庶流ともいわれるが、近江浅井氏がまもなく有名になったために系譜を仮冒されたものであるとも考えられる。

このほか、元々黒田城主の子で、浪人中の若き山内一豊が永禄初年に一時身を寄せていたとの記録も残ることから、山内氏と縁続きであったとも考えられる。

諱は子孫から江戸幕府に提出された『寛政重修諸家譜』によれば政貞とされ、政澄・賢政・信広などもあるが、文書から確認できるのは信広である。

[sengoku-3]

織田信長にはその尾張統一以前の早い時点から仕えたと考えられ、赤母衣衆の一員となった。

永禄11年(1568年)の上洛の際には、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)らと共に近江神崎郡の観音寺城の戦いを行ったことが『信長公記』に記載されている。

天正2年(1574年)以降は尾張・美濃の支配を行うこととなった信長の長男・信忠の軍に組み入れられた。

その後天正4年(1576年)に信忠に従って播磨国に出兵したとの記録を最後にして、以降は没したためか史書には登場しない。

『尾張群書系図部集』によれば天正9年(1581年)5月24日死去とされる。

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