【時代】 戦国時代 – 江戸時代前期
【生誕】 天文15年(1546年)
【死没】 元和9年8月18日(1623年9月12日)
【別名】 昌相、幸久、頼幸
【官位】 主水佐、上総守(介)、対馬守
【主君】 武田信玄→勝頼→森長可→真田昌幸→信之
【氏族】 出浦氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。

真田氏の家臣。

実名は昌相(まさすけ)。

幸久(ゆきひさ)・頼幸(よりゆき)とも伝わるが誤伝である。

信濃国更級郡の上平城主(出浦城主)や、上野国岩櫃城代などを務めた。

江戸時代後期に松代藩の家老を務めた河原綱徳が記した『本藩名士小伝』の記載に甲州透破(忍者)の棟梁とあり、忍者として知られるが、忍城攻めにおける活躍を「忍」と誤伝された可能性が指摘されている。

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天文15年(1546年)、信濃埴科郡出浦にて、清和源氏・信濃村上氏の一族である出浦清種の次男として誕生したとされる。

天文22年(1553年)に村上義清が武田信玄に敗れ越後国に逃れると、その後甲斐武田氏に臣従し、甲州透破(忍者)を統率した。武田氏滅亡後は織田信長家臣の森長可に属し、本能寺の変の後、長可が海津城から撤退を図った際には、長可配下の信濃国人はほぼ全員が長可を裏切ったが、昌相は撤退に協力した。

長可は深く感謝し、別れる際に脇差を与えたという。

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その後、天正11年(1583年)から真田昌幸・信之に仕え、小県郡武石村に30貫文を領し、吾妻奉行を拝命した。

更級郡上平城主を務め、岩櫃城では最後の城代を務めている。

横谷左近と共に吾妻忍び衆を統率して活躍。天正18年(1590年)6月、豊臣秀吉の関東平定では真田軍として北条方が守る忍城攻め(忍城の戦い)でも活躍した。

松代藩では忍者の頭領となり、武者奉行にもなった。

この頃は出浦対馬守を称している。

関ヶ原合戦後は、上州吾妻郡原町に住み、 元和9年(1623年)に78歳で死去。

子・幸久は松代藩で1000石を領する家老となっている。

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