【時代】 戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】 享禄3年1月3日(1530年1月31日)
もしくは同年5月4日(5月30日

【死没】 天正15年5月6日(1587年6月11日)
【改名】 塩法師丸(幼名)、義鎮、休庵宗麟
【別名】 五郎、新太郎(仮名)。宗滴、円斎、府蘭、玄非斎、三玄斎、三非斎(号)
【官位】 正四位下、左衛門督
【主君】 足利義晴→義輝→義栄→義昭→豊臣秀吉
【氏族】 大友氏(藤原氏秀郷流)

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。

キリシタン大名。

大友氏21代当主。

宗麟の法号で知られている。

大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏・島津氏と共に幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。

父は20代当主・大友義鑑。

母は公家の坊城氏の娘が母とする説がある。

弟に大内義長、塩市丸、親貞など。

子に義統(吉統)、親家、親盛など。

中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球、カンボジア、ポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。

当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。

最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。

しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。

享禄3年(1530年)1月3日(または5月4日)、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれる。

傅役は重臣・入田親誠が務めた。

幼名は塩法師丸。

天文9年(1540年)2月3日、塩法師丸は元服し、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から一字拝領を受け、義鎮と名乗る。

父・義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策して、傅役の入田親誠と共に義鎮の廃嫡を企んだ。

天文19年(1550年)2月に義鎮を強制的に別府浜脇に湯治に行かせている間に義鎮派(田口蔵人佐鑑親、津久見美作(実名不明)や齋藤長実、小佐井大和守)の粛清を計画したものの逆にそれを察知した義鎮派重臣が謀反を起こし、2月10日に塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷して2月12日に死去するという政変(二階崩れの変)が起こる。

そのため義鎮が義鑑の遺言により大友氏の家督を相続し、21代当主となった。

同時に入田ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。

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天文20年(1551年)に周防国の大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込んだ。

これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符を打つと共に北九州における大内氏に服属する国人が同時に大友家にも服属することになり、周防・長門方面にも影響力を確保した。

特に博多を得たことは、大友家に多大な利益をもたらした。

弘治3年(1557年)に連合で派遣した遣明船で、義鎮は倭寇禁制使蔣洲を護送して勘合頒布を求め、義長は倭寇被虜人を送還して「日本国王」印(毛利博物館現存)を用いて朝貢した。

また復権を目論む叔父の菊池義武の反乱を退け、天文23年(1554年)には菊池氏を滅亡させて肥後国も確保した。

しかし父の不慮の死、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが大友家臣団の宗教対立に結び付き天文22年(1553年)に一萬田鑑相(のちに側室となる一萬田夫人や一萬田鑑実の父)と宗像鑑久兄弟と服部右京亮、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。

また、この頃に義鎮は本拠地を府内から丹生島城(臼杵城)に移している。

さらに弘治3年(1557年)、大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失ってしまう。

元就が北九州に進出してくると義鎮は毛利氏との対立を決意し、これと内通した筑前国の秋月文種を滅ぼすなど北九州における旧大内領は確保することに成功した。

義鎮は天文23年(1554年)に13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど将軍家との関係を強化していたが、永禄2年(1559年)には義輝に多大な献金運動をして、同年6月には豊前・筑前の守護に任ぜられ同年11月には九州探題に補任された。

永禄3年(1560年)には、左衛門督に任官する。

このように義鎮は名実共に九州における最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を創出した。

しかし、永禄5年(1562年)には、門司城の戦いで毛利元就に敗れた。

同年に出家し休庵宗麟と号す。

永禄5年9月13日、宇佐八幡宮への寄進を表明して、毛利氏に対する戦勝を祈願した。

毛利氏の行為を具体的侵攻であるのみならず、八幡大菩薩の神敵と非難している。

即ち、世俗の次元のみならず、信仰の次元においても敵の不正義・味方の正義を強調している。

このことは武士や平民を動員する上で、宗教上の大義を掲げる必要があったからである。

その後も足利将軍家には多大な援助を続け、永禄6年(1563年)には足利義輝の相伴衆に任ぜられ、永禄7年(1564年)には義輝に毛利氏との和睦の調停を依頼して、北九州の権益の確保を実現するなど関係は密であった。

毛利氏は山陰の尼子氏を滅ぼすと、再び北九州へ食指を伸ばすようになり、和睦は破れる。

永禄10年(1567年)、豊前国や筑前国で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起しこれに重臣の高橋鑑種も加わるという事態になったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させた。

また、この毛利氏との戦闘の中で宗麟は宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請し、その理由として「自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。

これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出している。

永禄12年(1569年)、肥前国で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため自ら軍勢を率いて侵攻するが元就が筑前国に侵攻してきたため、慌てて撤退する。

そして多々良浜の戦いで毛利軍に打撃を与える一方で、重臣の吉岡長増の進言を受けて大内氏の残党である大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け周防国に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を安芸国に撤退へと追い込んだ(大内輝弘の乱)。

経済面では、博多や堺の豪商のみならず、府内の豪商仲屋顕通・仲屋宗越父子を厚遇して御用商人化し、秤と分銅の衡量権益を授け、対外貿易の実務も担わせた。

宗越は臼杵城下の唐人町懸ノ町に広大な屋敷地の保有を認められ、のちには豊臣秀吉からも厚遇されて京都方広寺大仏殿造立時に奔走する。

「南蛮」外交(東南アジア外交)においては、日本の戦国大名では最も早い天正年間に、カンボジア国王との善隣外交関係の締結に成功ている。

義鎮がカンボジアに派遣した交易船は、帰路の天正元年(1573年)8月に銀子・鹿皮等を積んで薩摩の港(阿久根)に大風避難寄港し消息を絶った。

また、カンボジア国王が天正7年(1579年)に義鎮に向けて派遣した交易船には、鏡匠・象簡・象が乗り込み、銅銃・蜂蝋が積まれていたが、前年耳川の戦いで優位に立った島津義久による経済封鎖によって抑留された。

元亀元年(1570年)、再度肥前国に侵攻するが今山の戦いで敗れ、龍造寺隆信に弟・親貞を討たれた。

ただし、これは龍造寺氏にとって局地的な勝利にすぎず、この時点では大友氏の肥前支配が維持されていた。

その後は筑後国や肥前国の反龍造寺勢力を扇動するも、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできなかった。

天正4年(1576年)正月から2月18日以前の時期、家督を長男の義統に譲って隠居する。

家督相続はなされたものの、天正5年頃までは宗麟・義統との共同統治がなされていた。

天正5年(1577年)、薩摩国の島津義久が日向国に侵攻を開始すると、宗麟も出陣した。

しかし、天正6年(1578年)に耳川の戦いで島津軍に敗れ、多くの重臣を失った。

耳川の戦いの原因となった島津軍の北上の一因には毛利輝元の下に亡命していた足利義昭の影響を指摘する説がある。

義昭は毛利氏が上洛に踏み切らないのは宗麟が背後を脅かしているからだと考え、島津氏を初め龍造寺氏や長宗我部氏らに大友氏を攻めさせようと外交工作を行ったとされる。

その結果、宗麟は将軍の上洛を妨害する「六ヶ国之凶徒」と糾弾され、周辺の大名を悉く敵に回すことになった。

宗麟は織田政権に接近してこの苦境を打破しようとする。

さらに天正7年(1579年)頃からは、蒲池氏・草野氏・黒木氏などの筑後国の諸勢力が大友氏の影響下から離れ、また、家督を譲った義統とも、二元政治の確執から対立が深まり、以後の大友氏は衰退の一途をたどる。

なお、耳川の戦い直前の7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。

以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いている。

改宗の背景として、宗麟の関心はかなりの程度、信仰がもたらす現世利益にあったと考えられ、またそれが宗麟個人のみならず、大友家中の人々にキリシタン信仰を広める上で有効な面もあったとされている。

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耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎさらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は侵食されていく。

宗麟は本州で大勢力となった織田信長に接近し、島津氏との和睦を斡旋してもらう。

さらに信長の毛利攻めに協力することなどを約束していたが、本能寺の変で信長が倒れたことによりこれらは立ち消えとなった。

天正12年(1584年)に沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津義久の弟・島津家久に敗北を喫し戦死すると、立花道雪に命じて筑後侵攻を行い、筑後国の大半を奪回した。

しかし天正13年(1585年)に道雪が病死してしまい、これを好機と見た島津義久の北上が始まることとなる。

家臣の高橋紹運・立花宗茂父子の奮戦で島津軍の侵攻を遅らせたが(岩屋城の戦い)、大友氏単独で島津軍には対抗出来なくなっていた。

このため天正14年(1586年)、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願する。

これに対し島津義久はその後も大友領へ侵攻し(豊薩合戦)、同年12月には島津家久軍が戸次川の戦いで、大友氏救援に赴いた豊臣軍先発隊を壊滅させ、さらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略する。

この時、臼杵城に籠城していた宗麟は大砲・国崩し(フランキ砲)を使って臼杵城を守った。

しかし、大友氏はもはや数ヶ月すら持ち堪えられないところまできており、滅亡寸前にまで追い詰められた。

天正15年(1587年)、滅亡寸前のところで豊臣秀長の軍勢が豊前小倉においた先着していた毛利輝元、宇喜多秀家、宮部継潤らの軍勢と合流し、豊臣軍の総勢10万が九州に到着。

同年4月17日に日向国根城坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦(根白坂の戦い)においては、砦の守将・宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を堅守。

これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った、秀長麾下の藤堂高虎の500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢らが守死奮闘の継潤を救援に向かった。

結果、島津軍は島津忠隣、猿渡信光が戦死するなど甚大な損害を出して敗走した。

この戦いは、「豊後国にて防備を固めよ」という秀吉の命令を順守せず、独断で会戦(戸次川の戦い)に望んだ上で敗北した仙石秀久の失態を挽回、秀吉による九州平定を盤石なものにし、窮地に陥っている大友義鎮を救った戦いであった。

5月13日、秀吉は秀長へ全11ヶ条の条々を下す。

大隅・日向両国の人質解放を命令したこと、長宗我部信親の戦死を悼み大隅国を長宗我部元親へ下す予定、島津義久降伏の様子、毛利輝元、小早川隆景、吉川元長を薩摩国に移陣させること、志賀親次の忠節に報い大友宗麟の判断で日向国内に城を与えること、大友義統と談議し豊後国内の不要な城の破却命令、日向国における大友宗麟の知行取分は宗麟の覚悟次第とすること、宇喜多秀家、宮部継潤、蜂須賀家政、尾藤知宣、黒田孝高に日向国、大隅国、豊後国の城普請および城わりを命令、豊前国の不要な城の破却と豊後・豊前国間に一城構築すべきこと、越権行為は成敗することを通達。(『大友家文書録』)

宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後津久見で病死した。

58歳。

死因はチフスが有力とされる。

九州平定後、秀吉の命令で義統には豊後一国を安堵された。

秀吉は宗麟に日向国を与えようとしていたが統治意欲を失っていた宗麟はこれを辞退した、もしくは直前に死去したとされている。

墓は大分県津久見市内と京都市北区の龍寶山大徳寺の塔頭寺院である瑞峯院にある。

さらに津久見市上宮本町の響流山長泉寺に位牌がある。

肖像画は瑞峯院に所蔵されている。宗麟の死の直後はキリスト教式の葬儀が行われ墓は自邸に設けられたが、後に義統が改めて府内の大知寺で仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めた。

その後、墓は荒廃したが寛政年間(1789~1801年)に宗麟の家臣の末裔である臼杵城豊が自費で改葬した。

津久見市内の現在の墓所は昭和52年(1977年)に当時の大分市長・上田保によって新たにキリスト教式の墓として、従来の場所から移されたものである。

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