【時代】 戦国時代・安土桃山時代 – 江戸時代初期
【生誕】 永禄元年(1558年)
【死没】 慶長15年7月19日(1610年9月2日)
【改名】 長寿丸(幼名)、義統→吉統→宗厳(→義統)
【別名】 吉統、羽柴吉統、通称:五郎、豊後侍従
法号:宗厳

【官位】 従四位下・侍従、参議、従五位下・左兵衛督
【主君】 大友宗麟→豊臣秀吉→秀頼
【氏族】 大友氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。

大友氏の第22代当主。

大友宗麟の嫡男。

永禄元年(1558年)、第21代当主・大友義鎮(のちの宗麟)の長男として生まれる。

将軍・足利義昭の偏諱を受け、義統と名乗った。

天正4年(1576年)正月から2月18日以前の時期、父の隠居により、家督を継いで第22代当主となる。

家督相続はなされたものの、天正5年頃までは宗麟・義統との共同統治が行われていた。

毛利家を支持する将軍義昭により「九州六ヶ国の兇徒」と貶められると、新政権織田信長に近づき信長より毛利領の内で長門・周防を与えるという朱印状を得る。

さらに天正7年(1579年)11月27日、織田信長の推挙によって天皇から従五位下・左兵衛督に叙位・任官された。
ただし、大友家の実権は依然として父の宗麟が掌握していた。

天正6年(1578年)、日向国に侵攻するも、耳川の戦いで大敗を喫し、以後は大友家臣団の分裂が始まる。

また、父との二頭政治にも弊害が現れて父と対立し、かえって大友家の内紛を加熱させることとなった。

天正8年(1580年)には有力庶家である田原親貫や田北紹鉄が反乱を起こし、秋月種実と内通したので、その鎮圧のために一時府内を本拠に戻さざるを得なかった。

重臣・立花道雪が病没、さらに肥後方面を押さえていた志賀氏とも疎遠となる。

かつては大友氏の版図であった肥後・筑後・筑前は次第に肥前国の龍造寺氏や薩摩国の島津氏に侵食されていった。

天正14年(1586年)、豊後武宮親実の臼杵城、大津留氏の松ヶ尾城(城将橋爪某)などを従え豊前龍王城を拠点としていたところ、島津義久による豊後侵攻(豊薩合戦、天正の役)が始まる。

宗麟や義統への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反し、また高橋紹運が岩屋城で戦死するなど(岩屋城の戦い)、大友氏は滅亡の危機に立たされる。

父で隠居の大友入道こと宗麟は豊臣秀吉に嘆願し豊臣軍の九州下向を請うた(これにより豊臣傘下の大名となる)。

援軍として派遣された長宗我部元親や仙石秀久らは共に島津軍と戦うが、戸次川の戦いで大敗し、家臣の利光宗魚、戸次統常を失う。

義統は宗麟や家臣の柴田礼能、臼杵鎮尚、志賀親次、佐伯惟定、木付鎮直、狹間鎮秀、帆足鑑直、朽網鑑康、森鎮生、田北統員、清田正成、吉岡妙林尼らが居城において奮戦するのをよそに、府内を退去し、島津軍が豊後を席捲するのを許してしまう。

しかし、天正15年(1587年)秀長軍は先着していた毛利輝元や宇喜多秀家、宮部継潤ら山陽山陰の軍勢と合流し、豊後より日向へ入って縣(宮崎県延岡市)を経て3月29日には日向松尾城(延岡市松山)を落とし、さらに4月6日には耳川を渡って山田有信の守る高城(木城町)を包囲した。

秀長は城を十重、二十重に囲んで兵糧攻めにし、都於郡城から後詰の援軍が出てくることを予想して根白坂(児湯郡木城町根白坂)に城塞を築いた。

高城が孤立する形勢となったことに対し、4月17日、島津義久・義弘・家久が2万の大軍を率いて救援に向かった。

豊臣軍は根白坂の陣城の総大将宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて砦を堅守。

これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った。このとき、藤堂高虎、小早川隆景、黒田孝高が後詰として加勢し、後世「根白坂の戦い」と称される激しい戦闘となった。

その結果、島津方は根白坂を突破できなかったのみならず、島津忠隣が戦死、義久・義弘は都於郡城に退却。

後に秀吉から豊後一国と豊前宇佐郡半郡併せて37万石を安堵された。

同年4月に、義統は隣国の豊臣大名・黒田孝高の強い勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けていたが、6月に発令された秀吉の棄教令により、棄教した。

天正16年(1588年)2月に秀吉に謁見するため、上洛。

秀吉から非常に気に入られたとされ、羽柴(後に豊臣)の姓を下賜され、さらに、秀吉から偏諱(「吉」の1字)を与えられて義統から吉統へと改名した。

また従四位下、侍従に叙され、後の文禄の役の年の正月には参議ともなった。

天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣軍の一員として参戦している。

天正20年(1592年)、文禄の役に黒田長政勢5,000と共に第三軍として兵6,000を率いて参戦。

長政に同行して金海城の戦いなどで活躍した。

同年2月には嫡子・大友義乗に家督を譲り、自身は酒好きであったが、下戸に徹するようになど、公私にわたった21ヶ条の家訓を伝えている。

文禄2年(1593年)、平壌城の戦いで明の大軍に包囲されていた小西行長から救援要請を受けたが、行長が戦死したという家臣からの誤報を信じて撤退し、鳳山城も放棄した。

ところが行長は自力で脱出したことから、吉統は結果的に窮地の味方を見捨てた格好になった。

これが秀吉の逆鱗に触れ、軍目付の熊谷直盛、福原直高が派遣されて詰問されて名護屋城に召還を命じられる。

吉統は剃髪して宗厳を号し、大友家は源頼朝以来の由緒ある家であるとして死一等は減じられたものの、石田三成らの意見を聞いた秀吉から5月1日に改易を言い渡された。

大友領であった豊後および豊前の宇佐半郡は豊臣家の蔵入地(直割地)となり、のちに豊臣家の奉行等の領地としても細かく分割された。

吉統は、江戸(徳川氏)、水戸(佐竹氏)、山口(毛利氏)などに次々に身柄を預けられ幽閉状態が続いた。

旧大友家有力家臣らは大友家再興を願いつつ、他の大名の客将となるなどして、世をしのいだ。

慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死により、慶長4年(1599年)に豊臣秀頼より特赦され、幽閉状態から脱した。

大坂城下に屋敷を構え、豊臣家に再び仕える。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康から嫡子義乗が徳川家預かりの身で嫡男徳川秀忠の近侍を許されていたことから絶対に東軍に味方すべきだと言う忠臣吉弘統幸の諫止を退けた。

それは大坂城下に側室と庶子の松野正照が西軍によって軟禁されていたためだとされている。

西軍の総大将毛利輝元の支援を受けて西軍に味方をすることに決め、広島城から西軍の将として出陣して、元の領国であった豊後国に侵攻した。

戦勝のあかつきには「豊後一国の恩賞」が約束されていたという。

田原氏・吉弘氏・宗像氏などの小大名級の旧大友家臣が諸国よりぞくぞくと合流し、大友軍は短期的に再興した。

豊後に上陸して国東半島の諸城を下す。

9月の石垣原の戦いでも、緒戦は優勢であったが、終盤では豊前の黒田如水と細川忠興(実際は豊後杵築城の細川家の重臣松井康之)らの連合軍に敗れてしまい、剃髪したのち妹婿であった黒田家の重臣・母里友信の陣へ出頭して降伏。

今度は徳川家から幽閉される身となった。

関ヶ原の後、東軍配下の細川家領の豊後杵築城を攻めたという咎で、吉統は出羽の秋田実季預かりとなり、実季転封にともない常陸国宍戸に流罪に処された。

流刑地では再びキリシタンとなったという話も伝わるが、同時代史料が無く未詳である。

この流刑地で大友氏に伝わる文書を『大友家文書録』にまとめたが、このおかげで大友氏は零落した守護大名家としては珍しくその詳細を知ることができ、大変貴重な史料となっている。

吉統は慶長15年(1610年)に死去する。

享年53。

戒名は中庵宗厳。

大友家は義乗が旗本として徳川家に召抱えられ、鎌倉以来の名家として高家として続いた。

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