【時代】 安土桃山時代 – 江戸時代初期
【生誕】 天正8年(1580年)
【死没】 慶長10年5月27日(1605年7月13日)
【改名】 三法師(幼名)、秀信
【別名】 三郎、岐阜中納言(通称)
【官位】 従四位下・侍従、左近衛権少将、参議、従三位・権中納言、正三位
【主君】 豊臣秀吉→秀頼
【氏族】 織田弾正忠家

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概要 (説明はWikipediaより)

安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、キリシタン大名。

織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。

岐阜城主。

官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれた。

天正8年(1580年)、織田信忠の長子として生まれた。

幼名は三法師。

母・徳寿院は塩川長満の娘、森可成の娘、あるいは武田信玄の娘・松姫とも。

なお、母が松姫の場合、武田信玄の外孫という事になる。

『美濃国古蹟考』によると、和田孫太夫女であるという。

高野山悉地院過去帳は母方の祖母を進藤氏としており、進藤氏の娘の可能性もある。

天正10年(1582年)の本能寺の変の際、父・信忠の居城岐阜城に在城していたが、前田玄以、長谷川嘉竹あるいは木下某(小山木下氏)に保護されて清洲城へと避難した。

この折、二条城におり信忠から末期に行光の短刀を与えられたという言い伝えがある。

同年、清洲会議において羽柴秀吉の周旋により、わずか3歳で織田弾正忠家の家督を相続し、直轄領として近江国坂田郡3万石を得る。

代官は堀秀政が務めた。

この際の決定で安土城に移ることになったが、叔父の織田信孝によって岐阜城に留め置かれ、これを発端として秀吉と信孝は干戈を交えることとなる。

信孝が敗れて降伏した後は、一応の整備がなった安土城仮屋敷へ移り、織田家の家督代行となった織田信雄の後見を受けた。

ただし、織田氏の家督継承は織田政権の解体と豊臣政権の確立の過程で複雑な経緯を辿っている。

天正12年(1584年)に羽柴秀吉と織田信雄が対立すると、三法師は安土城から坂本城、次いで京都の秀吉の下に移された。

そして、同年11月に秀吉と信雄が講和をする(小牧・長久手の戦い)と、政治的立場を逆転させた豊臣秀吉(羽柴秀吉)は織田家の家督を信雄に正式に認め、三法師は再び坂本城に移された。

天正16年(1588年)、9歳で岐阜に入って元服し三郎秀信と名乗り、従四位下行侍従に叙位・任官した。

4月の後陽成天皇の聚楽第行幸を記した『聚楽亭行幸記』には、三郎侍従秀信朝臣の名が見える。

このときの列席した侍従・少将の官位を持つ大名の中での席次は5番目であり、前田利家や豊臣秀勝・結城秀康らに次いだ。

天正18年(1590年)の小田原征伐において、『寛政重修諸家譜』の堀秀政の項には秀信が六番隊として参陣して左備えの大将である秀政の指揮下で鉄砲隊を供出して戦ったとあるが、『堀家大系図』所収の秀吉朱印状には「六番 羽柴岐阜侍従」とのみあり、徳富蘇峰はこれを池田輝政として、天正十六年四月の聚楽第行幸の時点では輝政が岐阜侍従であることが確認できるのであって、記述は疑わしい。

また『小田原陣陣立』によれば、六番隊は越前勢で構成され、同じく羽柴侍従であった青木秀以がおり、これとの混同の可能性も考えられる。

いずれにしても、元服を終えたとはいえ、大した所領も与えられていない10歳そこそこの旧主の遺児が、陪臣の配下で参戦するとは考え難い。

なお、小田原征伐後に関東地方へ移封となった徳川家康の旧領への移封を拒絶した織田信雄が改易され、その後嫡男の織田秀雄が大名として取り立てられて織田家当主を継いだ。

文禄元年(1593年)、秀信は(陣場は割り当てられていたものの)当初、文禄の役に出陣する予定はなかった。

しかし同年9月9日に豊臣秀勝が没すると、秀吉はその遺領である美濃国13万石と岐阜城を秀信に与えた。

この際、秀信は秀勝の養子として継承したと『勢州軍記』には記されている。

これは全く根拠がない事ではなく、豊臣政権(秀吉)が織田信長の五男である羽柴秀勝(於次)の後を秀吉の甥である豊臣秀勝(小吉)が継ぎ、その後を秀信が継いだことにすることによって、信長の後継者は信雄父子ではなく秀勝(於次)であり、秀信はその後継者であるという方針を打ち立てたとも考えられるからである。

これに伴って、長岡忠興、遠藤胤基、遠藤慶隆ら九番隊と、済州島で在陣中に没した秀勝が率いていた美濃衆8,000人は、秀信の家老の百々綱家が出陣して、急遽、これを率いることになった。

晋州城攻撃計画では、美濃衆からは釜山にて普請を行う6,000人の動員が予定されていたが、実際の5月の晋州城攻防戦で動員されたのは4,018人で、(済州島から)渡海して包囲部隊に編入された。

家臣団には津田元綱など信孝・豊臣秀勝らの家臣だった者が散見されるが、このほか池尻城将を務めた飯沼長実など斎藤家旧臣、斎藤正印軒や斎藤徳元など斎藤一族、武藤助十郎など土岐一族も見られ、美濃衆を家臣団として再結集した様子が窺える。

蒲生氏郷の庶長子・蒲生元時(生駒伊右衛門)、剣豪と言われる足達庄蔵なども秀信に仕えた。

12月、秀信は鏡島湊を築き、免許状を与え遡上荷船の最終湊の地位を保障した。

文禄2年(1593年)3月6日、『松浦古事記』によると、秀信は寺西正勝らを供に引き連れ、秀吉のいる名護屋城に陣中見舞いと称して参陣した。

同年10月3日には秀吉に従って参内した。

このときすでに羽柴姓も贈られていて、岐阜中納言として史料に見える。

このことから従三位・中納言に昇叙・任官していたことが分かる。

文禄3年(1594年)正月には新公家衆の一人として参内した。

『駒井日記』の同年2月の記事には「岐阜中納言様御内室」との記述があり、中納言叙任と同時期に正室を迎えたことが窺える。

5月23日、名護屋城にて明使沈惟敬が秀吉に謁見した際に、徳川家康、前田利家、秀信、小早川秀秋、豊臣秀保、上杉景勝の6名は同室で伺候していた。

同年、祖父・信長に倣って鵜飼いを保護したことなども伝わる。

秀信時代、鵜飼舟12艘があったとする同地の記録が今日に伝わる。

鵜飼いの保護は、後の岐阜領主にも継承された。

文禄4年(1595年)正月には関白を継いだ豊臣秀次に従って参内している。

同年3月8日には秀吉が聚楽第に秀次を訪問した際、兵を率いて道中の警備を務めている。

この時どちらに従っていたのかは不明であるが、秀次事件に連座していないことから、秀吉付きに復していたようである。

関ヶ原の戦いに際しては、前年から戦支度を進めていた節が見られる。

慶長4年(1599年)閏3月、岐阜の家臣・瀧川主膳に対し、石田三成の奉行職引退、佐和山城蟄居を受けて稲葉山、町口の防備を固めるよう書面で指示している。

慶長5年(1600年)に入るとイエズス会宣教師らと面会を重ね、豊臣秀頼に拝謁して黄金200枚、軍俵2,000ないし3,000石を下賜されている。

当初、徳川家康の会津征伐に従軍して7月1日に出陣する予定であったが、軍装を整えるのに手間取り出発が遅延した。

この間に石田三成から「戦勝のあかつきには美濃・尾張の2ヶ国を宛行う」との条件で勧誘されて西軍に加勢した。

8月5日付の三成の書状「備えの人数書」には美濃口の将の一人として名前が記されている。

秀信が西軍についたことによって美濃の諸勢の大半はこれに従った。

この間、木造左衛門・津田藤三郎・上方弥佐衛門・上方藤蔵ら一向門徒である家臣の懇願を受けて三成に談判し、本願寺教如の帰洛を助けたという言い伝えも残っている。

柏木彦右衛門・河瀬左馬之助率いる三成からの援軍を得て慶長5年(1600年)8月22日、木曽川沿いの米野で老臣・百々綱家、大番頭・飯沼長資らの2,500騎を先鋒とし木造長政らの兵1,000を中野村に配置、遊軍として佐藤方政の兵1,000を新加納村に配置し、木曽川を防衛線として池田輝政・福島正則らの東軍を迎え撃った(米野の戦い)。

総兵力は6,530騎という。

秀信自身も1,700騎を率いて上川手村閻魔堂まで出陣し総指揮を執った。

この戦に関して、養教寺・善福寺・曼陀羅寺に出した禁制、閻魔堂に布陣するに際して秀信の家老から郷士に発給した文書が現存している。

飯沼長資(小勘平)が一柳家家老・大塚権太夫を討ち取り首級を閻魔堂の秀信のもとに届けるなどしたものの兵力差もあり、敗退した。

この戦いでは長資のほか、冨永勝吉らが討死した。

同日夕刻、杉浦重勝の守る竹ヶ鼻城も落城し、重勝は討死にを遂げている(竹ヶ鼻城の戦い)。

追い詰められた秀信は、22日夜大垣城・犬山城に援軍を要請する一方で、岐阜城に籠城した。

諸将の配置は本丸は秀信と弟・秀則、稲葉山・権現山砦に三成からの援将・松田重大夫、瑞龍寺山砦に同じく援将・河瀬左馬之助ら、総門口に津田藤三郎、七曲口に木造長政父子、御殿・百曲口に百々綱家、水の手口に武藤助十郎であった。

当初、援軍には島津右馬頭が赴くことが決定されたが、取り止めになっている。

籠城戦は23日一日続いたが、前日の戦いで兵力が激減していた上、東軍にかつて岐阜城主だった池田輝政が城の構造を熟知していたこともあって敗勢は覆いがたく、秀信は秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で23日降伏開城した。

攻城戦では上格子門で激しい銃撃戦が繰り広げられ、二の丸門の戦いでは門内にあった煙硝蔵に火がつき爆発炎上するほどであった。

武蔵砦、本丸七間矢倉でも戦闘が繰り広げられた。

数に劣る城方ではあったが、織田秀則や織田兵部・斎藤徳元・木造長政・百々綱家・梶川高盛・武藤助十郎(土岐一族)・入江左近・飯沼長実・安達中書・山田又左衛門・滝川治兵衛(土方治兵衛か)・和田孫大夫・津田藤右衛門・十野左兵衛・伊達平右衛門・大岡左馬介といった家臣が奮戦し、寄せ手を食い止めた。

侍大将級の討死も多く、前述の奮戦した秀信家臣のうち、飯沼長実・和田孫大夫は討死を遂げている。

『武徳安民記』では福島正則勢が430、池田輝政勢が490、浅野幸長勢が308の首級をあげたことが8月28日の項に記されている。

また、落城時に最後まで生き残った家臣は切腹したといい、崇福寺には秀信家臣38人が切腹した場所の床板を天井に張った「血天井」が存在し、この戦いの激しさが窺える。

なお、岐阜城攻防戦で討ち死にした秀信家臣の首級は江戸へ送られ、首実検の後家康の命によって増上寺源誉、玉藏院忠義が麻布原に首塚を築いて供養したとされるが、現在もなお首塚は発見されていない。

この戦いで、秀信が岐阜城下に建設した司祭館なども炎上焼失した。

城を出た秀信は、上加納の浄泉坊で剃髪して、父方の祖母の郷里である尾張小折生駒屋敷に移った後、生駒家の領地であり父方の叔母である徳姫も一時期滞在した尾張知多へと送られた。

岐阜城陥落後の逸話として、家臣・小林新六郎が関ヶ原より撤退する島津義弘の軍勢の道案内をしたことが伝わっている。

降伏した秀信に対する助命はいかがなものかという声も上がったが、家中に秀信家臣の縁者も多かった福島正則が自らの武功と引き換えにと助命を主張したため、合戦終結後に岐阜13万石は没収されて高野山へと送られた。

道中の警護は浅野家が務めた。

岐阜城攻防戦を生き残った秀信家臣の多くは岐阜城攻防戦で戦った福島家、池田家や浅野家などに招聘された。

改易された秀信は高野山で修行を積むことになったが、祖父・信長の行った高野山攻めが仇となって当初は入山が許されず、10月28日まで待たされた。

出家が許された後も迫害を受けた。

この間、慶長8年(1603年)に伯母・三の丸殿が亡くなった際にはその供養を行っている。

慶長10年(1605年)5月8日、高野山から出て、山麓に住む。

追放ともされる下山の理由には僧を斬るなど自身の乱行が原因であるとの説があるが、秀信自身は仏教を迫害したことはなく、高野山追放は祖父のとばっちりであるとする説もある。

同年5月27日、向副で生涯を閉じた。

この事からも、健康を害していたための下山療養とも考えられるが、死因は自害であるとも伝わる。

高野山側では山を下りた5月8日を死亡日としている。

享年26。

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