【時代】 戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】 享禄元年(1528年)
【死没】 天正4年11月25日(1576年12月15日)
【別名】 天覚、不智斎(法号)
【官位】 正三位、権中納言、伊勢国司(知行国主)
【氏族】 村上源氏、北畠家

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての大名・公家。

伊勢国司北畠家の第8代当主。

享禄元年(1528年)、第7代当主で参議・北畠晴具の長男として生まれる。

天文6年(1537年)、従五位下侍従に叙任。

以後も天文21年(1552年)従四位下参議に叙任されて公卿に列し、天文23年(1554年)に従三位権中納言に叙任されているなど、朝廷から官位を授かって順風満帆な青年期を過ごした。

この間の天文22年(1553年)に父・晴具の隠居により家督を相続して第8代当主となる。

弘治元年(1555年)、父・晴具の命により伊勢国安濃郡を支配していた長野工藤氏と戦い、永禄元年(1558年)に次男・具藤を長野工藤氏の養嗣子とする有利な和睦を結ぶことで北伊勢に勢力を拡大し、永禄5年(1562年)5月5日に長野稙藤と長野藤定が同日に死去したため長野氏の支配権を完全に握った(具教による暗殺説もある)。

永禄3年(1560年)、小浜景隆ら志摩国の国人達を援助して九鬼氏の本拠地・田城を攻めさせ、一時的に九鬼氏を滅ぼして(城主の九鬼浄隆は戦死、弟の九鬼嘉隆は逃亡した。)志摩国での支配体制を固めた。

さらに『勢州軍記』「秋山謀叛事」によれば、永禄初年に大和国宇陀郡の国人領主・秋山教家が三好氏の婿として権勢を奮い、具教の命に従わなかったため、具教は教家の居城の神楽岡城を攻め、教家の父を人質に取ったという。

このように具教は北畠家の支配範囲を順調に広げていき、北畠家の最盛期を築き上げた。

永禄6年(1563年)、父の晴具が死ぬと喪に服して官職を辞し、嫡男の具房に家督を譲って隠居する。

しかし北畠家の実権は依然として具教が握っていたようである。

ところが、永禄11年(1568年)以降、尾張国の織田信長が伊勢国に侵攻し、神戸氏・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。

そして、永禄12年(1569年)に8月に信長自ら北畠領内への侵攻を開始した。

北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が織田氏に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。

具教は大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末に降伏する形で和睦した(大河内城の戦い)。

このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる。

具房にはまだ子がなかったため、具教の娘の雪姫が信雄(茶筅丸)に嫁ぐこととなった。

ただし、谷口克広はこの戦いではむしろ織田方が次第に劣勢となり、信長の要請を受けた将軍・足利義昭の仲介で和議に入ったとする説を出している。

また、久野雅司は信長が茶筅丸の入嗣を強要したことで義昭の不快感を招き、信長と義昭の対立のきっかけになった事件とする見方をしている。

その後、元亀元年(1570年)5月、出家して天覚、更に不智斎と号し、三瀬谷(現在の三重県多気郡大台町)に移る。

しかし、少なくとも天正元年(1573年)9月迄は具豊(信雄)に実権を渡しておらず、天正3年(1575年)6月の家督譲与まで具教、具房奉公人(教兼、房兼)の文書発給が続いている。

また、天正3年(1575年)に具教は隠居城として伊賀国丸山城の築城を決め、同地域の土豪を説得、天正4年(1576年)正月より人夫衆を動員し作事を行ったが、織田信長と不和になり三瀬館に引き上げた。

具教と立場を失ったその側近達は信長に心服しておらず、元亀4年(1572年)3月に具教は西上作戦の途上であった武田信玄の陣に鳥屋尾満栄を遣わせ、信玄上洛の際には船を出して協力するという密約を結んでいた。

また、信長に敵対する紀伊熊野勢に蜂起を勧めていたとされる。

天正4年11月25日(1576年12月15日)、具教は信長と信雄の命を受けた旧臣(長野左京亮、加留左京進(藤方朝成の名代))の襲撃を受けて、子の徳松丸・亀松丸、および家臣の大橋長時・松田之信・上杉頼義ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害された。

享年49。

同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・田丸城において殺害された。

これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた(三瀬の変)。

なお、具教の首級は、加留左京進の家臣である伊東重内らにより運び出されたが、変に気付き駆け付けた芝山秀時、大宮多気丸らに奪い返され、秀時の父である芝山秀定により御所尾山に埋葬された。

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