【時代】 戦国時代
【生誕】 大永7年(1527年)
【死没】 天正12年6月3日(1584年7月10日)
【改名】 松千代(幼名)→詮慶→隆慶
【別名】 大炊助、遠江守、八郎、正隆、惣左衛門
【官位】 大炊助、遠江守
【主君】 尼子晴久→大内義隆→義長→毛利元就→輝元
【氏族】 宇多源氏佐々木氏流宍道氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代の国人領主、武将。

出雲国の戦国大名尼子氏の一門衆。

坂口城・姫山城城主。

初め尼子詮久(後の尼子晴久)に仕えてその偏諱(「詮」の字)を受け詮慶(あきよし)、のち大内義隆に属してからはその偏諱(「隆」の字)を受けて隆慶と名乗った。

別名として宍道八郎、宍道正隆(まさたか)も伝わる。

[sengoku-2]

天文9年(1540年)、主君・尼子詮久による吉田郡山城の戦いに参戦するが、戦況が不利になったため敗走した。

翌天文11年(1542年)1月11日に、大内義隆は自ら出陣して出雲侵攻を開始。

これに呼応した宍道氏は大内側へと寝返る。

当初から三沢為清・三刀屋久扶等の出雲国人衆を大内側へと誘っていたものの、出雲国赤穴城の攻略に手間取り、赤穴城攻略後に月山富田城を包囲するも、国人衆らは動揺して尼子方へと帰参してしまい、大内軍は一気に苦境に立たされることとなった。

立場が悪くなった隆慶は、大内義隆に従って撤退し、5月25日に山口へと到着した。

その後は大内氏家臣として厚遇されている。

[sengoku-3]

天文20年(1551年)に大内氏重臣陶隆房による謀反により大内義隆が自害(大寧寺の変)。

その後、大友晴英(大内義長)を大内氏の当主に迎えた陶晴賢(隆房より改名)は、傀儡政権を樹立した。

これに隆慶も従うものの、その後の天文11年(1555年)の厳島の戦いで毛利元就に敗れた陶晴賢は自害。

同年から毛利氏の防長経略が始まると、大内氏本拠である大内氏館・築山館に隣接する姫山城に籠城したが、大内義長が山口を放棄すると毛利氏に従属した。

永禄5年(1562年)には嫡男の政慶と供に毛利氏の出雲侵攻に加わっており、かつての宍道氏の居城であった鳶ヶ巣城を奪回し、城主に返り咲いた。

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