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合戦名 大坂夏の陣
合戦の年月日 慶長20年(1615年)5月
合戦の場所 摂津国、河内国、和泉国
合戦の結果 江戸幕府軍の勝利、豊臣氏滅亡
交戦勢力 江戸幕府 豊臣氏
指導者・指揮官 徳川家康、徳川秀忠 豊臣秀頼
戦力 約165,000 約55,000

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概要 (説明はWikipediaより)

江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。

和平成立後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻ったが、一方で国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を行っている。

慶長20年3月15日(1615年4月12日)、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。

4月1日、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛すること、小笠原秀政に伏見城の守備に向かうことを命じた。

4月4日、家康は徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋に向かった。

翌5日に大野治長の使者が来て豊臣家の移封は辞したいと申し出ると、常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことならどうしようもない)と答え、4月6日および7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じた。

冬の陣で江戸に留め置かれていた黒田長政と加藤嘉明は本人の出陣が許されたが、福島正則は引き続き江戸に留め置かれた。

家康が名古屋城に入った4月10日、秀忠は江戸を出発している。

4月12日、名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康は18日に二条城に入った。

このころ秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも家康に伝えてくれと依頼している。

4月21日、秀忠は無事二条城に到着し、翌22日、家康と秀忠は本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。

この時の徳川方の戦力は約15万5千。

家康はこの軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かうこと、同時に道路の整備、山崎などの要所の警備を行うことを命じた。

この二手の他、紀伊の浅野長晟に南から大坂に向かうよう命じている。

5月5日、家康は京を発した。

その際、自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じたという。

豊臣方では、4月9日に交渉にあたっていた大野治長が城内で襲撃される事件が起こる。

交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、4月12日に金銀を浪人衆に配り、武具の用意に着手した。

また主戦派の浪人、大野治房たちが埋められた堀を掘り返したりしている。

和議による一部浪人の解雇や、もはや勝ち目無しと見て武器を捨て大坂城を去るものが出たため、この時の豊臣家の戦力は7万8000に減少した。

一方、大坂城での籠城戦では勝つ見込みが無いと判断し、総大将の首を討つ機会のある野戦にて徳川軍との決戦を挑む事が決定された。

なおこの頃、織田有楽斎は大坂城を退去している。

[sengoku-2]

豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、4月26日に筒井定慶の守る大和郡山城を落とし(郡山城 (大和国)#郡山城の戦い)、付近の村々に放火。

28日には徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。(堺焼き討ち)

大野治房勢は、4月29日には一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟勢と戦い討死した(樫井の戦い)。

その後、大野治長らは浅野勢と対峙しつつ、5月6日まで堺攻防戦を行った。

5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起こる。

寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取ることができず、後藤基次隊2,800は単独で小松山に進出したが、伊達政宗、松平忠明ら2万以上から攻撃を受け、基次は討死した。

次いで到着した明石全登、薄田兼相ら3,600の兵も小松山を越えた徳川軍と交戦し、薄田兼相らが討死した。

さらに遅れて真田信繁、毛利勝永ら12,000の兵が到着し、真田隊が伊達隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止めた。

しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、残兵を回収して後退。

幕府方も連続した戦闘に疲弊したため、追撃を行わなかった。

同日、木村重成の6,000の兵と長宗我部盛親、増田盛次ら5,300の兵が河内路から大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃した八尾・若江合戦が起こっている。

まず、盛親隊が霧の中を藤堂高虎隊5,000に奇襲をしたが、幕府方の援軍に阻まれ後退中に追撃を受け壊滅した。

重成は高虎隊の一部を破った後、井伊直孝隊3,200らと交戦の末に討死した。

5月6日の戦闘の結果は幕府方の優勢で、豊臣方は大坂城近郊に追い詰められた。

5月7日、豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した。

天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500、岡山口には大野治房ら4,600、別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000?が布陣した。

これに対する幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟40,000を茶臼山方面に、その前方に松平忠直15,000が展開した。

天王寺口は本多忠朝ら16,200が展開し、その後方に徳川家康15,000が本陣を置いた。

岡山口には前田利常ら計27,500。

その後方に近臣を従えた徳川秀忠23,000が本陣を置いた。

正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は豊臣方の真田隊・毛利隊・大野治房隊などの(特に真田隊)突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、いくつかの隊が壊滅し、家康・秀忠本陣は混乱に陥り、家康が切腹を一度覚悟するまでに至り、ついにはその場を逃げだすなどしたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。唯一戦線を維持した毛利勝永の指揮により、豊臣軍は大坂城本丸に総退却した。

[sengoku-3]

本丸、掘り返した堀以外の堀を埋められて裸同然となっていた大坂城に、殺到する徳川方を防ぐ術はもはやなく、真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入した。

遂には秀頼の下で大阪城台所頭を務めていた大角与左衛門が徳川方に寝返り、手下に命じて城の大台所に火を付けさせるという事態も発生し、全体に延焼した大坂城は灰燼に帰し、落城した。

その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の様が見えたという。

なお、大阪城陥落直後の1615年6月11日付の長崎の平戸オランダ商館の関係者の報告では、徳川家康側に赦免を得るために寝返った数名の大名が秀頼を裏切り、城に火を放って逃亡を図るが適わず、その場で城壁から突き落とされて死亡したとされている。

翌日、脱出した千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害した。

現在、大阪城天守閣で所蔵されている、自らも大坂の役に参戦した福岡藩主黒田長政が当時一流の絵師を集めて描かせた大作の屏風絵「大坂夏の陣図屏風」通称、「黒田屏風」(重要文化財)の左半分には、乱妨取りに奔った徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。

落城後の混乱の中でも豊臣勢の抵抗はしばらく続いた。

秀頼の子の国松は潜伏している所を捕らえられて処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。

豊国社は廃絶され、家康の指示で大仏の鎮守にするために方広寺大仏殿の裏手に遷された。

大阪城に残された豊臣家の財宝は、家康の指示で、1か月余りにわたりくまなく捜索され、焼けた倉庫跡から金1万8000枚、銀2万4000枚を発見しすべて回収した。

長宗我部盛親はじめ残党の追尾は10年以上に亘って行われた(徳川幕府転覆を企てた由井正雪の片腕とされた丸橋忠弥は長宗我部盛澄といい盛親の側室の次男という)。

盛親以外には、細川興秋は父・細川忠興から自刃を命じられ、増田長盛は盛次の罪を背負う形で配流先の岩槻で、また古田重然は豊臣に内通したという疑いから自刃した。

明石全登の行方は定かではないが、その息子・明石小三郎は寛永10年(1633年)に薩摩で捕まっている。

また、長崎代官の村山等安は豊臣家に肩入れしたことと、キリシタンを庇護したことで1619年に江戸で斬首となり、妻子も1622年の元和の大殉教で処刑された。

家康は畿内の寺社などに対して落人やその預物の探索を命じており、この背景には有力武将に止まらず、下々の武将までも捕縛し、豊臣方に与した者を許さないという強い意思を内外に知らしめようとしたといえる。

その一方で、仙台藩では、捕虜となった長宗我部盛親の姉妹の子である柴田朝意(父は長宗我部家臣の佐竹親直)が仙台藩の奉行になったり、信繁の子の真田守信が仙台藩重臣片倉重長に匿われて、後に仙台藩に仕官したりしており、実際の残党狩りは藩により温度差が生じている。

また、旧室町幕府幕臣であった真木島昭光がかつての同僚である細川忠興らの嘆願で助命されたり、織田昌澄が旧主の藤堂高虎の嘆願で助命されるなど、特別な事情で処刑を免れた事例もあった。

また秀頼に内通したとして、福島正則の弟で大和国宇陀松山藩主の福島高晴が改易となった。

蝦夷松前藩では、松前由広が内通の疑いで父・松前慶広の命令で斬られた。

織田有楽の嫡男とみられた織田頼長は、豊臣軍の武将として徳川軍と戦ったため、有楽は所領を相続させず、頼長の弟2人に分与した。

毛利輝元の密命で豊臣軍に加わった内藤元盛は戦後、徳川軍に捕縛されたが、毛利家は無関係だと主張し、自刃した。

輝元は、内藤元盛の子2人を斬り、孫を幽閉して、いったん内藤家は断絶となったが、元盛の曾孫の代になって毛利家の家臣として復活を許された。

戦後、大坂城には松平忠明が移り、街の復興にあたった。

復興が一段落すると忠明は大和郡山に移封され、以降大坂は将軍家直轄となった。

幕府は大坂城の跡地に新たな大坂城を築き、西国支配の拠点の一つとした。

一方、松平忠輝は総大将を務める天王寺合戦で遅参したことが理由の一つとなり、翌年に改易となった。

松平忠直は、大坂城一番乗りの褒賞が大坂城や新しい領地でもなく「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみであったことを不満としており、後に乱行の末改易となった。

戦後に新しい領地が幕府より与えられた例としては、伊達秀宗(伊達政宗の長男)に伊予国宇和島藩10万石、前田利孝(前田利家の5男)に上野国七日市藩1万石、織田信雄に大和国宇陀松山藩5万石が与えられ、蜂須賀至鎮には淡路国8万石が加増され、井伊直孝と藤堂高虎には、それぞれ5万石が加増され、水野勝成には三河国刈谷藩3万石から大和国郡山藩6万石へ加増転封となった。

この戦いを境に応仁の乱より断続的に続いていた大規模な戦闘が終焉した。

これを元和偃武と言う。

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