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合戦名 小豆坂の戦い
合戦の年月日 天文11年8月10日(1542年9月19日)
合戦の場所 三河国額田郡小豆坂
合戦の結果 織田軍の勝利(一時)、織田軍の大敗(二次)
交戦勢力 織田軍 今川軍
指導者・指揮官 織田信秀 今川義元
戦力 不明 不明

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概要 (説明はWikipediaより)

岡崎城に近い三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市字羽根町字小豆坂、同市美合町字小豆坂)で行われた戦国時代の合戦。

三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で天文11年(1542年)と17年(1548年)の2度にわたって繰り広げられた。

発端は松平氏家中の家督相続をめぐる対立だが、これに領地拡大を図る織田氏と今川氏が介入し、事実上、松平清康の死後勢力の衰えた松平氏に代わる西三河地方の覇権を巡って、織田信秀と今川義元との間で生じた抗争である。

岡崎城主として西三河の平野部を支配していた松平氏は、松平清康の代に三河全域をほぼ平定したが、天文4年(1535年)の森山崩れによって清康が不慮の死を遂げてから一族間の内紛が起こり、動揺していた。

やがて清康の嗣子広忠が、東の駿河国・遠江国を支配する今川義元の後援を受けて岡崎城に戻り家督を相続するものの、依然として勢力は不安定だった。

尾張の南部に勢力を広げ、戦国大名化を進めていた織田信秀は天文9年(1540年)に松平氏の弱体化に乗じて西三河の松平氏の重要拠点である安祥城(愛知県安城市)を手中にし、松平氏の本拠である岡崎城の目前である矢作川のすぐ西までその勢力を伸ばしていた。

織田信秀の西三河平野部への進出に対し、松平氏を後援しつつ東三河から西三河へと勢力を伸ばしつつあった今川義元は、西三河から織田氏の勢力を駆逐すべく、天文11年(1542年)8月(一説に12月)、大兵を率いて生田原に軍を進めた。

一方の織田信秀もこれに対して安祥城を発し、矢作川を渡って対岸の上和田に布陣。同月10日(9月19日)、両軍は岡崎城東南の小豆坂において激突した。

この戦いは、織田方の小豆坂七本槍をはじめとした将士の奮戦によって織田軍の勝利に終わったとされる。

しかしながら、この第一次合戦については虚構であるという説もある。

第一次合戦の今川方大将の「いはら」は庵原であり、太原雪斎のことである。

小豆坂の最初の激突の後、織田氏の尾張・三河国境地帯に対する影響力は高まり、天文13年(1544年)には三河国碧海郡の刈谷城(刈谷市)を中心に国境地帯に勢力を持つ国人の水野信元が、岡崎城主・松平広忠の妻・於大の方の兄でありながら松平氏と絶縁し、今川氏を離反して織田氏に従った。

この情勢を受けて、広忠は織田家に対抗し今川家との関係をさらに緊密にするため、嫡子・竹千代(後の徳川家康)を人質として今川氏の本拠・駿府に送ることにした。

しかし、天文16年(1547年)、当時6歳の竹千代の身柄は、護送の任にあたった田原城(愛知県田原市)の城主・戸田康光の裏切りによって織田方に引き渡されてしまった。

織田信秀は人質の竹千代を利用して広忠に対し今川を離反して織田の傘下に入るよう説得したものの、広忠は今川氏を頼って織田氏への徹底抗戦の構えを崩すことはなかった。

同じ頃、信秀は嫡男・信長に斎藤道三の娘・濃姫を娶らせて、累年の敵であった美濃の斎藤氏と和睦を推進した。

これにより北の憂いをなくした信秀は改めて東へと目を向け、奪取した安祥城を橋頭堡として、岡崎城の攻略を企図するに至る。

こうして天文17年(1548年)3月、信秀は岡崎城を武力で攻略することをめざし、庶長子信広を先鋒とし4,000余の兵を率いて安祥城から矢作川を渡河、上和田に着陣した。

今川義元も松平氏救援のため約1万の兵を太原雪斎を大将、朝比奈泰能を副将として出陣させ、同月19日(4月27日)に織田軍先鋒の信広と接触し小豆坂で合戦となった。

この戦いでは、はじめ今川勢は坂の頂上付近に布陣していたために優勢であったが、信広隊も劣勢を悟って無理をせずに兵を信秀本隊のある盗木の付近まで下げ、本隊と合流して勢いを盛り返した織田方の奮戦によって松平隊が崩され、次第に今川方の敗色が濃くなりつつあった。

ところがこの時、伏兵となっていた今川方の部隊が攻勢に転じ、織田本軍に横槍を入れたことで織田勢は総崩れ、再び矢作川を渡って安祥城まで敗走することとなった。

ところで、「松平広忠と岡崎城は今川方にある」ということは、第二次合戦の前提として、これまで全く疑われることがなかった。

ところが、越後国本成寺の第九世である日覚(尾張国の出身で、今川氏家臣の鵜殿氏から帰依を受けていた)が残した書状の中に、天文16年(1547年)9月に岡崎城が織田軍に攻め落とされたという記述があることが判明しこれを事実とする説が村岡幹生によって唱えられた。

この新説は研究者の中でも支持する動きがあり、更にこの説を発展させて、松平竹千代(徳川家康)は戸田康光の裏切りではなく、広忠自身が降伏の証として織田氏に引き渡したとする説まで出されるようになった。

第二次合戦において今川氏・松平氏連合は勝利を収めはしたが、この合戦のあった天文17年(1548年)に松平広忠が死亡してしまい、松平氏の次期当主である竹千代が織田氏のもとに人質としてある以上、岡崎城は無主の状態になってしまった。

そこで翌天文18年(1549年)、太原雪斎は人質交換によって竹千代の身柄を今川氏の保護下に奪還することをねらい、11月8日(11月26日)から9日(11月27日)にかけて今川軍と松平軍を率いて安祥城を攻略、信広を捕虜として、竹千代と交換する交渉に成功した。

今川氏はそのまま竹千代を駿府に引き取って松平氏を完全に保護下に置き、西三河の拠点となる岡崎城に今川氏の派遣した代官を置いた。

一方、安祥城の失陥により織田氏の三河進出は挫折に終わり、さらに天文20年(1551年)には織田信秀が病没、後を継いだ信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で内紛が起こった。

この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海城・笠寺城(それぞれ名古屋市緑区・南区)を守る山口氏が今川方に投降し、逆に今川氏の勢力が尾張側に食い込むこととなった。

やがて、弟との争いを乗り切った織田信長は尾張の統一を進めて力をつけ笠寺を奪還、さらに鳴海城の周辺に砦を築き、鳴海城に篭った今川方の武将・岡部元信を攻囲するに至る。

これに対し、永禄3年(1560年)に今川義元は大軍をもって尾張へ侵攻した。

鳴海城をはじめ孤立した今川方の勢力を救援し、国境地帯の争いを劣勢から巻き返そうとした。

この戦役において勃発した合戦が桶狭間の戦いであり、主将義元を失った今川軍は三河から急速に勢力を後退させ、かわって松平元康(徳川家康)に率いられた松平氏が復興することになる。

まもなく松平氏は織田氏と同盟(清洲同盟)を結んだため、長らく続いた尾張・三河国境地帯の争いは沈静化していった。

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