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合戦名 小田原征伐
合戦の年月日 天正18年(1590年)2月 – 7月
合戦の場所 相模国小田原、関東一帯
合戦の結果 豊臣軍の勝利 後北条氏の降伏。
交戦勢力 豊臣軍 北条軍
指導者・指揮官 豊臣秀吉、徳川家康 北条氏直、北条氏政
戦力 153,000 82,000

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概要 (説明はWikipediaより)

関白太政大臣豊臣秀吉が、小田原北条氏(後北条氏)を降した歴史事象・戦役。

北条氏と真田氏(上杉氏)の間での領土紛争を豊臣秀吉が仲裁したが、この沼田領裁定の一部について、北条氏が武力で履行を行ったことが豊臣政権の惣無事令違反と看做され、北条氏は豊臣氏の軍事力による攻撃を受けた。

北条氏本拠であった小田原城の攻囲戦が著名であるため本項のような名称で呼ばれるが、本項では小田原城攻略戦だけではなく、並行して行われた後北条氏領土の掃討攻略戦も同戦役に含むものとして扱う。

小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。

後陽成天皇は秀吉に対し後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ。

北条氏直家臣の板部岡江雪斎が上洛し、秀吉は北条氏が従属の条件としていた沼田城(沼田領)の割譲について裁定を行った。

また、来年春または夏頃の上洛を氏政が提示したが、豊臣氏側に拒否されている。

当時、沼田一円は(一応、徳川氏の傘下という立場にあった)真田氏の支配下にあった。

秀吉は北条氏、家康から事情聴取を行い、沼田領の内3分の2を北条氏、3分の1を真田氏のものとする、秀吉からすると譲歩に近い裁定を行った。

また秀吉は、北条当主の上洛ののちに沼田を引き渡すとし、これに対し6月5日付で北条氏直より、氏政が12月初旬に上洛すると伝えた(岡本文書)。この上洛の約束より先立つ形、つまりここでも秀吉は譲歩する形で7月、秀吉家臣の富田一白と津田盛月、徳川家康家臣の榊原康政の立ち合いの下、沼田城は北条氏に引き渡され、真田氏には代替地として信濃国箕輪が与えられた。

秀吉は天正13年に関白に就任しており、この裁定は天皇から「一天下之儀」を委ねられた存在である秀吉が行ったもので、この裁定に背くことはすなわち天皇の意思に背くことをも意味した。

この時点では北条氏当主の12月中の上洛が前向きに検討されており、費用の調達や調整が行われている。

ただし、以降は後述の名胡桃城事件が起こるまで、北条氏から豊臣氏への音信・交渉は途絶える。

11月10日、秀吉は佐野房綱に対し、氏政の上洛が無い場合、北条氏討伐のために関東に出馬することを伝えた。

一方同年10月下旬、北条氏は真田領となった領分の拠点である名胡桃城に沼田城代猪俣邦憲を侵攻させ奪取、いわば先の秀吉の裁定を軍事力で覆した。

この事件は真田氏から徳川氏を通して秀吉に伝えられた。

北条方からは弁明の使者として石巻康敬が上洛し、豊臣氏側からは先の沼田城引き渡しと同じ津田盛月と富田一白が派遣されて関係者の引き渡し・処罰を求めたが、北条方はこれを拒否した。

秀吉はこの朱印状の中で「氏政上洛の意向を受け、それまでの非議を許し、上野沼田領の支配さえ許した。

しかるに、この度の名胡桃攻めは秀吉の裁定を覆す許し難い背信」であると糾弾した。

これに対して氏直は遅れて12月7日付の書状で、氏政抑留や北条氏の国替えの惑説があるため上洛できないことと、家康が臣従した際に朝日姫と婚姻し大政所を人質とした上で上洛する厚遇を受けたことを挙げた上で、名胡桃城事件における北条氏に対する態度との差を挙げ、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請した。

また名胡桃城事件については、氏政や氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返った結果であり、「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」「名胡桃城は上杉が動いたため軍勢を沼田に入れたにすぎない」、「既に名胡桃城は真田方に返還した」と弁明している。

しかし同時期、上野鉢形城主である北条(藤田)氏邦が下野の宇都宮国綱を攻めており、これも秀吉の施策に反する行為である。

11月、秀吉は関東の領主たちに「氏政の11月中の上洛がない時は来春に北条討伐を行う」ことを通知した。

11月21日付で真田昌幸にも書状を送り、「今後北条氏が出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免しない」「来春(年頭)に出兵する」旨を記している。

11月24日、秀吉が家康へ書状を送り、来春の出陣決定と陣触れを出したことを伝え、軍事の相談のため家康の上洛を要請した。

また津田盛月・富田一白を派遣して家康領内の駿河国沼津の三枚橋城に在番させ拠点地としての用意をさせること、北条からの使者石巻康敬は北条氏の返事次第で国境で処刑することも要請した。

このように家康に対しても北条討伐の意向を言明し、どちらかといえば北条氏と懇意であった家康の動向が注目されたが、秀吉と北条氏の仲介を断念した家康は12月に上洛し、秀吉に同意の意向を伝えるとともに自身も対北条戦の準備を開始した。

また、 同日付で秀吉は北条氏に対し、5ヶ条の宣戦布告とされる書状を送った。

この書状は12月5日に三枚橋城に着いた津田と富田により、北条氏へ届けられた。

秀吉は小田原征伐を前に、各大名に書状を発した。

その書状中に「氏直天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ。何ぞ天罰を蒙らざらんや・・・・・・。所詮、普天下、勅命に逆ふ輩は早く誅伐を加へざるべからず」と記し、すなわち「天道に背き、帝都に対して悪だくみを企て、勅命に逆らう氏直に誅伐を加えることにした」と述べている。

氏直は12月17日、北条領国内の家臣・他国衆に対して、小田原への翌年1月15日の参陣を命じた。

北条氏は小田原で籠城することを決定し、1月に軍事動員令を出している。

徳川家康は三男の長丸(後の秀忠)を事実上の人質として上洛させて、名実ともに秀吉傘下として北条氏と断交する姿勢を示すとともに、先鋒部隊を出陣させた。

この人質は即座に送り返され、秀吉は徳川に対し領内の軍勢通過の際の便と、領内の諸城の使用を要求している。

徳川は2月中にかけて、大軍勢の領内駐留・通過の便宜を図るべく、領内の城や舟橋、茶屋の整備を行った。

2月中に、豊臣秀次、徳川家康、前田利家、織田信雄ら各大名が出陣し、徳川軍三万が24日に長久保城に着陣。

この長久保城は北条方の山中城と10kmも離れていない位置関係である。

24日に織田信雄が三枚橋城に到着、25日に徳川が着陣。

3月3日に豊臣秀次、蒲生氏郷の軍勢が到着。

2月20日、志摩国に九鬼嘉隆、来島通総、脇坂安治、加藤嘉明、長宗我部元親、その他宇喜多氏・毛利氏らの1千隻を超える豊臣方の水軍が集結し、出航。

2月27日、駿河国清水港へ到着。輸送としても、大軍勢と長期の合戦を想定して、清水港には20万石を越える兵糧が運び込まれていた。

3月に入ると、水軍は秀吉の到達を待たずに伊豆長浜城を攻略。

以降、西伊豆の防御が手薄と見た徳川水軍は小浜景隆が土肥高谷城、八木沢丸山城[47]を占拠し、向井正綱と本多重次は安良里城と田子城を、と西伊豆の諸城と重要港を落としながら伊豆半島を南下した。

北条方は伊豆の南端の下田城を防衛ラインとして水軍を集結させており、西伊豆の諸城砦には少数の陸戦部隊しか配置していなかった。

3月1日、秀吉は後陽成天皇から北条氏の討伐を名目として節刀を賜り、聚楽第から大軍を率いて東国に下向した。

北方(中仙道)からはいわゆる北国勢(前田利家・上杉景勝・真田昌幸・依田康国)らが3月15日に碓氷峠へ進軍。

3月19日に秀吉が駿府城に入り、徳川がこれを迎えた。

27日、秀吉が三枚橋城に到着。

翌28日、秀吉は家康と共に北条方の拠点である山中城を視察して、長久保城に入った。

その他、出羽国の戸沢盛安や陸奥国の津軽為信ら東国・東北の諸勢力も秀吉の下に参陣し、所領安堵を受けている。

翌28日、北方では松井田城攻めを開始。

29日には箱根で山中城が攻められ、一日で陥落した。

後北条氏側は関東諸豪制圧の頃から秀吉の影を感じ始めていたと言われ、その頃から万が一の時に備えて15歳から70歳の男子を対象にした徴兵や、大砲鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど戦闘体制を整えていた。

また、ある程度豊臣軍の展開や戦略を予測しており、それに対応して小田原城の拡大修築や八王子城、山中城、韮山城などの築城を進めた。

また、それらにつながる城砦の整備も箱根山方面を中心に進んでいった。

一方、豊臣側では傘下諸大名の領地石高に対応した人的負担を決定(分担や割合などは諸説ある)。

また、陣触れ直後に長束正家に命じて米雑穀20万石あまりを徴発し、天正大判1万枚で馬畜や穀物などを集めた。

長宗我部元親や宇喜多秀家、九鬼嘉隆らに命じて水軍を出動させ、徴発した米などの輸送にあてがわせた。

毛利輝元には水軍を供出させたが、輝元当人には京都守護を命じて、後顧の憂いを絶った。豊臣軍は大きく2つの軍勢で構成されていた。

東海道を進む豊臣本隊や徳川勢の主力20万と、東山道から進む前田・上杉・真田勢からなる北方隊3万5千である。

これに秀吉に恭順した佐竹氏、真壁氏、結城氏、宇都宮氏、大田原氏、大関氏、里見氏らの関東諸侯勢1万8千が加わった。

豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら主力は小田原への道を阻む山中、韮山、足柄の三城を突破し、同時に水軍で伊豆半島をめぐって小田原に迫らせる方針であった。

一方、兵力で劣るとは言いながらも後北条氏側も、支配下の諸将に小田原籠城を命じ、5万余の兵力を小田原城に集め、そこから精兵を抽出して山中、韮山、足柄の三城に配置した。

主力を小田原に引き抜かれた各城の留守居部隊には、徴兵した中年男子などを宛てたが、守備し切れることを想定されてはいない。

佐江戸城などは城が空になったため、豊臣方に無抵抗で接収されている。

各方面から豊臣側が押し寄せてくるのは明らかであったが、それ以上に主力が東海道を進撃するのが明らかだったため、箱根山中での持久戦を想定した戦略を推し進めることになった。

氏邦、氏照、伊勢貞運らは野戦を主張したが、氏規や松田憲秀らは籠城策を主張した。

氏邦は領内ではなく駿河国に打って出て、富士川などで会戦を行いたいと主張したが、この野戦策が入れられないことに不満を持ち、手勢を率いて鉢形城に帰る事態となった。

こうして最終的に小田原籠城戦略が採られる事となった。

松井田城には大道寺政繁が率いる数千の兵が、さらに館林城などにも同程度の兵が割り振られていた事を考えると、小田原・箱根西方だけではなくその他の諸拠点、特に北方からの侵入軍を迎え撃つ城にもある程度の備えは配置されていたといえる。

天正18年(1590年)春頃から豊臣軍主力は、かつて源頼朝が平家打倒の挙兵の際に兵を集めた黄瀬川周辺に集結した。

3月27日には秀吉自身が沼津三枚橋城に到着し、29日に小田原城に向け進撃を開始、進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛ててそれぞれ攻撃を開始した。

山中城の攻撃軍の大将として秀吉は、兵数と官位のより高い家康ではなく、秀次と認識していたとする説がある。

北条方も西の関門であるこの城の重要性は重く考えていたようであり、武勇で知られた康郷ら松田兄弟のみではなく、一族の北条氏勝ら玉縄衆や間宮氏、蔭山氏らの援軍を、さらに諸家に命じて増援を割り当て、城に派遣している。

それでもなお、大要塞として構築してしまい、かつ開戦の直前までもなお工事が続けられ、豊臣氏に備えて足柄城などと共に増改築されていたが(岱崎出丸など)、故に未完であったともされる一大要塞である山中城を正しく完全守備するためには、4千人では全く人数が足りなかった、とも伝わる。

間宮康俊は前日に孫の直元を城から出し、小田原に送っている。

3月29日の朝8時半頃に豊臣方の攻撃が始まると、岱崎出丸(だいさきでまる)に攻め手が殺到した。

出丸守備の間宮康俊勢が銃撃などの猛烈な抵抗を行い、康俊は手勢を率いて突撃と退却を繰り返し奮戦、間宮衆は2時間ほど抵抗するが出丸は陥落した。

この際の一番乗りの戦功を挙げ、中村家の旗を掲げたのが渡辺勘兵衛(渡辺了)と伝わる。

攻め手は大手からの三の丸攻略の最中に一柳直末が銃弾にて討死するなどの損害を出したものの、なお力攻めを続けた。

これについて、功を焦った豊臣秀次が無策にひたすら力攻めを命じたとも伝わるが、岱崎出丸と大手に猛攻を加えることで守備を集中させ、一方で徳川軍に西の丸を攻略させることで、城の欠点と守備兵の不足を上手く突いている。

豊臣方は総大将の秀吉が長久保城に到着する以前から、山中城周辺についても調査を行っており、その調査を基に軍議を重ねている。

これにより城の縄張りおよび攻略の糸口を掴んでいたとも推測される。

多数の損害を出しながらも諸将の活躍により郭は次々と陥落、西の丸が陥落した段階で本丸の松田康長は、北条氏勝兄弟や弟の松田康郷を逃した。

松田康長は手勢2百と共に本丸の建物に籠っていたが、「櫓を守っていた100人ほどの将兵が、怒涛の大軍に押し寄せられて敵味方一丸となって櫓ごと堀に転落」するような状況で守備方は壊滅し、午前中のうちに城は陥落した。

松田以下、間宮兄弟、多米長定、長谷川近秀、追沼氏雅らは戦死し、北条方の戦死は約2千人とされる。

小田原の西の護りであり、鉄壁であるはずの山中城が、豊臣方の前に僅か数時間の戦闘で落城した。

この事実は小田原北条氏陣営に深く重い衝撃となった。

秀次の力攻めの方針により豊臣方にも結構な損害が出たが、それを上回るダメージを敵に与えたと言える。

その他、徳川勢別働隊は山中城落城の同日に鷹之巣城を落とした。

徳川軍は鷹之巣城に入城し、短期間だが本拠とした。

同じく箱根越えの要衝であった足柄城は佐野氏忠(北条氏忠)・北条氏光が守備していたが、山中城の陥落を知ると守将は主な兵をまとめて城を退出、小田原城守備軍に合流したため、翌日に徳川麾下の井伊直政隊が攻城を開始したが戦闘らしい戦闘はなく、4月1日に落城した。

河村城、河村新城などを含め、山中・足柄城を中心とした小城砦のネットワーク(箱根十城)も全て陥落ないしは放棄され、小田原城以西は豊臣方の勢力圏となった。

経路上の要害が次々と陥落したため、豊臣方の先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。

一柳直末の戦死を聞いた秀吉は深く落胆し、三日ほど口をきかなかった、という話が伝わる。

韮山城では攻撃側の10分の1の城兵が織田信雄勢を阻み、包囲持久戦となった。

そのため秀吉は、韮山城包囲のための最小限の兵力だけを残し、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。

籠城方は4ヶ月以上の間を凌いだが、秀吉が徳川家康を交渉役として派遣し、北条領内の城が次々に落城している北条方の現状を伝えて説得したため、元々非開戦派であった守将の氏規は降伏に応じ、以降は小田原開城のための説得工作に尽力した。

伊豆半島南部に位置し、北条水軍の根拠地であった下田城は、北条氏直から全任を受けた清水康英が守備した。

西伊豆の諸城から兵と船を引き上げ、防衛ラインとして下田城に全てを集中させた。

この用意は前年度中から既に始まっており、梶原景宗などが合流して兵2800にて防備する予定であったが、梶原ら主力は小田原城の海上防衛に当るために引き揚げた。

一説には清水と梶原による主導権争いにより、梶原が兵を引き連れて去り、これを小田原も容認した、とも伝わる。

大型の安宅船などを動員し、手薄であった西伊豆を3月以降の瞬く間に支配下に置いた豊臣方は、4月1日に下田城攻めを開始した。

西伊豆から上陸した部隊は陸路からも城に迫った。

この上陸部隊と交戦し、3月25日に岩殿寺城で清水英吉(康英弟)が戦死している。

加藤嘉明らは下田港に上陸し、街を焼いて出丸を占拠した。

4月1日に徳川勢の本多重次・向井正綱らが安良里砦・田子砦を落とした。

3月29日の山中城の落城により進軍速度が速まったこともあり、秀吉からは「水軍を速やかに小田原沖に展開し海上封鎖するように」との命が下った。

攻城側は長宗我部元親ら2500を残し、主力の羽柴秀長、宇喜多秀家などの残りの将兵は東伊豆を北上した。

清水康英は総兵600余で約20日に渡って籠城抵抗した。

長宗我部軍は海上から大砲を打ち込み、北条方に損害を与えた。

4月7日には江戸朝忠の叔父の江戸満頼が戦死した。

4月23日、脇坂安治と安国寺恵瓊が降伏を勧告し、康英は起請文を交わし開城した。

康英は河津の林際寺に退去した。

後北条氏配下の伊豆水軍の、最大の拠点を制圧した豊臣方の水軍部隊は、他の伊豆半島沿岸の水軍諸城をも落とし、小田原沖に展開して小田原市街の海上封鎖に加わった。

先に山中城落城から脱した蔭山氏広は居城の河津城に帰還していたが、子の蔭山貞広らと共に戦わずに開城した。

以後は修善寺付近で蟄居した。

先に山中城の落城の際に脱出し落ち延びた北条氏勝は、これを恥じて自害しようとしたが、家臣の朝倉景澄や弟の直重・繁広らに説得され、手勢700騎を率いて居城の玉縄城に逃げ戻り籠城した。

この際に小田原城の北を迂回するルートで玉縄に戻り、すなわち小田原城籠城軍に顔見せもなく合流することもなかったため、北条氏政に疑念を持たれている。

その後、徳川麾下の本多忠勝らを中心とした軍に城を包囲されるも抵抗らしい抵抗はせず、家康からの使者である都築秀綱・松下三郎左衛門や、城下の大応寺(現・龍寶寺)住職の良達による説得に応じ、4月21日に降伏開城。

開城後は徳川氏や古田重然、瀬田正忠らが守備した。

以降氏勝は豊臣方として、下総地方の北条方の城の無血開城に尽力する。

山中城と周辺の諸城を落とした秀吉本隊は、4月1日に箱根山に本陣を移した。

諸将は箱根を越えて小田原に進軍し、海からは伊豆を経由して九鬼嘉隆、加藤嘉明、脇坂安治らの水軍が迫った。

4月4日、徳川家康や堀秀政らが小田原の包囲を開始した。

5日、秀吉は箱根湯本の早雲寺を占拠し、当初この寺を本営とした。

この寺は小田原北条氏の家祖とも言える北条早雲に由来する、北条氏の菩提寺であった。

8日、韮山城を包囲していた軍勢の内、織田信雄らが小田原包囲に加わるために移動。

韮山城は蜂須賀家政、福島正則、戸田勝隆、筒井定次らが継続した。

この包囲が成されていく間、城方からは抵抗らしい抵抗は無かった。

9日、小田原城中にいた皆川広照が手勢100余と共に城を脱出し、木村重茲の陣に投降した。

またこの頃、参陣命令を受けていた安房国の里見義康が、浦賀水道を渡って三浦半島に進軍した。

小田原包囲戦が始まると秀吉は小田原城を見通せる石垣山に石垣山城を築き始めた。

また茶人の千利休を主催とし大茶会などを連日開いた。

茶々などの妻女も呼び寄せ、箱根で温泉旅行などの娯楽に興じた。

皆川広照が投降した際、一緒に茶人の山上宗二が投降してきた。

宗二は秀吉の勘気に触れて逃亡し、北条氏に世話になっていた身であった。

利休の執り成しにより秀吉はこれを許したが、茶席を儲けた際に不作法があり、宗二は処刑された。

5月27日、包囲の陣中にて堀秀政が病死した。

予想以上の進軍速度のせいでもあったであろうが、小田原に駆けつけた北条氏側の兵の中には、攻城側の包囲が完成してしまった後に到着してしまった者もいた。

だが秀吉は当人の希望通り籠城できるよう、包囲を通してやった、との話が伝わる。

北条氏側は北方軍の進軍を阻害するため、庇護していた相木房頼(常林。相木昌朝の子)、伴野貞長(元・佐久野沢城(伴野氏館)主)を信濃国に潜入させ、佐久郡の白岩城(平尾氏館)で挙兵させたが、これは徳川家から松平康国(依田康国)が派遣され即座に鎮圧され、伴野は敗死し相木は上野国方面に逃走している。

また北条方は碓氷峠に与良与左衛門を配して豊臣方の侵攻を阻害しようとした。

前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方軍は碓氷峠を越えて関東平野・上野国に侵攻せんとした。

松井田城主であり北条氏累代の重臣であった大道寺政繁はこれを碓氷峠で迎え撃つも、与良が真田勢の先方の真田信幸隊に打ち取られ、主力も真田軍と激戦になり、総兵力で圧倒的に劣勢であったこともあり、松井田城に退却し籠城した。

豊臣方は碓氷峠を越え、関東平野に侵入した。

北方隊は松井田城攻略に取り掛かった。

3月20日に総攻撃が行われたが、守る大道寺勢はこれを防いだ。

北方隊は城を包囲し、周辺地域に放火し、城塞を削るように攻撃を続けたが、城方の必死の抵抗により攻城は遅々として進まなかった。

北方隊は松井田城は包囲したまま、周辺の城塞を攻略してまわった。

一方の東海道方面では山中城が半日で落城したため、予想以上に小田原包囲が早まることとなり、北方軍は秀吉から松井田城攻略の督促を受けている。

焦った北方軍は攻城の勢いを増した。

守将の政繁は嫡子を脱出させ、自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に廓をひとつ、またひとつと落とされ、水の手を断たれ、兵糧を焼かれ、総攻撃から一か月後の4月22日に終に降伏開城した。

以降、政繁は北方隊の道案内をすることとなった。

前後して北方隊は4月17日頃に国峯城、宮崎城の諸城、厩橋城(4月19日)、箕輪城(4月24日)、白井城(5月15日)松山城(5月22日)、その他西牧城、石倉城、新田金山城、大胡城など上野・武蔵北西部の各城を開城または攻め落とした。

西牧城には72歳の多米周防守長宗なる将が武蔵国から派遣されていたが、攻め手の松平康国兄弟により城は陥落、多米は城近くの大岩の上で切腹したと伝わる。

ほとんどの各城はそれぞれ主力や当主自身が小田原城に籠城しており、留守を預かる程度の兵や城代家臣、近隣領民などしか籠城していなかったため、戦意が高かったとは言い難かった上、圧倒的な軍事力の差を前にしては降伏開城もしくは敗北する外の選択肢が無かった。

松山城では当主の上田憲定が主力を率いて小田原城にいたため、城代の山田直安以下、難波田憲次や金子家基、木呂子友則、若林直盛ら約2千300名が松山城に籠城したが、前田利家・真田昌幸・上杉景勝らに包囲攻撃されたために降伏開城した。

降軍の3千余騎が前田軍の先手に加わり、八王子城攻撃に参加した。

なお、この間に石倉城で松平康国が戦死している。

桐生城の由良国繁も小田原に籠城しており、留守の城は母親の妙印尼が守備していたが、妙印尼が国繁嫡男の貞繁を立てて桐生城を開城し、兵2千を集めて松井田城攻めに加わった。

これが評価され、戦後に妙印尼に対して常陸国牛久城5400石が与えられ、由良氏は存続することとなった。

4月末に前田利家は、降伏した大道寺政繁父子を伴って小田原包囲中の秀吉の下へ参陣している。

5月1日に自軍へ帰還しているが、護衛の軍勢を引き連れていたとはいえこの時点で既に、上野から小田原間に、豊臣軍の通行の妨害となるものが少なかったことが窺える。

なおこの往路で大道寺政繁は自城の河越城に開城勧告を行っている。

歴戦の要害・要衝である河越城の本来の守将は先に松井田城で降伏した大道寺政繁であり、城は政繁の子(養子)の直英(大道寺隼人)が大道寺氏の留守守備部隊を指揮していたが、政繁の降伏を受ける形で河越城も降伏開城し前田軍が入城している。

以降の大道寺氏の軍は秀吉方の道案内を務め、各城攻めにも加わっている。

武蔵国の平野部にある館や城は次々と開城もしくは陥落したが、奥地である秩父方面にまで豊臣軍が進出した形跡は乏しい。

浅羽城では当主の浅羽氏ら主力が小田原に籠城したため、生まれつき隻眼の姫や家老らで守備していたが、前田・上杉勢に攻められて落城し、姫は堀に身を投げた。

以来その堀跡の池では、魚は全て隻眼である、という伝説が残っている。

一方、東海道方面から進出した主軍は、圧倒的多数で小田原城を完全包囲していた。

秀吉は包囲勢から兵力を抽出し、北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵に進撃させた。

浅野長政に率いられた2万を越えるこの軍は前出の相模国玉縄城(4月21日)や佐江戸城、江戸城(4月27日)、と進軍した。

4月28日、秀吉は浅野隊に対し、河越城方面で北方隊と合流し、鉢形城を攻略するように命じたが、浅野隊は翌29日に葛西城(4月29日頃)を陥落させると、そのまま下総国方面に侵入した。

浅野長政や木村重茲、徳川家臣(本多忠勝・鳥居元忠・内藤家長・榊原康政・戸田忠次・酒井家次)、玉縄城の降将であり道案内および開城説得役の北条氏勝らで構成された下総方面軍は、小金城、守谷城、岡見氏の牛久城と東林寺城、土岐原氏の竜ヶ崎城、木原城、江戸崎城(5月5日)、原氏の拠点の臼井城(5月10日)、伝統ある武士団千葉氏の本拠であった本佐倉城(5月18日)、成東城、上総酒井氏両家の東金城と土気城(5月10日迄)、上総武田氏の真里谷城、庁南城、椎津城、坂田城、小見川城、北生実城(北小弓城)、万喜城、国分胤政の大崎城(矢作城)、簗田晴助・簗田貞助の水海城など、諸城を次々と開城させた。

このあまりの急進撃に、浅野に対して秀吉からは敵である房総諸将の不甲斐無さを詰った上で「房総諸城の攻略は(あまりに簡単過ぎて)戦功として認めない」とする書状が送られたほどであった。

ただし5月12日時点でも秀吉は浅野に対し、北方の鉢形城攻略軍に合流するよう指示を出していたため、相当な命令違反行動であり、5月20日には秀吉から浅野・木村両名へ、鉢形城へ向かわない件について長文の詰問状が送られ叱責されている。

つまらない城を二万の軍勢で請け取るのではなく、降城は二、三百人の使いを出して請け取ればいいから、早急に鉢形城に包囲軍に加われ、という旨が書かれている。

先の書状の20日時点での浅野らは、命に従い急ぎ軍を返して武蔵国方面に侵攻しており、寿能城や後述する岩付城を攻め、5月21日時点で岩付の二の丸・三の丸を落とした、と秀吉に知らせている。

秀吉は「一人残らず討ち果たせ」「女子供は全て連れてこい」と命じたが、浅野は開城条件として城兵の助命をしてしまっており、25日にこの件での再度叱責と、急いで鉢形城へ向かうように、との指示を受けている。

ただし浅野は降伏開城処理のため、6月1日迄岩付城に留まっている。

この軍は6月8日には北方軍の前田利家らと合流し、忍城攻めに加わったのち、前田や上杉らとやっと鉢形城の攻略に向かっている。

これら房総・武蔵の諸城の異常ともいえる速さでの陥落の理由は、北方の諸城と同じである。

各城が本来動員出来得る兵力のほとんどは、小田原城の籠城戦のために動員されており、当主や城主自身も小田原城籠城に参加していたために、どの城も最低限の守備兵すら確保できない状態での籠城戦となったためである。

例を挙げると、下総の小金城の高城氏の動員軍事力は豊臣側が作成した『関東八州諸城覚書』には700騎と記されているが、実際には城主の高城胤則ら大半が小田原城に籠城し、小金城が包囲された時に残されていた守備軍は200騎と軽卒300名であったとされる。

原氏の拠点のひとつ(北)生実城が攻略された際、城将の原胤栄が酒井家次に討ち取られたとする説がある。

当主を失った原氏はしかし、嫡男の原胤義が小田原城に詰めていたため、原邦房を名代に立てて臼井城に立て籠もったが、上述の通り開城している。本佐倉城の場合、北条氏からの養子である千葉直重も本来の血統の当主の千葉重胤も、共に小田原城に詰めていて留守であった。

北方戦線の箕輪城の場合、北条氏としては決して失いたくない重要拠点ではあったが、豊臣方の大軍勢と周辺諸城が続々と陥落していく中、その状況を見た城兵によるクーデターが発生し、主将の垪和氏が追放されて無血開城している。

ただし決して北条方が弱かったわけではなく、ある程度の兵士が確保されていた鉢形城や館林城、主将が指揮を執った前出の松井田城、東海道方面でも城主が守将となった伊豆方面の韮山城などは豊臣方も攻め倦み、それらの城を攻略する際は豊臣方にも相応の損失があり、進撃の速度は大幅に落ちている。

また、、山中城を脱出し、玉縄城で先に降伏した北条氏勝や重臣である大道寺政繁らの、元北条方の諸将による降伏開城の説得交渉に応じた城もあり、さらに彼ら降将による各城の攻略時の案内、具体的に言えば城の弱点のリーク、という情報的有利さも影響している。

有名な話としては、八王子城攻略の際に、降将から進言された裏門からの攻略を行った件が挙げられる。

岩付城は城主の氏房により、来たるべき豊臣軍の来襲に備えて城の防御力を上げるため、城を囲む長大な堀(惣構え)を新たに構築してあった。

しかし氏房以下の主力は小田原城に籠城したため戦力を欠き、付家老である伊達房実の指揮の下で数日間の激戦が行われたが、彼我の戦力差は如何ともし難かった。

19日に惣構えは破られている。

攻撃側は秀吉から、早々に鉢形城攻めに取り掛かるように、との再三の督促を受けていたため、城に対して持久戦ではなく火攻めと力攻めで圧した結果、籠城側は兵のほぼ半数である1千余人の死傷者を出したのち降伏した。

秀吉からは「岩付の兵は全て殺し、女子供は全て連行するように」との指示があったが、責任者の浅野は生き残った者や女子供を助命し、つまりは秀吉の指令を無視した。

この命令無視もまた、浅野は秀吉から叱責を受けている。

史料によっては本丸が降伏した際には非戦闘員しか生存しておらず、伊達房実以下の戦闘員は全て死亡していた、ともされる。

また、北条氏政妹の長林院が、城内の特に非戦闘員を指揮し、鼓舞していたとする話も伝わる。

開城後、除名された非戦闘員の内に長林院と太田氏房の室(小少将)がいたが、これを世話できるものがいなかったため、小田原征伐が始まる前に拘束されていた石巻康敬が派遣され、二人を保護した。

鉢形城城主の氏邦は北条当主一族であり、政治にも軍事にも功のある人物であった。

小田原城籠城策に反対して氏政らと意見が対立した。

氏邦は籠城より先に積極的な野戦迎撃を説き、駿河国に打って出ること、平野部での大規模な野戦を主張したが容れられなかった。

このため、小田原ではなく自城に帰還して籠城した。

後詰めもなく、彼我の差は10倍以上であったが、家臣らと籠城戦を戦った。

秀吉は鉢形城の動静を気にしていたらしく、小田原陣から分離した援軍の浅野軍に対し、北方軍と合流して早急に鉢形城を攻略するよう、何度も何度も指示を出している。

6月13日、忍城攻略を行っていた北方軍と浅野軍が分かれ、鉢形城の本格攻略に向かった。

浅野軍であった本多忠勝が近隣の山に大砲を運び上げ、城に向かって打ち込み始めると被害は甚大となり、城兵の助命と引き換えに守将の氏邦は開城した。

鉢形城攻将の前田利家が氏邦の助命嘆願を行い、氏邦は剃髪することで一命を許された。

身柄は前田の預かりとなり、前田領内の能登国津向(現在の石川県七尾市)に知行1000石を得た。

浅野長政と真田昌幸は忍城へ向かい、包囲軍に戻った。

忍・館林を攻略するよう命じられた石田三成・長束正家らは、下野方面の関東諸侯と合流し、館林城を攻めた。

5月29日に館林城を攻略し、忍城の攻略に移動した。

この落城の際、次のような話が伝わる。

館林城は築城時の狐伝説が残る城であるが、この城は沼地に囲まれた天然の要害であったため、数日間をかけて攻めるも効果が少なかった。

このため豊臣方は近隣の山から木材を伐採し、一日をかけて城の周辺に木道を構築して城攻めの道を作った。

翌朝から本格的な攻勢を行うつもりであったが、朝になるとこの木道はひとつ残らず消え失せていた。

警備の兵も誰も、異常に気がつかなかった。

石田三成・長束正家らは館林城を攻略したのち軍を返し、6月4日頃から忍城に取り掛かった。

忍城の成田氏当主の成田氏長と弟の泰親が小田原城に籠城したため、城は一族などの留守部隊と近隣の領民だけの寡兵となっていた。

当初の籠城軍の主は氏長の叔父の成田泰季であったが、籠城戦の始まる直前に死去したため、一族郎党相談の上で泰季の子の長親が指揮を執ることとなった。

当初は6月8日頃に前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら北国勢と、浅野長政や木村重茲・徳川勢からなる浅野隊が合流し、彼ら主導で忍城攻撃が行われたが、忍城は沼や河川を堀として効果的に利用した堅城であり、豊臣軍は攻めあぐねた。

秀吉からは利根川を利用した水攻めの指示があったが、石田三成は秀吉に対し、もっと積極的な攻勢をかけるべきではという伺いを行った。

しかし6月12日の秀吉からの返信では、三成に対し改めて水攻めの注意点を事細かに指示している。

翌13日、北国勢と浅野隊は離脱し鉢形城攻めに向かった。

攻め手は石田三成を大将、長束正家を副将として佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝、北条氏勝、多賀谷重経、水谷勝俊、佐野房綱などの常陸、下野、下総、上野の諸将を先鋒に、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置いて忍城を包囲し、利根川から忍城付近までの長大な貯水堤(石田堤)の築堤が進められた。

しかし予想に反して利根川の水量が貧弱であり、水攻めの効果は薄かった。

その後の増水により水攻めに光明が見えたが、城方が堤を一部破壊し、そこから決壊して豊臣方に溺死者が出た。

結果として城周辺は大湿地帯となり人馬の行動が困難になり、すなわち力攻めも困難となり、忍城攻めは7月に入っても続くことになる。

鉢形城を落とした浅野長政や真田昌幸・信繁親子らが増援となり攻撃は続いたが、秀吉は力攻めではなく水攻めを続けるように指示した。

その後の再三の攻撃も凌いだ忍城は落城しないまま、小田原城が先に開城してしまった。

小田原で降伏した氏長の説得により、忍城は開城した。

城の接収には浅野長政らが務め、この際の浅野指揮下に、秀吉軍に臣従した大田原晴清がいる。

八王子城攻めには、上杉景勝・前田利家らの部隊約1万5,000人が動員された。

当時八王子城は城主・氏照が不在で、場内には城代の横地吉信、家臣の狩野一庵、中山家範、近藤綱秀、設楽能久および近隣の農民・婦女子ら約3,000人が立てこもっていたとされる。

先に松井田城で降伏開城した大道寺政繁の手勢も攻撃軍に加わり、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し働いたとされている。

秀吉軍は前夜のうちから城の大手と搦手の双方から侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。

その後は激戦となり攻め手も1000人以上の死傷者を出し、一時は攻撃の足が止まったが、上杉景勝の下にいた藤田信吉の家臣の平井無心がこの周辺の地理に詳しく、抜け道を案内した。

絡め手側別働隊の奇襲が成功して、その日のうちに城は陥落した。

氏照正室の比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。

金子氏は城内にも、攻め手にも金子氏がいたため、同族が戦うこととなった。

城代の横地監物以下の残兵は、さらに奥地である平山氏重の守る檜原城を目指し檜原村に脱出した。

獲られた将兵の首は本来の城主である氏照も籠る小田原に運ばれ船に並べて堀に浮かべられ、または捕虜にした者を小田原城の城門近くに晒すなどして、八王子落城の現実を小田原城守備兵に見せ付けることで、豊臣方は小田原城の早期開城を迫った。

八王子よりさらに山間部にある檜原城にて平山氏重以下は奮戦したが、前田利家や上杉景勝らの軍勢に敵わず、7月12日に落城し、氏重ら平山一族は城下で自刃した。

この時、小田原城は既に開城となっていた。

以降、前田利家と上杉景勝は八王子城に在陣した。

5月9日、後北条氏と同盟を結んでいたはずの奥州の伊達政宗が、秀吉の参陣要請(要求)に応じて本拠から小田原へと向かった。

これにより、小田原城の外に北条氏を支援する勢力は無くなった。

開城への勧告は5月下旬頃から始められており、それに伴う交渉は、支城攻略にあたった大名たちなどによって、それぞれに行われていた。

6月に入る頃、小田原を囲む豊臣軍主力の陣中の風紀が乱れ始め、乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる。

この包囲中、戦らしい戦と言えば、7月2日に北条氏房(太田氏房)配下の広沢重信が蒲生氏郷・関一政勢に夜襲をかけ、広沢と蒲生が一騎打ちを行ったのが後北条氏側唯一と言える攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と6月25日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった。

それ以外は、互いの陣から散発的に鉄砲を射掛けるぐらいのものであった。

そんな中、後北条氏側から離反の動きが見えるようになった。

4月9日、小田原城に在陣中の皆川広照が豊臣軍に投降し、6月初旬には家康の働きかけによって、上野の和田家中と箕輪城家中が城外に退去している。

この6月に入る頃には、氏房、氏規、氏直側近らによって、親族の徳川家康と織田信雄を窓口とした和平交渉が進んでいた。

後世になって成立した『異本小田原記』では伊豆・相模・武蔵領の安堵の条件での講和交渉は行われ、同じく『黒田家譜』では、その講和条件を後北条氏が拒否したために秀吉が黒田孝高に命じて交渉に当たらせた事などが記されているが、実際のこの頃には後北条領は家康に与えられることになっていたと考察されており、伊豆は4月中旬には既に家康の領国化が始まっていた。

6月7日、織田信雄家臣の岡田利世が小田原城へ入り、氏直単独と二日間面談し、内容を徳川家康に報告している。

城中では講和開城の噂が流れていて、警戒が緩んでいたようであり、12日には氏直から小幡信貞に対し、城内の綱紀粛正の命が出ている。

同12日に氏政の母である瑞渓院と、継室の鳳翔院が同日に死去しているが、「大宅高橋家過去帳」の鳳翔院の記載から共に自害と見られている。

6月16日、北条氏重臣であった松田憲秀の長子の笠原政晴が、数人の同士とともに豊臣側に内通していたことを、政晴の弟の松田直秀が氏直に報告することで発覚し、政晴は氏直により成敗された。

6月22日、小田原城の篠曲輪を夜半の雨中に徳川家中の井伊直政が攻撃し、占拠した。

6月23日に落城した八王子城から守備隊だった者たちの多数の首と、将兵の妻子が城外で晒し者にされたことは、後北条氏側の士気低下に拍車をかけた。

残されていた北条氏の拠点城も、北の鉢形城は6月14日に守将の北条氏邦が出家する形で開城となり、伊豆の韮山城もまた6月24日に開城し、北条氏規は秀吉の元に出仕した。

八王子城の落城に続いて津久井城も開城した。

6月24日、黒田孝高と共に織田信雄の家臣滝川雄利が小田原城に入り、降伏勧告を行った。

先に降伏した氏規も小田原城に入り、降伏を説得している。

6月26日、小田原城を見下ろす石垣山に、関東初の近世城郭の威容を誇った「一夜城(石垣山城)」が完成したことも、後北条氏側に打撃をもたらした。

城中では後北条氏の一族・重臣が、豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く議論が紛糾した。

この印象が後世に強くなり、本来は「平時に月2回ほど行われていた、後北条氏における定例の施政方針重臣会議」を指すものであった「小田原評定」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになった。

また豊臣方はこの頃、城方を精神的に追い詰めるため、夜中に包囲軍全軍で城に向かって鉄砲の一斉射撃をやっていたとする話も残る。

7月2日、太田氏房勢が蒲生氏郷・関一政と織田信雄の陣に夜襲をかけた。

最後の意地とも言えるこの攻撃を予想していなかった蒲生陣は一旦取り乱すが、自ら槍を取った氏郷や蒲生郷可ら主従は奮戦し、これを退けた。

7月5日、氏直と太田氏房は滝川雄利の陣に向かい、滝川と黒田孝高を通して、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられた。

7月5日、滝川雄利の陣所へ赴いた氏直は、自身の切腹をもって城兵全ての赦免を願い出たが、赦免はともかく切腹は見送られた。

当初の開城・降伏の条件は

北条氏は武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。

氏直に上洛をさせる。

であったが、秀吉は前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁に開戦の責があるものとして、この四者に切腹を命じた。

7月7日から9日にかけて片桐且元と脇坂安治、榊原康政の3人を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。

7月10日、氏政と氏照は小田原城を出て徳川の陣所に入った。

7月11日、城下の医師田村安栖の屋敷にて、石川貞清・蒔田広定・佐々行政・堀田一継・榊原康政の検視役が見守る中、兄弟の氏規の介錯により切腹した。

氏規は兄弟の自刃後、自らも追い腹を切ろうとしたが果たせなかった、とも伝わる。

氏直は徳川家康の婿でもあったために一命は温存され、高野山に蟄居を命じられた。

7月21日、氏直は家臣ら30名ほどを連れて出立し、8月12日に高野山に入った。

翌年2月には早くも徳川家康を通して赦免の沙汰が伝えられ、5月上旬には大坂で旧織田信雄邸を与えられ、8月に1万石が与えられた。

しかし、11月に病死した。

北条氏は氏規の子孫が紆余曲折の後に河内・狭山藩の大名として豊臣・徳川期と存続した。

氏政と氏照の首は16日に京に送られ、聚楽第の橋に晒された。

一方、小田原城開城後も抵抗を続けていた忍城に対し、城主の氏長の小田原城での降伏を受けて使者が送られ、7月16日に開城した。

その後、氏長の娘の甲斐姫が秀吉の側室となって寵愛を受けたため、氏長に下野国烏山2万石が与えられた。

深谷上杉氏の本拠であった深谷城は、当主の上杉氏憲が北条に味方して小田原に詰めていたため不在の中、留守部隊を指揮した秋元長朝らが籠城抗戦を行っていたが、最終的に開城した。

戦後、深谷上杉氏は所領を失ったが、秋元長朝は関東へ入封した徳川氏に仕え、関ヶ原の戦いで上杉景勝の投降を促した功により大名となり、後に子孫から老中(秋元涼朝)を輩出した。

北条方に加わって豊臣軍と戦った者が江戸時代に譜代大名になった唯一の事例である。

7月12日には檜原城が落城し、八王子城の残党や平山氏らが自刃しているが、彼らに小田原開城が伝わっていたかは不明である。

7月13日、秀吉が小田原城に入った。

この日、徳川氏の関東転封が公表された。

ただしそれ以前からこの方針は伝えられていたようであり、徳川家臣の松平家忠の日記『家忠日記』の6月20日条に「国替わり近日の由」と記されている。

また、国替えの準備のために、徳川家康は家忠に本国へ一旦帰還するよう命じている。

7月初頭は豊臣氏からの所々への発給文書が多いが、7月半ば頃より徳川氏発給の書状が残る。

また同時期に、榊原康政や鳥居元忠らの一部の家臣には知行が申し渡されている。

ただしこの時期の徳川氏の関東経営には、いまだ秀吉陣営の幕僚の手が多く加わっている。

さらに徳川家臣の井伊直政や本多忠勝のそれぞれの配地の割り当てにすら、秀吉の意見が大きく関与していたと推測される書状が残る。

翌8月1日には徳川家康が江戸城に入り、9月迄には家臣らに知行が割り当てられている。

8月1日は豊臣軍は宇都宮に駐屯し、以降は奥州へ向かったたが、徳川は後述される織田信雄改易の執り成しのために、7月末に宇都宮に参陣しているため、1日に戻ってきたと考えられる。

伊豆国に関しては4月中に徳川氏に与えられている。

7月16日、秀吉が小田原城を出発。

秀吉はその後、奥州を平定した源頼朝に倣って、鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り鶴岡八幡宮に奉幣、19日に江戸城着、20日に出発。

7月26日、同じく頼朝に倣って宇都宮大明神に奉幣して宇都宮城へ入城し1週間ほど滞在、関東および奥州の諸大名の措置を下した(宇都宮仕置)。

その後、豊臣家の大軍勢は伊達政宗の案内により、北上し陸奥国へ向かった。

後北条氏の旧領はほぼそのまま徳川氏に宛がわれることとなったが、空いた徳川旧領(三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国一部など)への国替えを秀吉に命じられた織田信雄は、この命令を拒んだたため改易され下野国烏山城に蟄居させられた。

この改易により、秀吉の旧主家の織田氏は勢力を失い、北条氏を短期間に攻め滅ぼした上で国持ちの大名であり正二位内大臣の旧主家であろうとも改易できる秀吉の実権力が確定し、同時に官位・所領の両面において、徳川家康が豊臣政権の大名として一の実力者と確定した。

また前述の秀吉の裁定で、真田氏が北条氏に譲っていた上野国沼田城は真田に返還された。

秀吉の怒りを買った里見義康は、徳川家康が執り成したこともあり、安房国一国は安堵された。

しかし上総国の所領は没収されて徳川氏に与えられた。

常陸国は一国が佐竹義宣に与えられた。

この豊臣政権の御墨付きを後ろ盾として、佐竹氏は常陸中部の江戸重通や大掾清幹を滅ぼし、さらに天正19年(1591年)2月には、常陸南方の鹿島・行方両郡の南方三十三館と称される鹿島氏など大掾氏一族の国人領主を太田城に招いて謀殺するなどして常陸国内を統一を達成した。

ただし徳川氏と同様に、領内の知行割には豊臣政権の干渉があり、豊臣政権に近しかった東義久に多くの所領が与えられた。

上野国の沼田城は、本来ここを北条氏と争っていた真田昌幸に与えられたが、沼田領は昌幸の長男の信幸が半独立での城主とされ、同時に徳川氏の与力大名とされた。

8月中の奥州仕置などを経て9月1日、豊臣秀吉は京に帰還した。

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