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合戦名 河越城の戦い
合戦の年月日 天文15年4月20日(1546年5月19日)
合戦の場所 武蔵国河越城
合戦の結果 北条軍の勝利、上杉朝定の敗死による扇谷上杉氏の滅亡、古河公方、関東管領家の弱体化
交戦勢力 北条軍 山内上杉家、扇谷上杉家、足利古河公方
指導者・指揮官 北条氏康、北条綱成、多目元忠、千葉利胤 上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏、関東諸将
戦力 3000、8000 80000

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦いをいう。

北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年(大永4年)から4度にわたる争奪戦が展開された。

「河越城の戦い」で特に有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の天文15年(1546年)の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」(かわごえよいくさ)である。

河越夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。

河越城の戦いは、約10倍の兵力差を覆しての勝利として、戦史上高く評価されているものの、不明な点も多く更なる研究が待たれる合戦である。

室町時代後期から、関東地方の覇権を巡り、古河公方と関東管領が対立し(享徳の乱)、さらに関東管領の上杉氏の内部において関東管領を世襲する本家筋の山内上杉家と相模、武蔵を地盤に力をつけた庶家の一つ扇谷上杉家とが対立(長享の乱)してきた。

その間隙を縫い、扇谷上杉家領であった相模において北条早雲が台頭、扇谷方の大森氏、三浦氏を滅亡させるなど勢力を広げた。

早雲の子の北条氏綱は、永正の乱で古河公方、関東管領双方が内紛で混乱する中、武蔵に進出し、江戸城、次いで天文6年に武蔵の枢要の地であり扇谷上杉家の当主上杉朝定の居城・河越城を落とし、扇谷上杉家を滅亡寸前まで追いつめていた。

しかし、氏綱が没し、跡を継いだ嫡男北条氏康は継承早々に一大危機を迎える。

天文14年(1545年)7月下旬、今川義元が関東管領の上杉憲政と内通して背後から挙兵、駿河の北条領に侵攻する。

氏康は駿河に出陣するものの武田氏までもが出陣してきたために状況は不利であり、更に在陣中に両上杉の大軍によって河越城が包囲されたという状況が知らされた。

そのため10月下旬に武田晴信(信玄)の斡旋で義元に譲歩することで屈辱的ながらも和睦を成し遂げた(第二次河東一乱)。

11月初旬には誓紙を交換した後に条件が履行され、氏康は挟撃されている絶体絶命の危機の中で西方を収め、関東方面へ転戦できる状況を得た。

関東方面では氏康の妹婿であった古河公方の足利晴氏は、関東管領(山内上杉家)に支援され、路線を変更して兵を動員、山内上杉家と扇谷上杉家の両上杉家も和睦し、三氏は同盟を締結して武蔵を確保するため共通の敵・北条氏への総反撃を決定、一部の北条方の武士を除く関東の武士すべてに号令をかけ、上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏それぞれが自ら自軍を率いて、北条氏の拠点・河越城の奪還を開始した。

天文14年9月26日(1545年10月31日)、関東管領の山内上杉家(上杉憲政)、扇谷上杉家(上杉朝定)、古河公方の足利晴氏、その他関東諸大名連合軍は約80,000の大軍をもって北条氏の河越城を包囲した。

一説によれば関東の全ての大名家が包囲軍に参加して、加わらなかったのは下総の千葉利胤のみだったともいわれている。

山内憲政は城の南に陣を張り、扇谷朝定は城の北、など三方を包囲した。

河越城は氏康の義弟・北条綱成が約3,000の兵力で守備していたが、増援がなければ落城は時間の問題であったため、今川との戦いを収めた氏康は本国から約8,000の兵を率いて救援に向かった。

またこの間太田資顕(全鑑)の調略に成功し、河越城へのルートを確保している。

食糧を十分に蓄え籠城した綱成は半年も耐え抜き、戦況は数ヵ月間膠着状態であった。

この間、長陣に飽きて上杉方の戦意は低下し、軍律は弛緩していた。

氏康の救援軍にいた福島勝広(北条綱成の弟)が使者を申し出て、単騎で上杉連合軍の重囲を抜けて河越城に入城、兄の綱成に奇襲の計画を伝えた。

氏康は連合軍に対して偽りの降伏を申し出て詫び状を出し続ける。

まず、足利晴氏に対して、諏訪左馬助に依頼し、「城兵を助命してくれれば城は明け渡す」と申し入れ、上杉方には常陸の小田政治の家臣である菅谷貞次に依頼し、「綱成を助命してくれるならば開城し、今までの争いについても和議の上、我らは公方家に仕える」と申し入れた。

だが上杉軍は受け入れず、逆に北条軍を攻撃したが、氏康は戦わずに兵を府中まで引いた。

これにより上杉連合軍は北条軍の戦意は低いと判断し、およそ10倍近い兵力差もあって楽勝気分が漂う。

天文15年4月20日(1546年5月19日)の夜、氏康は自軍8,000を四隊に分け、そのうち一隊を多目元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。

そして氏康自身は残り三隊を率いて敵陣へ向かう。

子の刻、氏康は兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせ、山内・扇谷の両上杉勢の陣へ突入した。

予期しない敵襲を受けた上杉勢は大混乱に陥り、扇谷上杉軍では当主の上杉朝定、難波田憲重が討死、山内上杉方では上杉憲政はなんとか戦場を脱出し上州平井に敗走したが、重鎮の本間江州、倉賀野行政が退却戦で討死した。

氏康はなおも上杉勢を追い散らし敵陣深くに切り込むが、戦況を後方より見守っていた多目元忠は危険を察し、法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせた。

城内で待機していた「地黄八幡」綱成はこの機を捉えて打って出ると、足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入した。

既に浮き足立っていた足利勢も綱成軍の猛攻の前に散々に討ち破られて本拠地の古河へ遁走した。

一連の戦闘による連合軍の死傷者は13,000人から16,000人と伝えられている。

この戦いの結果、当主を失った扇谷上杉家は滅亡、本拠平井城へ敗走した関東管領の山内上杉家も戦いを契機にこの後急速に勢力を失った。

上杉憲政は劣勢挽回を意図して信濃の村上義清らと上信同盟を結び、後北条氏の攻勢に対抗することを目論んだ。

しかし、村上氏らとの同盟を結んだことによって信濃侵攻を目指す武田晴信(信玄)との対決を余儀なくされ、小田井原の戦いにおいて再び多数の将兵を失った。

このような状況下、憲政を見限って後北条方に帰順する配下が相次ぎ、憲政は居城の平井城を追われて長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り越後へ落ち延びることになる。

同じく敗走した古河公方の足利晴氏もこの直後に御所を包囲され降伏、隠居した。

その際、長男であった藤氏ではなく、北条氏出身の母をもつ次男の義氏に家督を譲らざるをえなくなり、自身は幽閉を余儀なくされた。

一方、北条家は関東南西部で勢力圏を拡大し、戦国大名としての地位を固めることになる。

甲相駿三国同盟の締結により駿河今川家や甲斐武田家との対立に終止符を打つと、関東制覇を目指し越後の上杉家(長尾氏)や常陸の佐竹家、安房の里見氏との抗争に突入する。

この戦いによって、関東公方たる足利家と、その執事である関東管領の権威と軍事力は決定的に失墜し、代わりに後北条氏をはじめとする戦国大名が躍進した。

このことは、関東・東国において室町時代の枠組みが消滅したことを意味している。

それと共に後北条氏の関東での権力をたしかにした戦にもなった。

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