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合戦名 有岡城の戦い
合戦の年月日 天正6年(1578年)7月 – 天正7年(1579年)11月19日
合戦の場所 摂津有岡城周辺
合戦の結果 織田信長軍の勝利
交戦勢力 織田信長軍 荒木村重軍、雑賀衆増援軍
指導者・指揮官 織田信長、織田信忠、津田信澄、斎藤利治、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就、稲葉良通、羽柴秀吉、細川藤孝、池田恒興、丹羽長秀 荒木村重、荒木村次、荒木重堅、高山右近、中川清秀
戦力 約50.000/span> 約10.000~15.000

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概要 (説明はWikipediaより)

天正6年(1578年)7月から翌天正7年(1579年)10月19日にかけて行われた籠城戦。

織田信長に帰属していた荒木村重が突然謀反を起こしたことに端を発する。

「伊丹城の戦い」とも呼ばれている。

天正6年(1578年)7月、三木合戦に参戦し、羽柴秀吉軍に属していた荒木村重は、織田信長に謀反を起こし戦線を離脱し居城であった有岡城(伊丹城)に帰城した。

田中義成によると、謀反の原因は信長の部下に対する苛酷な態度にあったのではないかとされている。

村重は波多野氏の氏族と言われており、37万石の所領で信長より摂津守護を拝命している。

『陰徳記』によると石山合戦で信長と交戦中の石山本願寺へ毛利勢と通じた村重が兵糧を密かに搬入したとの噂が流れたり、信長の命により石山本願寺に和睦の交渉役として出向いた時に、城内の困窮ぶりを目のあたりにし、交渉を有利にすすめるために単独で米100石を提供したという説や、『武功夜話』では神吉城の攻城戦で城内の内通者であった神吉貞光(藤太夫)は村重と旧知の間であったため、落城後羽柴秀吉は貞光の助命を許した。

しかし、貞光は直後に別所長治のもとに走って羽柴軍と対することになる。

ためらいもなく別所のもとに走ったことから、貞光と村重は通じており、村重も疑われることになったという説を記している。

天野忠幸は摂津国内の状況に着目し、織田政権の下での支配強化の動きに反発する摂津の国人や百姓の間で信長への反抗の動きが急激に高まり、彼らによる下からの突き上げを受けた村重は彼らに排除されるよりも先に彼らに呼応する形で信長との決別を選択したとする説を唱えている。

また天野はこれまで石山本願寺の地元でありながら石山戦争に対して中立の態度を取っていた摂津西部の一向門徒が村重の謀反を機に立ち上がり、終盤(花隈城の戦い段階)では本願寺と信長の停戦に反対する教如(顕如の長男)を支持する彼らが信長との戦いの主力になっていったとしている。

このように、様々な説があり何が原因で謀反に及んだのか、真相はよく解っていない。

荒木村重の謀反に驚いた信長は、糾明の使者として明智光秀、松井友閑、万見重元を有岡城に派遣した。

光秀の娘は村重の嫡男・荒木村次の妻となっていたため、親戚の縁で選ばれたと考えられている。

これを聞いた高槻城の高山右近も有岡城へ説得に向かい、村重が信長から受けた恩義や、信長に勝つのは不可能なこと、敗北した際には厳罰が下るであろうことを説いた。

右近はまた、彼らの疑念を解くために、すでに村重に2名の人質を差し出していたにもかかわらず、さらに長男まで人質として預けた。

村重は一旦はこれらの説得を聞き入れ、母親を人質に釈明すべく、息子と共に安土城へ向かった。

しかし道中の茨木城に立ち寄った際、家臣から通達を受ける。

『立入左京亮入道隆佐記』によると「安土城に出向くのはもってのほか、安土城に行って切腹させられるより、摂津国で一戦に及ぶべき」と中川清秀に引き止められたとしている。

フロイスの「日本史」によると、村重の家臣らは「自分たちは信長につく気はなく、ただちに引き返してこない場合、他の者を領主とする」と言ってきたという。

これを受け、村重は不本意ながらも有岡城へ戻り、信長への逆意を明らかにした。

織田軍の中には村重の出世を快く思っていない者もいた。

細川藤孝は信長に対して「村重に反意あり」と謀反三か条なるものを信長に差し出していた。

信長と対決するにあたり、村重は足利義昭、毛利輝元、顕如のもとに人質と誓書を差し出し同盟を誓った。

また村次の妻となっていた光秀の娘は離別させ光秀の元に帰らせた。

この報に接した信長は福富直勝、佐久間信盛を派遣し、更に同年11月3日に二条城に移り、光秀、松井友閑、羽柴秀吉を有岡城に向かわせた。

村重はこれに対して野心はないと答えたが、人質に母親を差し出せとの信長の命に従わず、交渉は決裂した。

この後小寺孝隆(黒田孝高)が単身有岡城に来城したが、そのまま村重によって幽閉された。

同盟関係にあった小寺政職の手前、捕えて牢獄に閉じ込めてしまったのではないかと思われている。

[sengoku-2]

両者の争いは決定的になり、村重は織田軍に備えるため広範囲に配置した。

これは石山合戦の包囲網を備えるために信長が村重に命じて築城、修築させたりした城である。

一方信長は石山本願寺と村重の両軍を敵に回すのは得策でないと考えたのか、村井貞勝を使者とし石山本願寺に和議を申し入れた。

石山本願寺は毛利氏の承諾が必要とし、すぐには快諾とはならなかった。

そのような時、11月6日の第二次木津川口の戦いで織田水軍の鉄甲船が出撃し毛利水軍を大敗させた。

補給路が途絶えた石山本願寺の戦力は幾分和らいだとみたのか、11月9日に信長は山城と摂津の国境にある山崎に5万の兵力で進軍、翌10日に滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就らが茨木城を攻囲する一方、荒木軍の切り崩しにかかった。

右近についで茨木城の中川清秀も帰服し、大和田城、多田城、三田城が信長に寝返ったため村重は孤立した。

その上荒木軍の兵は逃亡、1万~1万5千の軍勢は5千にまで減じた。

ここに至り戦局有利と見た信長は石山本願寺との和平交渉を打ち切り、11月14日、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就、稲葉良通、羽柴秀吉、細川藤孝軍と荒木村重軍の先鋒隊が激突した。

その後信長も有岡城と猪名川を挟んだ古池田(池田城)に本陣を移して有岡城を攻囲した。

池田城は村重の元居城で、この当時は廃城になっていたと思われている。

織田軍は、まず別動隊として動いていた滝川一益、丹羽長秀隊が同年12月4日兵庫の一ノ谷を焼き払い塚口付近に布陣した。

本格的な攻城戦は12月8日酉刻(午後六時頃)からで、まず織田軍の鉄砲隊が有岡城に乱射し、次いで弓隊が町屋を放火した。

しかし有岡城は戦国時代の城としては珍しい総構えの城で守りが堅く、夜の暗さで攻め切れず、逆に戦闘が終了した亥刻(午後十時頃)には織田軍は万見重元ら多くの近臣と2千兵を失うことになる。

その後信長は有岡城の周りを固めて11日には古池田まで陣を戻し、15日には安土城に帰城してしまった。

『信長公記』では有岡城の記述が減っていき、信長が鷹狩りを楽しんでいる記述が増えてくるが、このことより『町を放火候なり』によると「信長は一旦持久戦に持ち込むことにした」と解説している。

12月8日の戦いが思いのほか損害が大きかったことから力押しの攻城戦を変更し、兵糧攻めに切り替えられたと思われている。

織田軍は有馬から山崎までの広範囲に布陣して長期化の様相となってきた。

村重は毛利軍と石山本願寺軍の後詰を期待していたが増援軍は現れなかった。

食糧も欠乏しつつあり、士気を高めるため信長の嫡男・織田信忠隊がいる加茂砦に翌天正7年(1579年)の正月明け夜襲をかけた。

加茂砦には信忠が率いる美濃・近江3千兵が陣を張っていて、そこに村重自身が指揮をとり5百兵を北ノ砦より出撃させ3町離れた加茂砦の西方より火を放って切りかかった。

また東に待ち伏せていた一隊は、逃げてくる敵を押しつつ討ち取っていった。

加茂砦の急襲を知った刀根山砦にいた兵たちが直ちに信忠隊の救援に駆け付けたが、馬や兵糧を奪われて加茂砦は炎上した後だった。

信忠は無事であったが「荒木村重軍強し」との評判は京都まで伝わり今様が流行るまでにいたった。

織田軍はその後警戒が厳重になり、信長自身も有岡城に督戦に訪れたりした。

同年4月18日に有岡城方より討って出て有岡城の城兵3兵が討ち取られたようだが、それ以外の記述はなく9月までの戦闘経緯は不明である。

9月2日夜半、村重は5,6名の側近を引き連れ、夜間に船で猪名川を下って、嫡男村次がいる尼崎城(大物城)へ移っていった。

[sengoku-3]

三木合戦もそうであったが、毛利氏は援軍の約束をしながら、花隈城や尼崎城を通じて兵糧補給をしていたが、1年経っても援兵は来ないので、このままでは城を持ちこたえるのは不可能と判断し、家臣を使者としても効果はなく、村重自ら安芸に出向き毛利氏と直接交渉しようとしたのではないかと説明している。

『戦国の武将たち』では「茶道具は毛利への手土産とみることができる」としている。

また、天野忠幸は毛利軍から支援を受ける上で内陸の有岡城の不利を指摘し、むしろ戦略的判断から海岸沿いの尼崎へと移ったとする。

村重の逃亡は伏せられていたが、信長の間者に知られるところとなり、12日に有岡城の攻城軍の半数を信忠が総大将として尼崎城へ向かわせた一方、滝川一益は調略を開始した。

上﨟塚砦にいた砦の守将の中西新八郎と副将の宮脇平四郎に村重の逃亡の事実を使い寝返りを誘い、それに成功した。

一益は「進むも滝川、退くも滝川」といわれた戦術家で、調略の才も秀でていた武将であった。

10月15日亥刻(午後十時頃)、織田軍は有岡城に総攻撃を開始した。

有岡城の城兵はただちに各砦へ配置し臨戦態勢を整えた。

しかし上﨟塚砦に押し寄せた滝川隊は、何の抵抗も受けることなく城内へ侵入した。

これは中西新八郎と宮脇平四郎のみが裏切ったわけではなく、中西らの説得に応じた守備兵力の足軽大将らが加わったためである。

総構えの有岡城であったが内側からの攻撃には弱いため、守備兵は討ち取られていき、北ノ砦の渡辺勘太郎、鵯塚砦の野村丹後の両大将は降伏を申し出たが受け入れられず、切腹した。

増援軍の雑賀衆も白兵戦には弱くほぼ全滅した。

総構えの城とは城内に百姓、町人の住居も多数ある。

織田軍は城内を焼き討ちにし郷町から侍屋敷へ火の手が広がっていった。

非戦闘員は二の丸に逃れたが、そこに織田軍が突入してきたので本丸に後退していった。

本丸は三方を堀で囲まれ、南側は空堀を隔てて二の丸に面しており、織田軍も本丸への侵入は不可能であった。

11月19日、城守をしていた荒木久左衛門は開城を決意、津田信澄が接収部隊を率いて本丸に入城した。

ここに有岡城の戦いの戦闘は終結することになる。

荒木久左衛門が開城を決意したのは、信長から講和の呼びかけがあり「荒木村重が尼崎城と花隈城を明け渡すならば、本丸の家族と家臣一同の命は助ける」とした為である。

久左衛門は手勢300兵を率いて尼崎城に向かったが、村重はこの説得に応じなかった。

フロイス日本史では、村重は大坂の仏僧(=石山本願寺)と協議したが、仏僧は全然同意しなかったとある。

『戦国の武将たち』によると、この時尼崎城には毛利氏、石山本願寺、雑賀衆の御番衆もいたので、村重の意見は通らなくなってしまったとしている。

村重の説得を約束していた久左衛門は信長に顔向けできないと思ったのか、300兵ともども姿をくらましてしまった。

この報告を聞いた信長は、「荒木一族は武道人にあらず」と人質全員を処刑するように命じた。

まず村重の室(継室もしくは側室)だしら荒木一族と重臣の併せて36名が妙顕寺に移送、ついで12月13日辰刻(午前9時頃)に尼崎城の近く、信忠が陣をはっていた七つ松に有岡城の本丸にいた人質が護送され、97本の磔柱を建て家臣の妻子122名に死の晴着をつけ、鉄砲で殺害されたようである。

それが終わると男性124名、女性388名が四軒の農家に入れられ、生きたまま農家ごと火をつけたようである。

一方妙顕寺に移った36名は、同時刻に妙顕寺を出立し京市中引き回しの上、六条河原で首を討たれていった。

この中には久左衛門の息子荒木自然(自念、14歳)、懐妊中であった荒木隼人介の妻(20歳)も含まれている。

その後村重は12月中に尼崎城を抜け出し、花隈城に移動してくる。

そして花隈城の戦いへと続いていき、ここでも敗れると毛利氏のもとに亡命していく。

なお、高山右近の人質は彼に返却。

高山友照は越前で牢に入れられ、しばらく後に許されている。

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