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合戦名 第二次月山富田城の戦い
合戦の年月日 1565年~1567年
合戦の場所 出雲国の月山富田城
合戦の結果 月山富田城陥落(出雲尼子氏滅亡)
交戦勢力 毛利軍 尼子軍
指導者・指揮官 毛利元就、吉川元春、小早川隆景 尼子義久、尼子倫久、尼子秀久
戦力 30.000~35.000 10.000

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概要 (説明はWikipediaより)

1542年から1543年・1565年から1566年に尼子氏の本拠である出雲国の月山富田城(現:島根県安来市)を巡って発生した合戦である。

周防・長門を攻略して大内氏を滅ぼして勢力を拡大した毛利氏は、石見銀山を巡って尼子氏と対立していたが、弘治2年(1556年)の忍原崩れと永禄2年(1559年)の降露坂の戦いでは敗れていた。

しかし、永禄3年(1561年)12月に尼子晴久が亡くなると、嫡男尼子義久が家督を継いだ後に、雲芸和議を経て永禄5年(1562年)には石見銀山を手中に収めることに成功する。

一方の尼子側は、家臣団における不和や雲芸和議による不満の噴出もあって、出雲西部・南部国人衆の多くは毛利側へと離反していた。

永禄5年(1562年)7月3日、元就は3人の息子と軍勢を率いて吉田郡山城を出陣。

途中、九州の大友宗麟が豊前の毛利氏領を脅かしたため、毛利隆元は遠征軍から離れてその対応に当たった。

毛利軍は石見路を経由して出雲国へ侵攻、12月には宍道湖北岸に本陣となる洗合(あらわい)(荒隈)城を築いた。

月山富田城の防衛網である「尼子十旗」と呼ばれる支城群のうち、赤穴城や三沢城などいくつかの城は戦わずして毛利に降っているが、白鹿城などは毛利軍に抵抗。

白鹿城には城主の松田誠保とその父松田満久、さらに援軍である尼子氏家臣牛尾久清が軍勢を率いて籠もっていた。

白鹿城は月山富田城の日本海側の玄関口ともいうべき役割の城で、月山富田城を孤立させるためには、この城を落とすことにより船で日本海から兵糧を運び込ませるのを防ぐ必要があった。

白鹿城攻略のため、白鹿城の北にある真山(新山)城を元春が占拠して布陣し、さらに和久羅山を押さえ、中海に児玉就方麾下の水軍を派遣して封鎖するなど、白鹿城と月山富田城の分断を進めた。

永禄6年(1563年)、幕府の仲介を得て大友氏との和議を結んだ隆元は、遠征軍に合流すべく白鹿城に向かう途上に安芸の佐々部で急死した。

元就は悲しみを顔に出さず「隆元への追善は尼子氏の撃滅のほかになし」と将兵を諭したので、全軍の士気は奮い立った。

8月13日の夜に総攻撃が行われ、小白鹿城と呼ばれる出丸を占拠し、牛尾久清にも手傷を負わせたものの、本丸を落とすことはできなかった。

また、元就は石見銀山から鉱夫を数百人呼び寄せて、白鹿城の水を絶つために坑道を掘らせたが、毛利氏の掘り進める坑道に気付いた籠城軍は妨害した。

なお、この戦いの最中には、矢文の戦いがあったとの逸話が残されている。

9月下旬になって、尼子側は義久の弟である尼子倫久らが援軍を白鹿城に送ったが、毛利軍の包囲網を突破することはできなかった。

後詰が敗退したことで城兵の士気は下がり、10月に降伏した(白鹿城の戦い)。

白鹿城を制圧した毛利元就は、尼子氏の拠点を次々と制圧した。

毛利水軍によって海上も封鎖し、福原貞俊に鉄砲隊を与えて海岸線の守りを固めており、永禄8年(1565年)春頃には月山富田城への補給線はほぼ断ち切られていた。

4月17日、毛利軍は月山富田城への総攻撃を行った。

月山富田城には城内に通じる道が3つあるため、正面の御子守口(おこもりぐち)を元就率いる軍勢、南側の塩谷口(しおだにぐち)を元春の軍勢、北側の菅谷口(すがたにぐち)を隆景の軍勢が攻めた。

それに対して尼子軍は、御子守口を尼子義久率いる軍勢、塩谷口を尼子倫久・山中幸盛らの軍勢、菅谷口を尼子秀久らの軍勢で防いだ。

この時、隆元の嫡子・毛利輝元と、元春の嫡男・吉川元長が初陣として参戦している。

しかし、士気旺盛な尼子軍は善戦し、連日攻め立てる毛利軍の城内侵入を阻止した。

28日に総攻撃を中止した元就は、洗合城に一時撤退した。

同年9月、再び毛利軍は月山富田城を包囲した。

この時、飯梨川を挟んで対峙していた両軍の中で、山中幸盛(鹿介)が品川将員(狼介)を一騎討ちで討ち取ったとされる(山中幸盛・品川将員の一騎討ち)。

しかし、毛利軍は力攻めを行わずに兵糧攻めを続けたため、やがて城内の兵糧が窮迫した。

その頃には投降者も出始めていたが、毛利側は城兵の降伏を一切認めず、投降した者は処刑された。

こうすることで、孤立した城内に多くの兵が籠もることになり、補給のない中で城の兵糧を食い尽くさせる作戦であった。

やがて、冬になり兵糧が底をつき始めたところで降伏を認める高札を立てたため、尼子方の籠城兵が集団で投降するようになった。

さらには、尼子氏の譜代の家臣までも投降し始めた。

一方の尼子側は、宇山久兼が私財をなげうって購入した兵糧を密かに間道から月山富田城に運び入れつつ、奮闘を続けていた。

しかし、尼子義久が讒言を信じて宇山久兼を殺してしまうという一件があり、士気を沮喪していった。

永禄9年(1566年)11月21日尼子氏は降伏。

毛利側は義久ら尼子一族の生命を保証し、28日に城を出た義久らは安芸国に引き取られ幽閉された。

なお、和睦の交渉をしている間も逃亡兵が続出していたため、開城時の城兵は僅か300余名だったとされる。

また、熊野城など残っていた尼子方の城も月山富田城陥落後に開城した。

大内氏に続いて尼子氏を滅ぼした毛利氏は、中国地方最大の戦国大名となった。

後方の憂いを断ち切った毛利氏は、永禄11年(1568年)に河野氏を支援して伊予国へ出兵し、さらに翌年永禄12年(1569年)には本格的に大友氏との戦いを始めるなど、その勢力をさらに拡大していく。

なお、開城した月山富田城には、当初は福原貞俊と口羽通良が城代として入城したが、翌年には天野隆重が城代となる。

そして、隆重の要請により元就の五男毛利元秋が城主となった。

一方、尼子氏の降伏に不満を持つ山中鹿介こと山中幸盛は、叔父である立原久綱らとともに尼子氏再興の活動に奔走した。

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