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合戦名 永禄の変
合戦の年月日 永禄8年5月19日(1565年6月17日)
合戦の場所 二条御所
合戦の結果 足利義輝の死亡 三好三人衆が足利義栄を次期将軍に擁立
交戦勢力 三好軍 幕府軍
指導者・指揮官 三好義継、三好長逸、三好宗渭、岩成友通、松永久通 足利義輝
戦力 約10,000 数百

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概要 (説明はWikipediaより)

永禄8年5月19日(1565年6月17日)、室町幕府13代将軍足利義輝が、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)、松永久通らの軍勢によって京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。

永禄の政変と呼称されることもある。

なお、松永久秀をこの事件の主導者の一人とする記述が従来多く見られるが、実際に事件に参加していたのは息子の久通であり、当日久秀は大和国にいて直接関与はしていない。

[sengoku-2]

四国阿波の守護代であった三好氏は、主家の阿波守護細川氏が細川宗家(京兆家)の後継争いに関わったことから畿内に進出していった。

三好元長は堺公方足利義維と細川晴元を擁して時の将軍足利義晴や管領細川高国と対峙したが、高国滅亡後に堺公方側から将軍側に奔った晴元は山科本願寺とも手を組み、享禄5年(1532年)に一向一揆に攻め込まれた元長は和泉国堺の顕本寺において自刃した(享禄・天文の乱)。

元長の嫡男長慶は、父の死によってわずか10歳で家督を継いだため当初は細川晴元の下で雌伏しつつも、摂津国越水城に本拠を移して着実に勢力を伸ばし、やがて晴元と対決する。

天文18年(1549年)、長慶が仇敵だった晴元の側近三好政長を摂津江口の戦いで討つと、晴元は将軍義輝と前将軍義晴を連れて近江国坂本へ没落し、岳父で近江守護の六角定頼を頼った。

いったん入京した長慶はその後摂津に下って伊丹城の攻略に当たり、その間に義晴は東山で中尾城の築城に着手したものの体調が衰え、翌19年(1550年)5月に坂本南方の穴太で死去した。

長慶は3月に伊丹城を攻め落として摂津の平定を終えていたが、その上洛の動きをつかんだ義輝は6月に中尾城に入り、細川晴元と六角定頼の軍も洛東に進出した。

三好方は三好長逸・十河一存の軍勢が上洛し膠着状態が続いたが、11月に長慶が大軍を率いて摂津から攻め上り中尾城を攻めると、義輝は近江堅田まで退却した。

天文20年(1551年)に将軍義輝と上野信孝ら側近の反三好姿勢を支持しない政所執事伊勢貞孝や進士賢光ら幕臣数名は、義輝を連れ出して長慶との和睦を強行しようとするが、事が露見すると京都に逃れて三好方に降った。

21年(1552年)に入って六角定頼が没すると、跡を継いだ六角義賢の仲介によって将軍方と三好方の和睦が成立する。

近江朽木に移っていた義輝は京都に戻り、これを迎えた長慶は御伴衆に列せられ陪臣(細川氏の家臣)から将軍直臣の地位に上った。

ところが、若狭に没落した細川晴元が勢いを盛り返し丹波を攻め上り洛東に至ると、はじめはこれに対抗した義輝であったが、翌22年(1553年)になって上野ら反三好派側近の主導によって晴元と結び、長慶に敵対する。

しかし、摂津に在陣していた長慶が急ぎ上洛してくるとあえなく退却し、再び朽木に移ることとなった。

親三好派や所領没収を恐れた多数の幕臣が帰京して幕府は崩壊した。

以降、長慶は足利将軍家を奉じない権力として摂津芥川山城を拠点に畿内の支配を推し進めた。

[sengoku-3]

将軍側は三好・松永らを警戒し、数年前から二条御所の四方の堀・土塁等を堅固にする工事を施していた。

ルイス・フロイスの『日本史』によれば、将軍義輝は事件前日の永禄8年5月18日に難を避けようといったん御所を脱出している。

しかし、奉公衆ら義輝の近臣は、将軍の権威を失墜させると反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行ったため、義輝も不本意ながら御所に戻ったという。

翌5月19日、御所の門扉の改修が済む前に包囲するべく、三好・松永らは清水寺参詣を名目に約1万の軍勢を結集して御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽って取次を求めた(後述のように、この訴訟は偽りではなく本来の目的だったと見る説もある)。

奉公衆の進士晴舎が訴状の取次に往復する間、三好・松永の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始した。

将軍方の応戦は激しく、一色輝喜、上野輝清以下十数名が三好方数十人を討ち取った。

その間に殿中では、進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹し、義輝は近臣たち一人一人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出た。

治部藤通やその弟福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取った。

剣豪塚原卜伝に兵法を学んだ義輝も自ら薙刀を振るい、その後刀に持ち替えて奮戦したという。

しかし、多勢に無勢の中、昼頃までに義輝や進士藤延(進士晴舎の息子)、荒川晴宣、荒川輝宗、彦部晴直、彦部輝信、杉原晴盛、小笠原稙盛、沼田光長、細川隆是、武田輝信、摂津糸千代丸といった主従全員が討死・自害した。

公家山科言継の日記『言継卿記』の永禄八年五月十九日条は、奉公衆が大勢討死し、同日の午の刻の初め頃(昼前)には将軍も「生害」されたと伝えている。

また、義輝の正室近衛氏(近衛稙家の娘)は実家の近衛家へ送り届けられたが、義輝の生母慶寿院(近衛稙家の妹で12代将軍義晴の正室)は自害した。

フロイスの記述によれば、三好・松永らは義輝が寵愛していた側妾の小侍従局(進士晴舎の娘)殺害を要求の一つに掲げており、彼女は混乱に紛れて御所を脱出し身を隠したものの、探索の末に捕えられ四条河原で斬首された。

一方、三好氏に近かった幕臣の伊勢貞助は、義輝を助けずに御所内にあった室町幕府歴代の重宝が入った唐櫃を密かに御所外に搬出したという。

また、変の直後に奉公衆や奉行衆が三好長逸の所に挨拶に赴くなど、義輝の執政により回復したかに思えた幕府の脆弱さが露見する結果となった。

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