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合戦名 本圀寺の変
合戦の年月日 永禄12年1月5日(1569年1月31日)
合戦の場所 京都本圀寺
合戦の結果 足利・織田方の勝利
交戦勢力 足利将軍家、織田氏 三好三人衆
指導者・指揮官 細川藤賢、明智光秀、三好義継、細川藤孝、伊丹親興、池田勝正、荒木村重 三好政康、三好長逸、岩成友通、三好康長、斎藤龍興、小笠原信定
戦力 2.000 10.000

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概要 (説明はWikipediaより)

永禄12年1月5日(1569年1月31日)に三好三人衆らが京都本圀寺に仮御所を置いていた室町幕府15代将軍足利義昭を襲撃したことによって生じた戦闘である。

六条合戦とも呼ばれる。

[sengoku-2]

永禄の変で13代将軍・足利義輝を討った三好三人衆ではあったが、松永久秀との主導権争いに没頭するあまり、永禄11年(1568年)には義輝の弟・義昭を奉じる織田信長の上洛軍を阻めず京都から退却、同年9月28日には信長と義昭の入京を許した。

そして10月18日には信長によって、三人衆が推戴する14代将軍・足利義栄(義昭の従弟)を廃され、将軍の座を義昭に奪われた。

しかし、奉公衆と共に仮御所としていた義昭の本國寺の警護を、明智光秀を中心とする近江、若狭の国衆に託しただけで、信長は10月26日に本国である美濃へ帰国してしまう。

そんな手薄となった畿内の織田勢の隙をついて、義昭を討たんとする三好三人衆に、信長に敗れて流浪していた斎藤龍興らも加勢して本國寺を襲撃したことから、本戦闘が始まった。

年明けの1月5日に三好勢は本國寺へ攻めかかり、明智光秀ら織田勢を中核とする義昭方は本國寺に立て篭った。

堅固ではない本國寺の陥落は時間の問題と思われたが、三好勢の先陣・薬師寺貞春の軍勢が、若狭国衆の山県源内、宇野弥七らの奮戦により、幾度も寺域への進入を阻まれた。

結局この日は、本國寺の陥落には至らぬまま日暮れとなったため、三好勢は兵を収めて翌日の戦闘に備えた。

ところが翌1月6日になると、細川藤孝や三好義継、摂津国衆の伊丹親興、池田勝正、荒木村重ら、急報を聞きつけた畿内各地からの織田勢の後詰を許してしまう。

このため、不利を悟った三好勢は退却を試みるも追いつかれ、足利・織田方の軍勢と桂川河畔で合戦に及んだ。

こちらの合戦は、優勢となった足利・織田方の勝利に終わり、三好方は客将となっていた小笠原信定などが討死した。

[sengoku-3]

1月6日、信長は岐阜で「本國寺が襲撃された」という報告を受けた。

天気は大雪だったが信長はただちに出立し、本来3日かかる行程を2日で走破、1月8日に10騎足らずの供を連れて本國寺に到着した。

非常な寒さと急な出立により、信長配下の陣夫などには凍死者が数人出たという。

本國寺に入った信長は、戦功のあった池田衆の池田正秀らを賞した後、本國寺防衛の脆弱性を危惧して、二条城の造営を開始することになった。

なお、二条城の建設には本國寺の建築物が解体・再組み立てされて用いられたという。

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