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合戦名 信長の第一回雑賀攻め
合戦の年月日 天正5年(1577年)2月 – 3月
合戦の場所 紀伊国雑賀荘周辺
合戦の結果 和睦による織田軍の撤退
交戦勢力 織田軍 雑賀衆
指導者・指揮官 織田信忠、堀秀政、羽柴秀吉 鈴木孫一、土橋若大夫
戦力 100,000 2,000以上

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代(安土桃山時代)における織田信長と羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである。

信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。

紀伊は寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。

根来・雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。

元亀元年(1570年)に始まった石山合戦は本願寺優勢のうちに進み、織田信長は石山本願寺を攻めあぐねていた。

信長は戦局を打開すべく、本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(現和歌山市を中心とする紀ノ川河口域)に狙いをつける。

兵員・物資の補給拠点である雑賀を攻略すれば、大坂の本願寺勢の根を枯らすことができると考えたのである。

天正4年(1576年)5月頃から織田方の切り崩し工作が始まり、翌5年(1577年)2月までに雑賀五組のうち社家郷(宮郷)・中郷・南郷のいわゆる雑賀三組を寝返らせることに成功する。

元々雑賀荘には浄土宗西山派の本山である総持寺があり、雑賀衆の中には真宗門徒もいれば、それ以外の宗派を信じる非門徒も多くいた。

石山戦争の過程で雑賀衆の中でも本願寺を支援したい真宗門徒と信長に対して反感を持つ一部の非門徒が連携して一向一揆を編成していくのに対し、この動きに反発する非門徒もおり、彼らは雑賀三組を中心に信長と協力して反一向一揆の動きを強めていったとみられる。

同年2月2日、以前から織田方に加勢していた根来衆に加えて雑賀三組(三緘)の協力も得られることになったため、信長は雑賀の残り二組、雑賀荘・十ヶ郷を攻略すべく大動員をかけた。

信長は9日に安土を発して上洛。

膝下の近江の兵に加えて嫡男織田信忠率いる尾張・美濃の軍勢、北畠信雄・神戸信孝・織田信包配下の伊勢の軍勢、さらに畿内と越前・若狭・丹後・丹波・播磨の兵も合流して13日に京都を出発した。

16日には和泉に入り、翌17日に雑賀衆の前衛拠点がある貝塚を攻撃したが、守備兵は前夜のうちに海路紀伊へ退却していたので空振りに終わった。

同日根来衆と合流して18日に佐野、22日には志立(信達・現泉南市)に本陣を移した。

織田勢は山手と浜手の二手にそれぞれ30,000人の兵を投入して侵攻を開始した。その陣容は、山手に根来衆と雑賀三組を先導役として佐久間信盛・羽柴秀吉・堀秀政・荒木村重・別所長治・同重宗、浜手は滝川一益・明智光秀・長岡藤孝・丹羽長秀・筒井順慶・大和衆に加えて織田信忠・北畠信雄・神戸信孝・織田信包である。

浜手の織田勢は淡輪(現岬町)から三手に分かれて孝子峠を越え、雑賀側の防衛線を突破して南下し、中野城を包囲した。

2月28日に信長は淡輪に本陣を進め、同日中野城は織田方の誘降工作に応じて開城した。

3月1日、織田勢は平井の鈴木孫一の居館(現和歌山市)を攻撃した。

山手の織田勢は信達から風吹峠を越えて根来に進み、紀ノ川を渡って東側から雑賀に迫った。

これに対し雑賀衆は雑賀城を本城となし、雑賀川(和歌川)沿いに弥勒寺山城を中心として北に東禅寺山城・上下砦・宇須山砦・中津城、南に甲崎砦・玉津島砦・布引浜の砦を築き、川岸には柵を設けて防衛線を構築した。

日時は特定できないが2月24日以降、山手先鋒の堀秀政勢が雑賀川の渡河を試みた。

『紀伊国名所図会・巻之二・雑賀合戦』によれば、雑賀勢はあらかじめ雑賀川の底に逆茂木・桶・壺・槍先を沈めておいて渡河の妨害を図った。

織田方が川を渡ろうとすると人馬が足を取られて前進できず、また川を越えた者も湿地帯で動きが鈍っている所に、頭上から25人ずつが二列横隊を組んで間断なく鉄砲で狙い撃ち、さらに弓隊が射立てた。

これにより織田方は多大な損害を受けて退却した。

その後、ゲリラ戦に持ち込まれ戦局は膠着状態となったが、鈴木孫一・土橋若大夫・粟村三郎大夫ら7人は連署して誓紙を差し出し、信長が大坂表での事態に配慮を加えることを条件に降伏を誓ったため、3月15日に信長は朱印状を出して赦免した。

21日、信長は陣払いして京都へ引き揚げた。

だが、足利義昭や毛利輝元は「織田方は敗北した」と喧伝した。

信長は引き揚げるに当たり、雑賀衆の再起に備えて佐野砦(現泉佐野市)を築かせ、完成後は織田信張を駐留させた。

だが、半年もしないうちに雑賀衆は再び挙兵し、信長と戦うことになる。

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