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合戦名 鳥取城の戦い
合戦の年月日 1581年
合戦の場所 因幡国鳥取城
合戦の結果 織田軍の勝利
交戦勢力 織田軍 毛利軍
指導者・指揮官 羽柴秀吉 吉川経家

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概要 (説明はWikipediaより)

1580年(天正8年)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦(この時の籠城費用は、全て豊国が負担している。)の末、9月に豊国は和議により信長へ降伏、臣従した。

ところが、同月毛利氏の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入った。

この時点で、豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。

春重は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い帰還(近年の研究では、帰還後も生存していたことが明らかになっている)、何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏の重臣である吉川経家が城主として迎えることになった。

[sengoku-2]

同年4月、因幡守護の豊国が織田氏へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。

残存する山名氏旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた秀吉は2度目の鳥取城攻撃をすることとなる。

秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施した。

『陰徳太平記』によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000以上を城に追いやった。

さらに河川や海からの毛利勢の兵糧搬入も阻止した。

このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。

何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出した。

『信長公記』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記され、人肉を食らう者まで現れたとしている。

城主の経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城した。

[sengoku-3]

経家や山名氏の旧臣に代わり、浅井氏の旧臣で秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として鳥取城に入り、織田勢の山陰攻略の拠点とした。

継潤は豊臣政権に代わった1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となった。

その後も継潤は九州平定後五奉行として連署するなど、(宮部法印 前田玄以 富田知信 増下長盛 石田三成)秀吉の与力として重要な役割を果たし、隠居後は御伽衆として秀吉のそばに仕えた。

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