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合戦名 天目山の戦い
合戦の年月日 天正10年3月11日 (1582年4月3日)
合戦の場所 甲斐国天目山付近
合戦の結果 織田軍の勝利、武田勝頼・信勝自害
交戦勢力 織田軍 武田軍
指導者・指揮官 滝川一益 武田勝頼、武田信勝
戦力 3,000 – 4,000 43

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概要 (説明はWikipediaより)

織田信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政が長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。

3月7日に織田信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類や重臣を探し出し、これを全て処刑した。

この時に処刑されたのは武田信友・諏訪頼豊・武田信廉らである。

『信長公記』では親族衆の一条信龍の名も記されているが、『家忠日記』によれば、信龍は3月10日に徳川家康を先導した穴山信君に対応するため市川(市川三郷町)へ着陣しており、同日に本拠の上野城(市川三郷町上野)が降伏し、子息の信就とともに処刑されたとされる。

[sengoku-2]

新府城を放棄した勝頼とその嫡男の信勝一行は郡内を目指すが、その途上で小山田信茂の離反に遭う。

『甲陽軍鑑』では勝頼一行は鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待ったが、3月9日夜に信茂は郡内への入り口を封鎖し、勝頼一行を木戸から招き入れると見せかけて鉄砲を打ちかけたという。

『理慶尼記』では信茂の離反を3月7日とし、郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市)としている。

一方、『甲乱記』では信茂が離反した日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)から駒飼(甲州市大和町)へ移動する途中で離反を知ったとしている。

いずれにせよ、勝頼一行は岩殿行きを断念し、天目山(甲州市大和町)を目指して逃亡した。

なお、天目山は室町時代の応永24年(1417年)に武田家の当主・信満が上杉禅秀の乱に加担して敗走し、自害した地でもある。

3月11日、家康と穴山梅雪は信忠に面会し、今後についての相談を行った。同日、勝頼一行は天目山の目前にある田野の地で滝川一益隊に対峙する。

勝頼の家臣土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。

また、阿部勝宝も敵陣に切り込み戦死した。

勝頼最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退した。

しかし衆寡敵せず、3月11日巳の刻(午前11時頃)、勝頼・信勝父子、桂林院殿は自害した。

武田信廉の子息とされ勝頼の従兄弟にあたる甲府・大竜寺の住職・大竜寺麟岳もともに死去しており、『甲陽軍鑑』『甲乱記』によれば、麟岳は勝頼から自らの死を見届け、脱出して菩提を弔うことを依頼されるがこれを断り、信勝と刺し違えて死去したという。

勝頼に随行した家臣では長坂光堅、土屋昌恒・秋山源三郎兄弟(土屋昌恒・秋山源三郎はともに金丸筑前守(虎義)の子で、それぞれ土屋氏・秋山氏を継承した)、秋山紀伊守、小宮山友晴、小原下野守・継忠兄弟、大熊朝秀らも戦死した(跡部勝資も殉死したとする説もあるが、諏訪防衛戦で戦死したとも。いずれにしても『甲陽軍鑑』記載の長坂・跡部逃亡説は史実に反する)。

これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。

勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった『楯無』(現在甲州市恵山上於曽の菅田天神社に伝来する国宝「小桜韋威鎧」に比定される。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた。)を着せて元服式を執り行い、その後父子とも自刃したという悲話が残る。

その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。

勝頼父子の首級は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首された。

[sengoku-3]

信長は、勝頼自刃の時には信濃国境すら越えておらず美濃国の岩村城に滞在していた。

唯一、田中城の依田信蕃だけは抵抗を続けていたが、穴山梅雪の勧告もあって開城した。

この時、徳川家康は依田を家臣に誘ったが断られた。

3月14日、浪合(長野県下伊那郡阿智村)に進出していた信長の元に勝頼・信勝父子の首が届いた。

同日、依田信蕃は本拠の春日城に帰還している。

その後、依田は織田信忠の元に出仕しようとしたが、徳川家康の使者から「信長が処刑を予定している武田家臣の書立(リスト)の筆頭に依田の名前がある」と言われ、密かに家康の陣所を訪れた。

そこで家康から徳川領内への潜伏を勧められ、遠江に身を隠した。

ちなみに他にも武川衆や後の徳川四奉行といった多くの人材が旧武田家臣で家康に帰参していた成瀬正一のもとに潜伏している。

『信長公記』『甲乱記』によれば、3月12日もしくは16日には武田信豊が勝頼の命により小諸城(長野県小諸市)へ赴き、城代の下曽根浄喜(覚雲斎)に背かれて次郎や生母・養周院とともに自害した。

『信長公記』『甲乱記』『甲陽軍鑑』によれば、小山田信茂は織田家に投降を試みたが信忠から「武田勝頼を裏切るとは、小山田こそは古今未曾有の不忠者」と言われ、3月24日に母と妻子、武田信堯、小山田八左衛門、小菅五郎兵衛らとともに甲斐善光寺(甲府市善光寺)で処刑され、郡内領は無主となった。

信玄の次男で盲目ゆえ仏門に入っていた海野信親(竜芳)は、息子の顕了信道を逃した後、自刃した。

信道の系統は大久保長安の業績に絡み後世にその血脈を伝えている。

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