【時代】 戦国時代 – 江戸時代
【生誕】 天文17年(1548年)
【死没】 寛永12年11月16日(1635年12月25日)
【別名】 孫次郎
【官位】 従五位下、長門守
【氏族】 桓武平氏村岡五郎平良文流千葉氏族 相馬氏

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概要 (説明はWikipediaより)

日本の戦国時代から江戸時代の武将。

戦国大名。

陸奥相馬氏第16代当主。

小高城主。

宇多郡・行方郡・標葉郡の領主。

父・盛胤は天文の乱より後、晴宗派の伊達氏との確執が続く中、三春城(田村郡)の田村氏と和睦することによって所領の基盤を固めた。

父の方策に従い幼き頃から各地を転戦。

奥州の覇権を求めた伊達輝宗・政宗に近隣の諸大名・小名と合従連衡を繰り返して対抗した。

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亡き曽祖父である伊達稙宗の隠居城(丸森城)やその近辺である伊具郡・宇多郡の領有権争いでは、大勢を決したため、田村氏の仲介を受け入れ、伊達氏へ伊具郡を返還し、一時和睦が成立した。

蘆名盛隆が死去し、関白に任官した豊臣秀吉の権勢が強まると、伊達氏はそれまでの洞 (武家)による支配体制を覆し、親戚である蘆名氏の領土(会津地方・中通り地方)を侵攻し始めた。

その動きを警戒していた義胤は当初、中立的立場を保っていたが、人取橋の戦いを優勢に進めた岩城常隆・佐竹義重等と次第に連合軍を形成していった。

田村清顕の死後と豊臣政権の惣無事令の後、石川弾正を支援して再び伊達氏と戦い、田村清顕夫人(叔母)や田村梅雪斎、大越紀伊等と共に三春城占拠を画策。

失敗して伊達政宗との決戦を望んだ。

政宗が田村氏を家臣に組み込み、相馬領の宇多郡北部(相馬郡新地町駒ヶ嶺)を攻め取り、黒川城を陥落させて蘆名氏を降したことで義胤は窮地に立たされたが、蘆名氏はすでに豊臣家に臣従していたため、怒った秀吉は上杉景勝と蘆名義広の実父・佐竹義重へ「伊達政宗討伐令」を発令。

義胤は岩城氏の援軍を得て伊達氏を攻め、海道での戦況を巻き返した。

しかし、政宗が二階堂氏の須賀川城をも陥落すると、会津、仙道地方では名だたる将兵が次々と政宗に屈服し、岩城常隆は伊達氏と和睦。

直後に義胤は弟の隆胤を失うが、運悪く隆胤の進軍は政宗が小田原参陣中の出来事であったので反って相馬氏を攻めるための大義名分に利用された。

政宗は相馬攻略を画策したが、まもなく義胤は公儀取次 (豊臣政権)の石田三成のとりなしで事なきを得て、小田原征伐を終えた豊臣秀吉の奥州仕置で所領を安堵され、政宗が服属させた二本松領、蘆名領、二階堂領、白川領等へは織田信長の娘婿・蒲生氏郷が封ぜられ、岩城領へは佐竹義重の三男・貞隆が封ぜられた。

これは豊臣政権の都合によるもので、伊達氏の勢力伸張を抑えるとともに、抑えにあたった氏郷には左遷同様であったが、義胤にとっては幸いであった。

豊臣政権下では六大将とされる佐竹義宣と親交を深め、朝鮮の役などの行動を共にした。

関ヶ原の戦いでは大坂に嫡子・三胤(蜜胤・利胤)を残し、自らは所領の守りを固め、政宗に相馬領を通過させた。

義胤の娘は岩城貞隆の正室となっており、相馬、岩城、佐竹は連帯している。

慶長7年(1602年)、牛越城下において相馬野馬追のさなかに義胤に対し、関ヶ原で徳川方に与しなかったとして改易されたものの、三胤の訴訟運動で2代将軍徳川秀忠の旗本島田治兵衛の好意、徳川家重臣本多忠勝の機転による江戸城競馬での勝利、同じく重臣本多正信の家康・秀忠への説得などを得て、同年10月、嫡子をもって相馬氏による三郡の再統治を認められた。

なお、会津仙道の上杉領には関ヶ原の戦いで東軍に属した蒲生秀行が封ぜられ、岩城領には伏見城の戦いで真先に西軍から攻められて討ち死にした徳川家老臣・鳥居元忠の嫡男・忠政が封ぜられた。

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慶長8年(1603年)、再び小高城を居城とし、牛越城は廃城となる。

慶長16年(1611年)8月21日、会津地震が発生。

次いで10月28日、慶長三陸地震が発生。

本拠をそれまでの小高城から中村城に移転することによって、藩主権力を強化するとともに城下集落を構築し、海岸部には松林を造成し、内陸部では「堤」=溜池を設置するなど、震災の復興に務めた。

慶長17年(1612年)4月、義胤は家督を相馬利胤(三胤→蜜胤→利胤と改名。「利」は幕閣の重鎮土井利勝の偏諱から)に譲り、小高城から泉田(浪江町北幾世橋)に隠居した。

慶長19年(1614年)大坂冬の陣には利胤が出陣。

翌年(1615年)の大坂夏の陣にも利胤が向かうが、その途中病気となり、急遽代わりに義胤が向かった。

利胤が寛永2年(1625年)に病死すると、孫の2代藩主・虎之助の後見役となり、隠居した後も直接ではないが藩政に深く関与していた。

寛永12年(1635年)11月16日没。

享年88。

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