【時代】 安土桃山時代 – 江戸時代前期
【生誕】 永禄10年8月18日(1567年9月20日)
【死没】 寛永19年11月25日(1643年1月15日)
【改名】 吉弘千熊丸、彌七郎、高橋彌七郎(幼名)、統虎、戸次統虎、立花統虎、鎮虎、宗虎、正成、親成、政高、尚政、俊正、経正、信正、宗茂、立斎(号)
【別名】 羽柴柳河左近侍従、立左、立飛州、飛弾入道・宗茂入道(通称)、西国無双(西国一の弓取)、鬼将軍、武神、飛将、常勝将軍(渾名)
【官位】 従四位下・左近将監、侍従、飛騨守、贈従三位
【主君】 大友宗麟、義統、豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、秀忠、家光
【氏族】 高橋氏、立花氏(藤原氏秀郷流大友氏支族)

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概要 (説明はWikipediaより)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

大友氏の一族で、重臣。

陸奥国棚倉藩主、筑後国柳河藩初代藩主。

関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。

なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。

永禄10年(1567年)8月18日、豊後・国東郡筧(大分県豊後高田市)に大友氏の重臣・吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされる(『立斎公御年譜』)。

幼名は千熊丸で、後に彌七郎と改める。永禄12年(1569年)、父・鎮理が前年に高橋鑑種が討伐されて絶えた高橋氏の名跡を継いだため、高橋氏の跡取りとして育てられ、元服後は高橋統虎(むねとら)と名乗る。

天正9年(1581年)、7月27日(一説は11月6日、同じ石坂という地で戦闘があったが別々の地で、後述の戦闘と混同の可能性がある)、実父・高橋紹運の手勢の一部を率いて、友軍の立花道雪とともに出陣し、秋月氏と筑紫氏らとの第二次太宰府観世音寺の戦い(第二次太宰府石坂の戦いとも)で初陣を飾り、敵将の堀江備前を討ち取って戦功を立てた。

同年8月、男児の無かった大友氏の重臣・戸次鑑連(立花道雪)が宗茂を養嗣子として迎えたいと希望してきた(道雪と紹運は共に大友氏の庶流にあたり、同僚であった)。

紹運は宗茂の優秀な器量と、高橋氏の嫡男であるという理由から最初は拒絶しようとしたが、道雪が何度も請うてきたために拒絶できず、8月18日、宗茂を道雪の養子として出している。

このとき、宗茂は実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘・誾千代と結婚して婿養子となり、名も戸次統虎(べっき むねとら)と改め、誾千代に代わって道雪から家督を譲られた。

同年11月6日には養父道雪・実父紹運と共に嘉麻・穂波の地に出陣。

立花・高橋の軍勢は朽網鑑康の救援に向かう途中で、鑑康が秋月種実や問註所鑑景(統景の大叔父)との原鶴の戦いで戦闘した後に無事撤退との情報を知り撤退したが、その最中に秋月軍の追撃を受けた。

両方の激戦は立花高橋300余、秋月760の合わせて1,000を超える死傷者をだし、当地には千人塚の名が残された。

天正10年(1582年)4月16日、秋月氏・原田氏・宗像氏の連合軍2,000との岩戸の戦いでは宗茂は500の伏兵を率いて、岩門庄久辺野に砦を築いていた原田氏の将・笠興長隊300人を駆逐し150人を討ち取って、西の早良郡まで追撃し原田親秀の早良城を焼き落城させる功を挙げている。

11月、立花山城で「御旗・御名字」の祝いを行い、名字を戸次から立花に改めた。

12月22日の宗像領侵攻にも道雪に従って出陣した。

天正11年(1583年)3月17日の吉原口防戦にて吉原貞安を討ち取って、4月23日宗像氏貞の居城許斐山(このみやま)城と杉連並の龍徳城を落城や降伏させた。

天正12年(1584年)8月、立花道雪・高橋紹運は大友氏の筑後奪回戦に参陣。

宗茂は道雪出陣後、1,000程の兵力とともに立花山城の留守を預かる事となった。

この時、秋月種実率いる8,000の兵が攻め寄せて来たが、これを撃破し更に西の早良郡の曲淵房助や副島放牛が拠る飯盛城など龍造寺氏の城砦を襲撃した。

立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回したが、天正13年(1585年)に道雪が病死すると事態は急変し、筑後における大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まってしまう。

天正14年(1586年)、島津忠長・伊集院忠棟が5万を号する島津軍を率いて筑前国に侵攻し、実父の高橋紹運は岩屋城にて徹底抗戦の末に討ち死にした(岩屋城の戦い)。

このとき宗茂も立花山城で徹底抗戦し、島津本陣への奇襲に成功するが、島津軍は紹運との戦いですでに消耗していたため、8月24日に撤退した。

このとき宗茂は、友軍を待たずに島津軍を追撃して数百の首級をあげ、火計で高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の2城を奪還する武功を挙げている。

その時、大友宗麟から豊臣秀吉へ「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人となしたまわりますよう」と要請された。

その後も秀吉の九州平定で活躍し、西部戦線の先鋒として4月初から肥後国の竹迫城、宇土城などを攻め落とした。

更に南下して島津忠辰の出水城を攻め落として川内に島津忠長を撃退し、秀吉に代わって伊集院氏、祁答院氏、入来院氏から人質をとり、大口城に新納忠元を包囲した。

戦後、秀吉はその功を認めて筑後国柳川13万2000石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てた。

このとき秀吉は宗茂を「その忠義も武勇も九州随一である(原文:その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。)」、「九州の逸物」(立花文書によると原文:誠九州之一物ニ侯。)と高く評価したという。

天正15年(1587年)9月、佐々成政移封後の肥後国で大規模な国人一揆が発生したときは、兵糧不足の佐々軍救援のため、弟の高橋統増と共に兵1,200(2,800や3,000諸説ある)と輜重隊を率いて出陣、既に一揆方の伏兵の計を察知し、これを逆用して先に兵を三隊に分けて伏兵を配置、小野鎮幸の主力隊が肥後南関を突破し南関城の将・大津山出羽守を討ち取った。

そして佐々軍の平山東・西付城を包囲する一揆方隈部氏配下の有働兼元軍を統増や米多比鎮久ら騎馬鉄砲の先陣が引き離しつつ、第二陣に守られた輜重隊が城に兵糧を搬入、長槍の第三陣が有動軍を永野原において撃破し有働志摩守を討ち取り、「火車懸」という戦術を繰り出した。

その内、十時連貞、水野勝成、安田国継三将の連携も大きい活躍と伝わる。

立花・高橋軍は佐々軍に兵糧を支援し平山東・西付城に入城したが、一揆方(和仁親実、辺春親行、大津山家稜)3,000の兵に包囲された。

その対応のため、先に輜重を運輸した人夫を使って「立花軍は明日に城を出て柳川へ帰る」との偽情報を敵陣に流し、当日は軍を三隊に分けて由布惟信と十時惟由を先鋒に任じて疾駆の勢いで敵を奇襲突破したが、宗茂率いる本隊は三加和平野立尾の地で正面に和仁、左右に辺春、大津山そして後方より有働軍に挟撃され、双方の旗本武将が乱戦となる。

そのとき宗茂は戸次家伝来の名刀・笈切り兼光を持ち馬上で敵兵七人を斬り伏せ、横撃して来た有働下総守と一騎討ちして討ち取った。

やがて由布・十時の先鋒隊が反転し、小野鎮幸の後備隊が合流して全力で突破し一揆軍を総崩れにした。

その後、街道に沿う一揆方の出城を攻め落として、捕虜を城や軍隊の前に置くことで一揆軍の攻撃を避けつつ南関に近い太田黒城へ進軍したが、城将・大知越前守は弓隊を伏兵として立花軍を奇襲した。

立花軍は矢の当たりにくい森の中へ500の城兵をおびき出し、十時連貞と小野鎮幸率いる300が反転して迎撃、そして由布惟信が郎党20人を率いて堀や木柵を越えて一番乗りの功を立て二の丸に至る。

大知越前守は50騎を率いて迎撃したが、池辺永晟と一騎討ちして討たれた。

この時、立花軍は1日に13度もの戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、650余の敵兵を討ち取ったという武功を上げている。

また一揆方の和仁三兄弟の田中城を包囲中に小早川隆景を義父とし、小早川秀包と義兄弟の契りを結ぶ。

秀包と共に城内に攻め込み、宗茂自身は和仁中務少輔を討ち取った。

12月26日、佐々成政、安国寺恵瓊と共に一揆の首謀者・隈部親永の城村城を攻め落とし、隈部一族ら12人を預かり、翌年5月27日、柳川城東南隅の黒門にて、隈部一族の武士名誉を保つように、立花家臣と隈部一族と同じ数の12人の討手と真剣勝負、放し討ちにした。

放し討ちの場面に震撼された監察役の浅野長政は秀吉に報告した、秀吉は「さすがは立花左近である」と宗茂を讃えた。

同年、農業用水を確保するのために矢部川を分流して、半人工運河の花宗川の開発に着手したとされる。

天正16年(1588年)に上洛し、7月に従五位下侍従に叙任される。

同時に羽柴の名字を名乗ることを許され、豊臣姓を下賜された。

天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍、岩槻や江戸に参陣。

2月1日、秀吉は諸大名の前で宗茂を、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評し、その武将としての器量を高く褒め称えた。

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朝鮮出兵頃より宗茂は、統虎という名乗りから鎮虎(しげとら)、次いで宗虎(むねとら)へ名乗りを改めている。

文禄元年(1592年)からの文禄の役では小早川隆景を主将とする6番隊に2,500人の軍役を課せられて参陣している。

4月、諸将と共に東莱城を攻め落とした。

6月26日、宇喜多秀家の要請で火計と釣り野伏せ戦法を使って漢城北方の朝鮮軍を駆逐。

漢城会議で全羅道の攻略が割り当てたられた6番隊は忠清道から南下したが、7月9日、10日の第一次錦山の戦い対高敬命7,000兵・8月9日の梁丹山の戦い対南平県監韓楯500兵・8月18日の第二次錦山の戦い対趙憲・僧将霊圭・海南県監辺應並1,300兵など数次にわたる朝鮮軍や義兵の攻撃を受けて後方を脅かされたため侵攻は停滞した。

また、7月に遼東半島から来た明の援軍である祖承訓が平壌を攻撃したことにより主力の小早川隆景が漢城方面へ転出したため、宗茂率いる残存兵力は全羅道の入り口の錦山や茂朱の拠点を維持するにとどまったが、7月16日の第一次平壤の戦いは小西行長の後援として、大友義統と黒田長政と共に明の祖承訓と史儒を撃破した、後に宗茂も漢城方面への転出を命じられたため全羅道攻略を果たせなかった。

文禄2年(1593年)、李如松の率いる明軍主力が小西行長を攻撃して平壌を攻略し更に南下を始めると、1月10日に小西行長救援のため高橋統増と釣り野伏せを連携して龍泉の戦いに明の追撃軍を撃退した。

日本軍は迎撃を企画し、碧蹄館の戦いでは宗茂と高橋統増が先陣となった。

1月26日午前2時頃、先に森下釣雲と十時惟由ら軽兵30名が敵状を偵察。

敵軍は未明の内に進軍すると予測し、午前6時頃に碧蹄館南面の礪石嶺北側二所に布陣した。

先鋒500を率いた十時連久と内田統続は、正面に少ない軍旗を立てて兵数を少なく見せ、査大受率いる明軍2,000を誘致して、越川峠南面にて正面で交戦。

そして宗茂と統増の本隊2,000は、先鋒の連久らと中陣700の小野鎮幸、米多比鎮久を陣替する際に、統増と戸次鎮林(戸次鑑方の次男)を陣頭に立て、疾風の如く馳せて左側面から敵後詰・高彦伯の朝鮮軍数千を奇襲し撃退。

さらに宗茂は800騎の堅固な備えを率いて明・朝鮮軍を猛烈追撃し、戦果を拡大した。

十時連久、内田統続、安田国継(此時の名は天野源右衛門貞成と呼ぶ)らは槍を投げて数十騎を突落し、明・朝鮮軍の中央を回転突破。

中陣の戸次統直は強弓を引いて20余りの敵兵を射落し援護した。

しかし連久は李如梅の毒矢を受け、帰陣して間もなく戦死。

旗奉行の池辺永晟も連久負傷後は先鋒隊の指揮を暫任し中陣と替わるを成功させたが、後の追撃戦で戦死した。

寡兵の立花・高橋勢は奮戦してこれを撃退し、越川峠北方右側にて休息させた。

のち小早川隆景など日本軍先鋒隊が来ると疲労の深い立花勢を後方に下げ、西方の小丸山に移陣した。

午前11時頃、小丸山から北への丘の森陰に移動し、数が多い敵軍への恐怖を鎮めるため、兵卒たちを”敵を背にして陣す”と埋伏させた。

高陽原にて小早川隆景の先鋒・粟屋景雄と井上景貞が明・朝鮮軍を牽制する際、戦機を捉えるように、朝とは逆に兵一人に三本の軍旗を背負し現わせて、敵軍に「日本軍は大軍である」と騙した。

そして先に鉄砲200挺を三連射し、長刀や長槍を高く揚げて白い刃と300名ほどの将兵が被る金兜で日光を反射させ、敵の将兵の目を晦ませて左側面から突襲。

立花・高橋軍およそ3,000は敵本陣へ突撃し白兵乱戦になるも、宗茂自身は馬に乗って飛将のように飛び出して長槍や長刀を提げ、一騎駆し敵兵将15人を斬殺。直次も雷のような大声をあげ奮迅突撃し、全軍は敵500騎を討ち取った。

立花・高橋軍は善戦しながらも高陽原から北へ敵本陣の碧蹄館に進撃。

明・朝鮮軍を同士討させ、小早川隆景、小早川秀包、筑紫広門、毛利元康、吉川広家、宇喜多秀家らが三方より明軍を包囲した。

このとき立花軍の金備え先鋒隊長・安東常久は李如松と一騎討ちして落馬させたが、李如梅の矢を受けて戦死。

その後、明副総兵・楊元が火軍(火器装備部隊)を率いて援軍に来るも宇喜多軍の戸川達安ともにこれを撃破。

恵陰嶺を越え坡州への虎尾里までの追撃戦は立花軍が敵を六ヶ所破った。

この際、もう一人の金備え先鋒隊長・小野成幸(小野鎮幸の従兄弟)や与力衆の小串成重、小野久八郎と一門の戸次鎮林、そして高橋家中の今村喜兵衛、井上平次、帆足左平、梁瀬新介も戦死したが、李如松の親衛隊も李有升など80余名戦死した。

大きな被害を出しながらも立花軍が明軍を食い止めたために戦機が生まれ、小早川隆景などの日本軍が明軍を撃破した。

宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、二つの首を鞍の双方に付け、刀は歪んで鞘に戻せなくなったという。

『甫庵太閤記』に「鬼神も敵す可らざる御功績もあり」と記述があるので、柳川の民からも「鬼将軍」の異名で呼ばれた。

小早川隆景は「立花家の3,000は他家の1万に匹敵する」と評価し、秀吉からも「日本無双の勇将たるべし」との感状を拝領した。

6月の第二次晋州城攻防戦では、小早川隆景などの5番隊として明・朝鮮軍の後巻き部隊を牽制し、援軍を寄せ付けなかった。

慶長2年(1597年)からの慶長の役では侵攻軍には編入されずに安骨浦の守備を命ぜられた。

侵攻軍のうち井邑会議に参集した諸将は今後の作戦展望として連署注進状を秀吉に送っており、その中で「南部再布陣の当初計画では釜山の守備について日本と結ぶ重要拠点であるため、当初計画した若い立花宗茂から豊臣政権に信望高い老将・毛利吉成に変更したい」との要請を行い、最終的に吉成は釜山、宗茂は固城の守備が割り当てられた。続く、第一次蔚山城の戦いでは固城倭城の守備に就いており戦闘には二日遅くに参加したとされる。

慶長3年(1598年)9月、明・朝鮮軍による蔚山・泗川・順天への三方面同時攻勢の際には、固城の守備に就いていた宗茂は島津忠恒より泗川攻撃の通報を受けて9月28日付書状で返信を行っており、戦闘には参加しなかった。

だが、『柳河藩享保八年藩士系図』によって、家臣の小串成信など蔚山にて戦死の記載があるので、蔚山の戦闘は実際に参加していた可能性はある。

秀吉が死去すると朝鮮に派遣されていた日本軍に撤退命令が下ったが、順天倭城で小西行長らが海上封鎖を受け撤退を阻まれていることを知ると、弟の高橋直次・島津義弘・宗義智・寺沢広高・小早川秀包・筑紫広門らと共に水軍を編成して救援に向かい、陳璘率いる明水軍や李舜臣率いる朝鮮水軍と戦い(露梁海戦)、一番乗りの功を挙げた家臣の池辺貞政(彦左衛門、池辺永晟の弟)が戦死したものの、行長らの救出を成功させ、朝鮮軍船60艘を捕獲した。

この戦いについて、島津家臣の川上久国は自身の日記で海戦にも敵の偵察を用心し、善戦した立花高橋軍に比べ自軍の死傷甚大を嘆いていると記述した。

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慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。

家中でも重臣・薦野増時は西軍に勝ち目なしと東軍への味方を進言したが、「勝敗に拘らず」と増時を留守に残し西軍に参加した。

そして石田三成率いる西軍に属し、伊勢方面に進出する。

その後、毛利元康・毛利秀包(小早川秀包)・宗義智・筑紫広門と共に東軍の京極高次が守る大津城を攻めた(大津城の戦い)。

宗茂は城方の夜襲を予見し、更に家臣の十時連貞が敵将・丸毛萬五郎、箕浦備後、三田村安右衛門三人を捕縛した。

この戦で宗茂は高さ一間の土塁と城からの矢弾を防ぐ竹束を置いて、千鳥掛のような幅1間半(約2.7m)、深さ1間余(約1.8m)の塹壕を掘り、ここより鉄砲射撃を行わせた。

養父・道雪の発案した「早込」を用いた立花勢は他家の鉄砲隊の3倍速で銃撃し、城方は激しい銃撃に耐えられず鉄砲狭間を閉じた。

その機を見た家臣の立花成家や内田統続らが一番乗りを果たし、三の丸から二の丸まで突破したという。

また、「立花勢、長等山より城中に大筒を打ち入れ、これより防戦難儀にをよぶ」と伝えている。

しかし9月15日の関ヶ原本戦には大津城を攻めていたために参加できず、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返した。

大坂城に退いた後、宗茂は城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言したが(『立斉旧聞記』)、輝元はその進言を容れずに徳川家康に恭順したため、宗茂は自領の柳川に引き揚げた。

なお、柳川に引き上げる時に実父・高橋紹運の仇である島津義弘と同行した。

関ヶ原で兵のほとんどを失っていた島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ家臣たちの進言を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、むしろ島津軍の護衛を申し出でて義弘と友誼を結び、無事に柳川まで帰りついた。

国許でも戦が起こっており、黒田孝高(如水)、加藤清正、鍋島直茂が柳川を攻める形勢となった。

このとき、息子・鍋島勝茂が西軍に加担したことを挽回しようと懸命だった直茂率いる鍋島勢32,000は10月14日、二手に分かれて佐賀を進発した。

これに対し立花勢は迎撃のために出陣するが、家康への恭順を示すため宗茂は城に残った。

立花勢13,000のうち、城を出て八院方面へ出陣したのは家老の小野鎮幸を総大将とする約3,000(一説によると2,000、うち小野の直卒する中軍は1,000余騎)である。

鍋島軍は、10月16日には筑後川を渡河して立花方の海津城を落城させ、続いて10月19日朝には先鋒隊3,000が立花成家勢200の鉄砲奇襲を受け20余人が討たれたが城島城を攻略、翌10月20日に鍋島軍の先鋒軍3~5,000と立花勢の小野鎮幸軍1,300と激突した(江上・八院の戦い)。

立花勢先鋒の安東範久(五郎右衛門)、石松政之(安兵衛)らは鎮幸の与力・松隈小源の軍令誤伝のせいで、軍法を破って独断で開戦し、次々と鍋島勢の軍陣の中へ突入し、先鋒第三隊の立花統次(三太夫、森下釣雲の三男、立花統春の養子)は鍋島軍の陣中深くまで進んで奮戦した。

鍋島勢の先鋒・鍋島茂忠は本陣の五反田へ撤退したといわれている。

しかし、鍋島方は、立花勢を包み込んで包囲殲滅する作戦を当初から立てており、立花方は一騎駆けで敵軍に突撃した立花統次の戦死を始め、先鋒の安東範久、石松政之もたちまち反撃を受けた。

救援出陣の第二陣立花鎮実(戸次右衛門大夫、藤北戸次氏の一族)と鎮実の若い次男立花親雄(善次郎‧17歳)や新田鎮実(平右衛門、掃部助)は横合から果敢に攻めかけたが、これも後を断たれて共に戦死した。

後陣の矢島重成(勘兵衛、剛庵、宗茂の側室・八千子の弟)と千手喜雲(六之允、筑紫広門の与力)は戦を躊躇し接戦していないため、馬廻衆の安東幸貞(津之助、安東範久の養子)、第三陣の若武者十時惟久(新五郎‧16歳)、先鋒の安東範久、石松政之も次々と戦死した。

総大将の小野鎮幸は本陣前の橋を堅守して鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14、5人になるまで討ち取られた。

小野自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となったが、水田方面の黒田如水軍を偵察していた立花成家(吉右衛門、薦野増時の嫡男)が別動隊300を率いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した。

10月21日立花勢は十時惟由らが率いて、北の蒲池城の鍋島軍からの挑発に対し、応戦して数人を討ち取った。

立花勢は柳川城へ篭城する構えを示したため、鍋島勢はそのまま柳川城を攻め落とそうとしたが、鍋島直茂がこれを抑え、黒田如水、加藤清正が、宗茂を説得に動き、25日宗茂は降伏開城した。

島津義弘は国許へ帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送った。

しかし、援軍が柳川へ到着したのは開城から3日が過ぎた後だったという。

開城後は改易されて浪人となる。

その器量を惜しんで加藤清正や前田利長から家臣となるように誘われるが、宗茂はこれを謝絶した。

そこで清正は家臣にすることを諦め、食客として遇したという。

その後、清正の元を離れ、由布惟信、十時連貞ら付き従う家臣を引き連れ浪人の身で京都に上る。

正室・誾千代は立花家改易後、肥後国玉名郡腹赤村の市蔵宅(現・熊本県玉名郡長洲町)に移り住んでいたが、慶長7年(1602年)7月頃から病を患い、10月17日に死去した。

享年34。

誾千代の死により、養父・道雪の血筋は途絶えた。

誾千代が没してから、慶長8年(1603年)江戸に下った宗茂は本多忠勝の世話で、由布惟信、十時連貞など従者らとともに高田の宝祥寺を宿舎として蟄居生活を送り始め、慶長9年(1604年)忠勝の推挙で江戸城に召し出される。

宗茂の実力をよく知っていた将軍・徳川家康から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として5,000石を給されることになり、まもなく嫡男・徳川秀忠の御伽衆に列せられて陸奥棚倉に1万石を与えられて大名として復帰した。

同地で加増され2万5,500石の知行となり、慶長15年(1610年)には更に9,500石の加増を受けて最終的に3万5,000石の領地高となり、この頃から宗茂と名乗っている。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で大御所・家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったという、そして大坂夏の陣は2代将軍・徳川秀忠の麾下に列してその軍師参謀を兼ね警固を担当し、大野治房の軍勢動向を予言的中や秀忠軍の進退を指導した。

また豊臣秀頼が出陣しないことも予言して的中させた。

戦いの末、毛利勝永の軍勢を駆逐している。

元和2年(1616年)、幕府に反乱未遂事件(坂崎事件)があった坂崎直盛に対して、柳生宗矩は宗茂の計謀により、この事件をよく処理した。

元和6年(1620年)、幕府から旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられ、関ヶ原に西軍として参戦し一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名となった。

元和8年(1622年)、飛騨守に転任。また戦国武将としては世代が若く、伊達政宗や加藤嘉明・丹羽長重らとともに、徳川家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たした。

なお、相伴衆となった晩年は秀忠・家光に近侍して重用されたようで、将軍家の能、狂言、茶会の席や諸大名の屋敷が完成した際の披露会、上洛、大坂行き、日光社参など様々な行事に随伴している。

またこの頃には、健康状態(歩行)になんらかの困難があったため国元にはほとんど帰れず、特に家督を譲った後はその傾向が一層強くなり、江戸に屋敷を構えて定住して本領の統治にはほとんど関与せず、幕府の中枢を知る人物として地方の大名とのパイプ役を果たしている。

寛永15年(1638年)には前年勃発した島原の乱にも参陣し、総大将の松平信綱を輔佐した。

宗茂は城兵の様子から、黒田軍への夜襲を予告し、それが的中したため、家臣たちは宗茂の観察眼の鋭さに舌を巻いたという(『浅川聞書』)。

軍事進言や兵糧攻めの戦略面の指揮を執り、有馬城攻城時には一番乗りを果たして昔日の勇姿を見せ、諸大名に武神再来と嘆賞された。

同年、家督を養子の忠茂に譲って致仕・剃髪し、寛永19年(1642年)、江戸柳原の藩邸で死去した。

享年76。

戒名は大円院殿松陰宗茂大居士。

俗名の宗茂がそのまま入っているのは、宗茂の名があまりに有名でありすぎるため、変えるに変えられずそうなった、との逸話が伝わる。

生涯を通じて実子に恵まれなかったため、子孫はいない。

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