【時代】 戦国時代中期
【生誕】 不明
【死没】 永禄11年8月14日(1568年9月5日)
【別名】 鑑俊、義載、幼名:千亀丸、新十郎、通称:弥十郎、山城守、左近将監、但馬守、法名:了禅
【官位】 山城守、但馬守、左近将監
【主君】 大友義鑑→義鎮(宗麟)
【氏族】 日田氏→立花氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代の武将。

大友氏の家臣。

立花氏の第7代当主。

筑前立花山城主。

立花氏は大友貞載の子孫の一族であり、大友氏の庶流である。

鑑載は、立花宗家の当主立花鑑光(あきみつ)の子、実は日田親賢(親堅)の次男で、養子となったとされる。

大友親明の孫。

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立花鑑光・鑑載の両名は大友義鑑から偏諱(「鑑」の字)を授与されており、この代からの家臣とみられる。

天文19年(1550年)の二階崩れの変の後、子の大友義鎮(宗麟)の代になると永禄年間(1558年~1570年)に鑑光(新五郎)が誅殺され、これによって後を継いで立花山城を領することとなった。

しかし、その恨みもあってか、永禄8年(1565年)、鑑載も大友宗麟に対し謀叛を起こしたが、吉弘鑑理に攻められ逃亡。

後に宗麟から許され、奴留湯氏と立花山の東西両城を分け与えられている。

許された理由は諸説あって定かではない。

なお『九州諸家盛衰記』ではこのときに自害したとする異説を載せている。

永禄11年(1568年)に毛利元就の調略を受け、毛利勢の侵攻に呼応して高橋鑑種らと共に再び叛旗を翻した。

この際に与力の薦野宗鎮、米多比直知 (ねたび なおとも、大学助)を殺して、(立花山城の西の丸である)白嶽の奴留湯融泉(ぬるゆ ゆうせん)を攻撃したが、取り逃がした。

融泉から報告を受けた宗麟は激怒し、戸次鑑連、吉弘鎮信を攻撃に差し向け、城を攻囲させた。

鑑載は安倍民部らと防戦したが敗れた。

落城して自決したとも、竃門(かまど )勘解由允に斬られて首だけ豊後に送られたとも、投降したが二度の謀叛を許されずに処刑されたとも云う。

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嗣子の立花親善(ちかよし)は生き延びたものの、このような経緯から宗麟は立花家再興に難色を示し、元亀2年(1571年)、鑑連がその名跡を継ぐことで決着した。

ただし正式には立花を名乗る許しはなく、鑑連本人も名乗らなかった。

親善については実子とも戸次氏からの養子とも言われている。

後者は、片賀瀬戸次氏に戸次親久の子の山城守親善がおり、これと同一人物とするものであるが、系図が判明しておらず不明である。

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