【時代】 戦国時代
【生誕】 不明
【死没】 元亀3年8月14日(1572年9月21日)
【別名】 友通、通称:大和守、左衛門尉、修理亮、内匠助
【官位】 大和守
【主君】 土岐氏(斎藤氏)→武田信玄・織田信長
【氏族】 岩村遠山氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代の武将・大名。

岩村遠山氏当主。

美濃国恵那郡岩村城主。

父は遠山景前。

妻は織田信長の叔母(おつやの方)。

弘治2年(1557年)7月13日、その景前が亡くなり、嫡男であった景任があとを継いだが、まだ若かったことから遠山七頭の中に従わぬものがあって後継者争いが起こった。

これに対して武田氏が東美濃に派兵して調停し、その後ろ盾を得た景任が当主となった。

[sengoku-2]

以後、東美濃においては遠山宗家と信玄との主従関係に基づく武田支配が成立し、遠山氏は武田方に人質を出したが、他方で同年、斎藤義龍が道三を長良川の戦いで破って美濃を手中に入れると、遠山氏の中では明知遠山氏の友行が義龍に与して9月の明智城攻めに加わるなど、一時的に斎藤氏にも与した。

また従来の織田氏との関係も維持されており、これが台頭して濃尾に勢力を伸ばすとむしろ接近した。

時期は不明ながら、景任が織田信長の叔母(織田信定の娘)を娶って縁戚関係を結ぶなど、複数の勢力に属するという関係を築いていった。

特に永禄年間になると、遠山氏は武田氏と織田氏に両属して、その外交関係(甲尾同盟)を仲介する存在となった。

永禄8年(1565年)に武田軍が金山城の森可成と米田城の肥田玄蕃允を攻撃した後、信長が景任の弟遠山直廉の娘を養女として信玄の庶子武田勝頼の室とする縁組をまとめたのも、遠山氏を介した織田氏武田氏両家の連携の一環であった。

永禄12年(1569年)、信玄は西上作戦を開始する前に、木曽義昌と遠山直廉に命じて飛騨の三木自綱を攻めさせたが、この戦いで遠山直廉が5月18日に戦傷死。

遠山直廉には他に子がいなかったことから、信長が飯羽間遠山氏の遠山友勝をして苗木遠山氏のあとを継がせた。

友勝の嫡男遠山友忠の妻は信長の姪である。

[sengoku-3]

元亀3年(1572年)8月14日、遠山景任も病死して岩村遠山氏の血統が断絶したので、信長は東美濃の支配権を奪う好機として、岐阜城留守居の河尻秀隆や織田信広を岩村城に派遣して占領すると、自らの子(御坊丸のちの織田勝長)を亡くなった遠山景任の養嗣子として継がせ、叔母のおつやの方を後見人とした。

元亀3年(1572年)10月、東美濃の支配権が信長に奪われたことに対して、駿河国に侵攻していた信玄は、伊那郡代秋山晴近と依田信守を東美濃へ派遣して岩村城の奪還を命じた。

包囲された岩村城には以後も武田氏に仕えた者が多く、降伏して御坊丸を甲斐に人質として差し、信玄の許しを得て秋山が岩村城に入っておつやの方を妻とすることで(遠山氏と武田氏の)和議を成立させた。

しかし以後は秋山が城主となるので、岩村での遠山氏の支配は終わりを告げた。

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