【時代】 戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】 天文11年(1542年)
【死没】 慶長元年11月14日、1597年1月2日
【別名】 通称:半蔵、半三、石見守、通名:弥太郎、渾名:鬼半蔵
【官位】 石見守
【主君】 徳川家康
【氏族】 服部氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。

通称は半蔵(はんぞう)で、服部半蔵の名でよく知られている。

松平氏(徳川氏)の譜代家臣で徳川十六神将、鬼半蔵の異名を取る(なお、同じ十六神将に「槍半蔵」と呼ばれた渡辺守綱がいる)。

実戦では、家康より預けられた伊賀衆(伊賀同心組)と甲賀衆を指揮していた。

父の保長は伊賀国の土豪で、北部を領する千賀地氏の一門の長であった。

当時の伊賀には服部氏族の「千賀地」「百地」「藤林」の三家があったが、狭い土地において生活が逼迫したため、保長は旧姓の服部に復して上洛。

室町幕府12代将軍・足利義晴に仕える事となる。

その時、松平清康が三河国を平定し将軍に謁見するべく上洛した折り、保長と面会して大いに気に入り、その縁で松平氏に仕えることになったという。

伊賀国予野の千賀地氏を正成の一族とするのは誤りで、阿拝郡荒木の服部半三正種の子とするのが正しいとする説がある。

また、保長を服部民部の子「守佐」であると記し、名を「石見守半蔵正種、浄閑入道保長、法名道可」とする史料も存在する。

千賀地氏城の伝承においては、上記とは逆に将軍に仕えていた保長が伊賀に戻り、千賀地氏を名乗ったとされ、その子である正成と徳川家康の接点が無い。

三河へ移った後の保長の記録は少なく墓所などは現在も判明していないが、大樹寺に縁があったとされ、同寺過去帳には息子である久太夫の名がみられると共に、家伝においても正成は幼少期を大樹寺で暮らしたと記されている。

正成は父の跡目として服部家の家督を継ぎ、徳川家康に仕えて遠江掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねた。

一般的に「伊賀忍者の頭領」の印象が強い正成であるが、彼自身は徳川家の旗本先手武将の一人であり、伊賀国の忍者の頭領ではない。

徳川配下の将として名を現した後の働きも忍者のそれとは異なり、槍や体術を駆使し一番乗り・一番槍などを重要視した武功第一のものが多い。

しかし、いくつかの合戦において伊賀者や甲賀者と行動を共にするほか指揮官として忍びを放ち探査や工作をさせた記録も残るため、正成の生涯の多くに伊賀・甲賀出身者や忍びの者達が関わっていたであろう事が推察される。

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天文11年(1542年)、服部保長の五男あるいは六男として三河国伊賀に生まれた。

出生地は伊賀八幡宮の北隣、明願寺付近とみられる。

天文17年(1548年)、6歳の正成は大樹寺へ預けられた。

幼い頃より筋骨逞しく力の強い子供であったという。

しかし3年後の天文20年(1551年)には出家を拒否し大樹寺から失踪する。

正成は親元へ戻らず兄達の援助で暮らしていたが、その後7年間、初陣とされる宇土城攻めまでの消息は不明とされる。

元亀元年(1570年)、姉川の戦いにおいて正成は姉川堤における一番槍の功名を上げた。

また、偶然出会った浅井の兵数十人に「自分も浅井方であるから共に退却しよう」と偽り、討ち取る機会を伺っていたところ、通りかかった弟の半助から「その敵を討ち取れ」と声をかけられて怪しまれたため、敵兵の主人と数人を倒して半助に首を取らせた。

この戦で正成は若い将兵の後見も任されていたという。

元亀6年(1572年)、三方ヶ原の戦いで正成は先手として大須賀康高の隊に配属され一番槍の功名を上げた。

しかし徳川軍は大敗し、正成は大久保忠隣、菅沼定政らと共に家康を守り浜松城を目指した。

この時正成は顔と膝を負傷していたが、家康の乗馬に追いついた敵と格闘し撃退している。

浜松城へ帰還した際には、敗戦に狼狽する味方を鼓舞するため一人で城外へ引き返し、敵と一騎打ちのすえ討ち取った首を手に城内へ戻った。

戦功により正成は浜松城二の丸に召し出され、家康から褒美として平安城長吉の槍を含む槍二穂を贈られ、また伊賀衆150人を預けられた。

天正2年(1574年9月)、武田勝頼の遠江出陣の際には、氾濫した天竜川を渡ろうとした板垣信通の家臣や、浜松城下にて刈田を行おうとした山県昌景配下の小菅元成らへ攻撃を加えている。

天正3年(1575年)、長坂血鑓九郎信政の娘を正室に迎える。

同年夏、高天神城開城の後、正成は大須賀康高の大須賀党組へ配属され、高天神城攻めに参加する。

大須賀党組には塙団右衛門、井上半右衛門、松下嘉兵衛(嘉平次)、鉄砲名人の鳥居金五郎、忍び名人で「大鼠」と呼ばれた神谷権六、「槍半蔵」渡辺守綱などが属していたという。

天正4年(1576年)、長坂信政女子との間に長男の正就が出生する。

天正7年(1579年)、家康の嫡男信康が織田信長に疑われ遠江国二俣城で自刃に追いやられた際は検使につかわされた。

この時、信康の介錯を命じられたのは渋川四郎右衛門であったが、渋川は「三代相恩の主の御首に刀は当てられぬ」とその日の夜に出奔してしまった。

そのため正成が俄かに介錯を命じられたが、信康のあまりのいたわしさに首を打ちかね、刀を投げ捨て落涙し倒れ伏したため、正成に代わり天方道綱が介錯を行った。

報告を受けた家康は「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」と正成をより一層評価したという。

信康介錯の逸話については『三河物語』に描写されており、正成は信康の側仕えだったという説もあるが、信康とはほとんど面識が無く、この逸話は後世の創作であるとする説や、服部半蔵ではなく渡辺半蔵が介錯したという説もある。

近年では信康の切腹は、家康と信康の対立が原因とする説が出されている。

また「三代相恩の主の御首に刀(刃)は当てられぬ」という渋川四郎右衛門の言葉については、正成の言葉として記載されている場合も多い。

天正8年(1580年)、次男の正重が出生する。

その後、三男の正廣が出生(時期不明)し、のちに正廣は出家したという。

同年、高天神城攻めのため浜松城下に駐留する織田家の援将、大垣卜仙の家人と徳川家臣の家人が些細な事で衝突する。

浜松にいた正成は頼まれて加勢に加わるが、報復として正成を襲った大垣家人らを服部家で迎え撃った結果、大垣家・服部家の双方に複数の死者を出す事となった。

大垣家が織田家臣である事を重く見た家康は、逃げるつもりのない正成を説得して牢人とし、妻子ともども浜松から逃がすと、別人の首を「正成の首」に仕立て大垣家に差し出したという。

この事件の後、伊賀越えまでの2年間の正成の消息は不明である。

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天正10年(1582年)6月、信長の招きで家康が少数の供のみを連れて上方を旅行中に本能寺の変が起こるが、このとき堺に滞在していた家康一行が甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に帰還した、いわゆる「伊賀越え」に際し、先祖の出自が伊賀である正成は商人・茶屋四郎次郎清延とともに伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉し、彼らに警護させることで一行を安全に通行させ、伊勢から船で三河の岡崎まで護衛した。

同地で味方となった彼らは後に馬廻、伊賀同心、甲賀同心として徳川幕府に仕えている。

この時、正成は栗という場所にいた所を召し出され伊勢の白子まで同行したという。

正成は一揆勢に対し道をあけるよう大声で呼びかけその隙に家康らを通行させたが、相手が襲ってきたため馬を乗り入れて応戦した。

しかし土塁に駆け上がった際に堀へ転落し、上から槍で脚を十ヶ所近く突かれ気を失った。

家臣の芝山小兵衛は家康へ「正成は討ち死にした」と伝えたが、遺体を回収しようと戻ったところ生きていたため、これを介抱しながら共に帰ったという。

岡崎に帰着した後の6月15日、正成は御先手頭を申し付けられた。

同年には本能寺の変により甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、7月に正成は家康に従い甲斐へ出陣する。

家康は現在の北杜市域を中心に布陣した相模国の北条氏直に対して甲府盆地の各地の城砦に布陣し、正成は伊賀衆を率いて勝山城(甲府市上曽根町)や右左口砦・金刀比羅山砦(甲府市右左口町)に配置され、甲斐・駿河を結ぶ中道往還を監視した。

勝山城で正成は津金衆の協力を得て周辺の地を守備した。

同年8月、徳川勢が信濃国佐久郡に侵攻すると、正成は伊賀衆を率いて津金衆・小尾祐光らの郷導を受け、9月初旬には佐久郡江草城(獅子吼城)を夜襲し落城させる。

9月下旬、三嶋方面への北条氏侵攻により三枚橋城の松平康親、大澤基宿から要請を受けた正成は戸倉城の援将として90騎程を率いて防衛し、三嶋で刈田を行った。

北条勢の戸倉城攻撃の際は援将である本多重次と共に防衛にあたり、正成は岡田元次と韮山で刈田を行った。

この頃、正成は韮山の押さえのため天神ヶ尾砦に入り、韮山方面への攻撃と防衛にあたっている。

9月8日の夜には、敵の砦である佐野小屋に伊賀者2人を忍び入れて詳細に報告させ、同月15日、伊賀衆を先鋒とし、大雨に紛れ攻め落とした。

この功を家康は「信玄・勝頼の二代を防いだ堅固な砦をついに落とした」と賞賛したという。

同年12月、正成と伊賀衆は江草城(獅子吼城)守備の任につく。

天正11年8月、正成は命を受け、伊賀者200人を率いて甲斐国の谷村城(山梨県都留市)城番となり守備にあたった。

天正12年3月、小牧・長久手の戦いでは伊勢松ヶ島城の加勢で伊賀甲賀者100人を指揮し、鉄砲で豊臣方を撃退している。

正成は二の丸を守備し、筒井勢を防いだ。

続く蟹江城の奪還戦で正成と配下の伊賀鉄砲衆は松平康忠と共に東の丸(前田口)の包囲に加わり、井伊直政の大手口突入が始まると二の丸へ攻め入った。

天正18年(1590年)の小田原征伐に鉄砲奉行として従軍した。

正成は大組百人の組頭として根来衆50人を率いていたという。

この時、日下部兵衛門(根来衆50人)、成瀬吉右衛門(成瀬正成の誤り、30人)も大組百人の組頭を務めている。

戦で正成は十八町口にて奮戦し、首を十八級挙げたという。

この際、正成が用いていた黒地に白の五字附四半指物を使番の旗印にしたいと本多正信を通じて家康より求めがあったため、正成はすぐにこれを差し出し、以後は紺地に白の矢筈車紋の旗を用いた。

以後、徳川軍の使番旗には白地に黒五字の旗印が採用され、使番の中でも熟練し功績の多い者に使用が許された。

なお、正成が五字四半指物の代わりに用いたという「矢筈車の旗」の家紋の詳細については判明しておらず、一般的に服部氏が使用する「源氏車に矢筈」や「矢筈車」と呼ばれる場合のある「矢尻付き三つ矢筈」等が推察される。

小田原の陣の功により遠江に知行を与えられた正成は、家康の関東入国後は与力30騎および伊賀同心200人を付属され同心給とあわせて8,000石を領した。

自身は武将であったが、父親である保長が伊賀出身で忍びの出であった縁から徳川家に召し抱えられた伊賀同心を統率する立場になったという。

この頃の知行は遠州布引山麓の村、遠州イサシ村、サハマ村、天正の頃は遠州長上郡小池村のあたりであったといわれる。

また、慶長元年(1597年)には正成が武蔵国橋戸村を領していた記述が地方文書に認められる。

文禄元年(1592年)には肥前名護屋へ鉄砲奉行として従軍する。

徳川の陣営は前田利家の陣営と隣同士であり、共用の水汲み場で下人や足軽らの諍いが起きた。

集まった両陣営の人数は戦いが起きる寸全にまで膨れ上がったため、正成は配下の兵に命じて火縄に点火させ、前田の陣に鉄砲を向けたという。

また、「正成は争いを収めようと肌脱ぎ駆け回ったが収まらず、本多忠勝が出てようやく事態が収まった」とする説もある。

この戦が正成にとって最後の出陣となった。

慶長元年11月14日(1597年1月2日)に病没し、江戸麹町清水谷の西念寺に葬られた。(没年について寛政重修諸家譜は慶長元年11月4日と記している)

西念寺は、正成が生前に信康の菩提を伴うために創建した浄土宗の庵・安養院の後身である。

安養院は江戸麹町の清水谷(現在の千代田区紀尾井町清水谷公園付近)にあり、正成は1593年(文禄2年)家康から300両を与えられ寺院を建立するよう内命を受けたが、西念寺の完成を待たず死去した。

その後、西念寺は江戸城の拡張工事のため1634年(寛永11年)頃に現在地に移転したとする。

西念寺の山号・寺名は彼の法名に因み、現在も毎年11月14日に「半蔵忌」の法要が行われている。

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