【時代】 安土桃山時代 – 江戸時代
【生誕】 天正4年(1576年)
【死没】 慶長20年5月7日(1615年6月3日)
【別名】 通称:半蔵、石見守、通名:源左衛門
【官位】 石見守
【主君】 徳川家康、徳川秀忠
【氏族】 服部氏

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概要 (説明はWikipediaより)

安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。

通称は半三(はんぞう)、あるいは源左衛門で、一般に服部半蔵(半三)の名で知られている服部正成の長男。

母は徳川家康の家臣である長坂信政の女子と伝わる。

正室は松平定勝(久松松平氏)の長女松尾、子は服部正幸、服部正辰、服部正治。

官位は石見守。

生年については天正4年(1576年)と永禄8年(1565年)の説がある。

父である服部正成の病死により、21歳の時、服部家の家督および服部半蔵の名と御先手鉄砲頭、与力7騎・伊賀同心200人の支配を引継いだ。

正室の松尾は、自身の祖母であり伯父徳川家康の母である於大の方に侍女として仕えていた。

松尾の父は家康の異父弟の松平定勝であり、縁組が決まると松尾は家康の養女とされた。

松尾との婚姻後、於大の方への返礼のため登城した正就は、家康より秋廣の刀を賜っている。

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慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦の前の6月18日、諸大名を動員して上杉景勝討伐に向かう家康が石部宿に到着した。

しかし西軍とされた長束正家の策謀を疑い、長束の領地である水口城下を夜間ひそかに通り抜けた際、本多忠勝、渡辺守綱、水野正重らと共に護衛にあたった。

正就ら鉄砲頭は火縄に火をつけた臨戦状態で警戒した。

6月22日、正就は上杉景勝の支配する白川小峰城(白河城)に向け派遣された。

大田原晴清の援軍として皆川広照、皆川隆庸らと共に下野国の大田原城へ入り、家康より預かった鉄砲の配備し、また宇都宮の守備にあたる。

この時、大田原城に運び込まれた鉄砲の数については、史料により「鉄砲100挺」「長筒の鉄砲10挺」「大砲10挺」「大砲15挺」などの差異がある。

9月15日の関ケ原の合戦の本戦には参加せず、下野黒羽城にて親族の服部保英(伊賀衆100人)、岡部長盛(甲賀衆100人)、黒羽城主大関資増、千本義定(那須衆)と共に対上杉として防衛に籠っている。

また、8月中に白河城の偵察に伊賀者を3人送り込み、その報告を検討した上で岡部長盛とともに、徳川方対上杉軍総大将の結城秀康に「速やかに白河城を攻めるべし」と進言したが、秀康は家康から守勢を厳命されていたこともあり、「今は形勢に従う」と沙汰され、白河城攻めは中止となる。

翌慶長6年(1601年)7月、正就は鉄砲3挺と玉薬を城付武具として残し、大田原城を退去し、その後は江戸にて秀忠に仕えた。

服部家には多くの伊賀者が関わっていたことが推察されるが、その中の一つ「伊賀同心二百人組」と呼ばれる組織は服部家の家来ではなかった。

彼らの多くは伊賀越えにおいて家康一行を御斎峠まで送り届けた伊賀の地侍とその家族であり、後年、家康は徳川家に仕官を望んだ彼らを徒歩同心の身分で召し抱える事とした。

その際家康は「先祖が伊賀の郷士である」という理由で指揮権を服部正成に預けたのだが、彼らは「自分たちは徳川家に雇われたのであり服部氏の家来ではない事、正成の先祖が伊賀を出て三河に住んだ事、伊賀における正成の家格は自分たちよりも下である事」を理由に口惜しく思っており、徳川家からの命令で仕方なく従ったとされる。

この確執は、正成の死後、指揮権を引き継いだ正就の代も続いたとみられる。

慶長9年(1604年)、江戸麹町の服部屋敷が江戸城火事の類焼により焼失した。

この屋敷の再建の際、普請の手伝いを申しつけられた伊賀同心の一部が「正就の屋敷の普請を自分たちが行うのは道理に合わない」と目安で訴えたため、正就は幕府から詮議を受けることになった。

伊賀同心らとしては、自分たちは幕府に召し抱えられたのであり服部氏の家来ではない、服部氏から屋敷再建の手伝いの命を出されたり、手伝わぬことに服部氏から咎を受けたり、知行について指図されるのは筋が通らない、という考えであった。

しかし、幕府による詮議の結果「石見守(正就)に理分がある」とされ、伊賀同心達は残らず取り調べられ、目安を投じ徒党を企てた張本人の7人が処罰を受けた。

この伊賀同心達の取り調べの間に、正就の身内に病人が出た。

正就は将軍秀忠とのお目見えを控えていたが、密かに見舞いに出かけ、夜更けになり帰宅の途についた。

その折、何者かが行きがかりに正就の家来を突き倒し、雑言を吐き刀を抜いて向かってきたため、正就はやむを得ず相手を斬り殺した。

その際、相手は伊奈忠次配下の足軽であったことが判明した。

翌日、城中に上がった正就は前夜の事件を老中に報告したが、「狼藉者を成敗したのはもっともな事であり、先日の伊賀同心の訴えについても正就に理がある。

とはいえ、お目見えの前に関わらず私用で夜間に外出したことは落ち度である」と沙汰され、12月2日に改易を申しつけられた。

なお、改易の時期については慶長9年ではなく「慶長10年(1605年)」としたものや「慶長10年(1605年)2月に服部石見が江戸衆鉄砲奉行として将軍上洛に供奉し、同年12月に改易」とした史料もあるが、正就の子孫である大服部家・小服部家の家譜を始めとする「慶長9年改易」と記した史料には上洛供奉の記述はなく、一部の史料中においてもその点が指摘されている。

「服部石見」の名は服部家の家督を継承し服部半蔵を務める者が代々名乗ることから、慶長10年の上洛に供奉したのは正就の弟である服部正重の可能性もあり、今後の研究が待たれる。

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慶長9年12月の改易後、正就は舅である松平定勝の預かりとなり、妻子と共に定勝の所領の遠江国掛川へ移り蟄居となった。

この間、正就は松尾との祝言の際に家康から贈られた秋廣の刀を掛川の神社に納めている。

慶長12年(1607年)松平定勝の伏見城代就任に伴い、正就も伏見へ同行し蟄居を続け、許されて定勝に仕える身となった。

慶長19年(1614年)、大坂の陣が始まると、正就は軍功に励み己の不始末を詫びて働くことで挽回したい旨を松平定勝に訴え、徳川軍の越後高田藩主松平忠輝(家康息)の陣中に加わった。

忠輝の陣に着くと正就は「某が御先手を仕る、不調法を詫びるべく一命を果たして仕える」と願い出、これが聞き届けられた。

翌年の慶長20年(1615年)5月7日、家臣の長嶋五左衛門を伴い天王寺口の戦いに赴いた正就であったが、戦の最中行方不明となる。

正就や従者、家臣は全て討死したとみられ、彼らの遺体は見つからず、妻子らは戦死の報のみを知らされた。

戦の後、遺体がないまま紀州高野山山中成源寺(現在は廃寺)にて葬儀が行われ、法号は「了義院殿前石州禅室参公大居士」とされた。

法号のみ伏見の三宝寺に残されているが、墓や供養塔はないという。

正就の死後、幼い息子達は母の松尾とともに定勝夫婦のもとで養育され、成長した後は松尾の弟であり桑名藩主となる松平定綱に仕えた。

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