【時代】 戦国時代 – 江戸時代前期
【生誕】 弘治元年(1555年)
【死没】 慶長20年3月14日(1615年4月11日)
【改名】 九八郎(幼名)、貞昌、信昌
【別名】 定昌
【官位】 従五位下・美作守
【主君】 徳川家康→武田信玄→勝頼→徳川家康→秀忠
【氏族】 奥平氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主。

初名は貞昌(さだまさ)。

徳川家康の長女・亀姫を正室とし、家康に娘婿として重用された。

亀姫との間に家昌など4男1女を儲けた。

三河国作手(つくで)の有力国人・奥平定能(貞能)の長男。母は牧野成種の娘。

奥平氏は祖父・貞勝の代までは今川氏に属していたが、桶狭間の戦い後に三河における今川氏の影響力が後退すると、徳川家康の傘下となり遠江掛川城攻めに加わった。

しかし元亀年間(1570年 – 1573年)には武田信玄の三河への侵入を契機に武田氏に属した。

一方、元亀4年(1573年)ごろ家康は奥三河における武田氏の勢力を牽制するため有力な武士団・奥平氏を味方に引き入れることを考え、奥平氏に使者を送ったが、奥平貞能の返答は「御厚意に感謝します」という程度のものだった。

そこで家康は織田信長に相談、信長は「家康の長女・亀姫を貞能の長男・貞昌に与えるべし」との意見を伝えてきた。

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その後、亀姫との婚約を提案された貞昌は、武田家に人質として送っていた妻おふうと離縁。しばらくして徳川氏の家臣となった。

貞能・貞昌親子の徳川帰参を受け、武田勝頼は貞昌の妻おふう(16歳)・貞昌の弟千丸(13歳)など奥平氏の人質3人を、天正元年(1573年)9月21日に処刑している。

天正3年(1575年)、武田氏に備え新城城を築城したという。

奥平氏の離反に激怒した武田勝頼は、天正3年(1575年)5月に1万5,000を号する大軍を率いて長篠城へ押し寄せた。

貞昌は長篠城に籠城し、家臣の鳥居強右衛門に援軍を要請させて、酒井忠次率いる織田・徳川連合軍の分遣隊が包囲を破って救出に来るまで武田軍の攻勢を凌ぎきった。

その結果、同月21日の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍は武田軍を破り、勝利をおさめることができた。

この時の戦いぶりを信長から賞賛され、信長の偏諱「信」を与えられて名を信昌と改めた。

信長の直臣でもないのに偏諱を与えられた者は、信昌の他に長宗我部信親や松平信康などがいるものの、これらはいずれも外交的儀礼の意味合いでの一字贈与であると考えられている。

ただし、近年になって、武田信玄こと晴信の偏諱「信」を与えられて信昌と称したものの、後世の奥平氏がこの事情を憚って信長からの偏諱の話を創作したとする説も出されている。

家康もまた、名刀大般若長光を授けて信昌を賞賛した。

家康はそれだけに留まらず、信昌の籠城を支えた奥平の重臣12名に対して一人一人に労いの言葉をかけた上に、彼らの知行地に関する約束事など子々孫々に至るまでその待遇を保障するという特異な御墨付きまで与えた。

戦後、父・貞能から正式に家督を譲られた。

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天正10年(1582年)の天正壬午の乱では酒井忠次と共に武田家遺領へ侵攻。天正13年(1585年)、徳川氏の宿老・石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔し、数正によって秀吉に自家の軍事機密が流出したことに対抗するため、家康は急遽三河以来の軍制を武田信玄の軍制に改めた。

かつて武田家に臣従していた信昌は、この軍制改革に貢献したという。

天正18年(1590年)7月、関東へ国替えとなった家康と共に関東に移転した。同年8月23日、上野国甘楽郡宮崎3万石に入封する。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは本戦に参加(一方で家史・中津藩史では、秀忠軍に属していたと記載あり)。

戦後は京都の治安維持のため、京都所司代を翌年まで務める。

この時、京都潜伏中の安国寺恵瓊を捕縛した。恵瓊が所持していたという短刀・庖丁正宗は、信昌が家康に献じたものだが、改めて信昌に下されている。

一方で太秦に潜伏していた宇喜多秀家には逃げられている。

慶長6年(1601年)3月には、関ヶ原の戦いに関する一連の功として、上野小幡3万石から美濃国加納10万石へ加増転封される。

慶長7年(1602年)、加納で隠居し、三男・奥平忠政に藩主の座を譲った。

慶長19年(1614年)には、忠政と下野国宇都宮10万石の長男・家昌に先立たれるが高齢を案じられてか、息子たちに代わる大坂の陣への参陣を免除された。

そこで、唯一参戦した末男・松平忠明の下へ美濃加納の戦力だけは派兵している。

翌年3月に死去した。

信昌の長篠籠城を偲んで、大分県中津市の奥平神社では毎年5月に例大祭「たにし祭」が開催されている。

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