【時代】 戦国時代 – 江戸時代前期
【生誕】 天文17年(1548年)
【死没】 慶長14年2月18日(1609年3月23日)
【改名】 宗政→長政→吉政
【別名】 仮名:久兵衛
【官位】 従四位下・筑後守・兵部大輔・侍従
【主君】 宮部継潤→豊臣秀次→秀吉→徳川家康→秀忠
【氏族】 田中氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

筑後国主。

転封の過程で居城とした近江国八幡(現滋賀県近江八幡市)、三河国岡崎(現愛知県岡崎市)、筑後国柳川(現福岡県柳川市)などに、現在につながる都市設計を行った。

天正10年(1582年)頃、宮部家中から5,000石を与えられ、秀吉の甥の羽柴秀次(のちの豊臣秀次)の宿老となった。

天正13年(1585年)に秀次が近江八幡43万石を与えられると、吉政はその筆頭家老格となった。

このとき、同じく秀次付き家老格となった中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末らはそれぞれ居城を持ったが、吉政は秀次の居城・八幡山城にあって、関白殿一老として政務を取り仕切った。

また天正14年(1586年)の大政所の三河国下向にもかかわったという記述がある。

この時代の吉政の書状は、比較的多く残っている。織田信長が築いた安土城下の町を八幡城下に移し、町割を行った。

江戸時代中ごろまでは、久兵衛町と名づけられた地域が、近江八幡の町の一画に残っていた。

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天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の北条氏を制圧し、諸大名の配置換えを行った。

この結果、徳川家康は関東に転封された。

また織田信雄は下野国烏山2万石に減封された。

その結果、空いた尾張国には豊臣秀次が入った。

小田原征伐でも秀次軍として活躍した吉政は三河国岡崎城5万7,400石の所領が与えられた。

尾張堤普請には惣奉行に命じられ、資材の調達にも関わっていた。

文禄4年(1595年)、秀次は自害させられ、木村重茲、前野景定、羽田正親、服部一忠、渡瀬繁詮、明石則実、一柳可遊、粟野秀用、白江成定、熊谷直之ら10名が賜死となり、そのほかにも多くの家臣が処分を受けたが、吉政ら宿老にはお咎めはなかった。

その際、石田三成が関与したかどうかは不明である。

ただし、関白殿一老であった吉政に対しては、切腹を勧める者もいた。

吉政には実際は処分はなく、「秀次によく諌言をした」ということで2万8,358石3斗の加増、文禄5年(1596年)に更に1万4,252石6斗加増され、三河国岡崎城主、10万石の大名となった。

吉政は岡崎城を近世城郭に整備した。

そして城下の町割には7つの町を堀で囲む田中掘を築造した。

また、西側の低湿地の埋め立てを行った。

さらに、本来岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の道に整備した。

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秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に属した。

関ヶ原の合戦前の岐阜城攻略では黒田長政・藤堂高虎と共に大垣城から岐阜城へ向かう西軍を河渡で殲滅した。

この際、石田三成の配下の杉江勘兵衛は、吉政の家臣である辻重勝により討ち取られている。

本戦においては黒田長政軍とともに石田三成軍と激突している。

また、西軍の山田去暦や、最前線で戦った明石全登(吉政の娘婿という説がある)の逃走を、合戦後に黒田長政(明石全登の親族)と共に手助けをしたとされている。

東軍勝利後、三成の居城佐和山城を宮部長房(長煕)と共に搦手から突入して落城させるとともに、伊吹山中で逃亡中の三成を捕縛する大功を挙げた。

実際に捕縛に当たったのは、田中伝左衛門・沢田少右衛門である。

三成は腹痛で病んでいたが、医師の勧める薬は拒否したため、吉政は熟慮の上、健康に良いという理由付けをしてニラ粥を勧めたので三成はそれを食したと言われている。

吉政に会った三成は太閤から給わった脇差しを吉政に授けた(寸延短刀 石田貞宗:東京国立博物館蔵)。

手厚くもてなされた礼であると言われている(三成も捕縛される時、「他の者よりはお前に捕らえられた方がいい」という旨の発言をしたという)。

三成の大小のうち打刀(さゝのつゆ、備後貝三原正真作)は捕縛者である田中伝左衛門(田中吉忠)に渡った。

戦後、これらの勲功が認められて、筑後一国柳川城32万石を与えられ、国持ち大名となった。

吉政は、柳川の掘割を整備することで水運や稲作のための用水路を整備し、近代的な街作りを行った。

水路以外にも柳川と久留米を結ぶ田中街道(現福岡県道23号)や柳川と八女福島・黒木を結ぶ街道を作るなど、陸路の整備にも力をいれた。

また、矢部川の護岸整備や有明海沿岸に慶長本土居と呼ばれる堤防を整備したほか、収入の増加を目指して有明海の干拓にも取り組んだ。

慶長14年(1609年)に京都伏見で没した。

享年62。

田中家は跡を継いだ忠政が男子を残さぬまま死去したために、元和6年(1620年)に改易された。

忠政がキリスト教に寛容であり、キリスト教禁教後の政策が比較的穏やかだったことが一因とする見方もある。

傍系の親族は他家の家臣となることなどで家系を存続させている。

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