【時代】 戦国時代
【生誕】 永正12年(1515年)
【死没】 元亀2年10月3日(1571年10月21日)
【改名】 伊豆千代丸(幼名) → 氏康
【別名】 通称:新九郎、号:太清軒、渾名:相模の獅子、相模の虎
【官位】 従五位上、相模守、左京大夫
【氏族】 伊勢氏 → 北条氏(桓武平氏)
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
戦国時代の武将。
相模国の戦国大名。
後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。
後北条氏第3代目当主。
母は氏綱の正室の養珠院。
関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。
後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。
後北条初代として扱われる伊勢宗瑞(北条早雲)が存命中の永正12年(1515年)、第2代当主・北条氏綱(当時は伊勢氏綱)の嫡男「伊勢伊豆千代丸」として生まれる。
4歳の時に祖父・宗瑞が死去。
7歳の頃から父・氏綱は北条氏を名乗るようになる。
元服は氏綱の左京大夫任官と同時期の享禄2年(1529年)年末の15歳の頃と見られている。
享禄3年(1530年)、小沢原の戦いにおける初陣にて上杉朝興と戦い、これに大勝したと伝承されており(『異本小田原記』)、当時代史料の面からも事実に近いとされている。
天文4年(1535年)8月の甲斐山中合戦、天文6年(1537年)7月の河越城攻略などに出陣して戦功を重ね、天文7年(1538年)の第一次国府台の戦いでは父と共に足利義明・里見連合軍と戦い、敵の総大将・小弓公方の足利義明を討ち取って勝利を収めた。
天文6年(1537年)7月には父と共に鎌倉鶴岡八幡宮に社領を寄進し、同8年(1539年)6月には将軍・足利義晴から巣鷂(鷹の雛)を贈られている。
天文10年(1541年)に氏綱が死去したため、家督を継いで第3代当主となった。氏綱は死の直前、5か条の訓戒状を残している。
一説では天文7年(1538年)に氏綱が隠居して氏康に家督を譲り、後見していたとされる。
また、氏綱は天文10年の初夏には体調を崩して前述の訓戒状残していることから、氏綱の隠居は死の直前であったとする説もある。
天文14年(1545年)、駿河の今川義元は、関東管領・山内上杉憲政や扇谷上杉朝定(朝興の子)等と連携し、氏康に対し挙兵した。
義元は、北条氏綱に奪われていた東駿河を奪還すべく攻勢をかけた。
これを第2次河東一乱という。
氏康は駿河に急行するものの、北条勢は今川軍に押され、吉原城・長久保城を自落させるなど、状況は不利であった。
その在陣中、関東では山内・扇谷の両上杉氏が大軍を擁して義弟・北条綱成が守る河越城を包囲したという知らせが届き、東西から挟み撃ちにあった氏康は絶体絶命の危機に陥った。
この窮状の中まずは片方を収めるべく、氏康は武田晴信の斡旋により、義元との和睦を模索。
東駿河の河東地域を義元に割譲することで和睦する。
後の武田氏を交えた甲相駿三国同盟の締結までは緊張が続いたが、その後は同盟関係を堅持し、駿河侵出はなかった。
関東では義元と手を結び態勢を立て直した両上杉氏に加え、氏康の義兄弟(妹婿)であり、これまでは北条と協調してきた古河公方・足利晴氏までもが連合軍と密約を結び、河越城の包囲に加わった。
およそ8万の連合軍に包囲された河越城は約半年に渡って籠城戦に耐えるものの、今川との戦いを収め関東に転戦した氏康の北条本軍は1万未満しかなく、圧倒的に劣勢だった。
氏康は両上杉・足利陣に「これまで奪った領土はお返しする」との手紙を送り、長期の対陣で油断を誘った。
そして翌天文15年(1546年)、氏康は城内の綱成と連携して、連合軍に対して夜襲をかける。
この夜襲で上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡した。
また、上杉憲政は上野国平井に、足利晴氏は下総国に遁走した(河越夜戦)。「河越城の戦い」の内容に関しては、同時代史料が乏しく、研究の余地の大きい合戦ではあるものの、この戦いで北条氏側が勝利したことにより、氏康は関東における抗争の主導権を確保する。
[sengoku-2]先の河東一乱後の和睦はなったが、今川との関係は依然として緊迫した状況であり、天文17年(1548年)3月、氏康が織田信秀に宛てた返書(古証文写)の「一和がなったというのに、彼国(義元)からの疑心が止まないので迷惑している」という内容からもそれは見て取れる。
一方「天文23年(1554年)、今川義元が三河国に出兵している隙を突いて再び駿河に侵攻するが、義元の盟友である武田晴信の援軍などもあって駿河侵攻は思うように進まなかった」といった後世に成立した北条の軍記物(『関八州古戦録』、『小田原五代記』)に描かれているような第3次河東一乱とみられる動きは、今川氏や武田氏・近隣国に関する同時代史料・軍記からは確認できず、先の興国寺領に関する旧説と遺跡・史料研究の齟齬からも、小和田哲男、有光友学、黒田基樹他、今川氏や後北条氏、武田氏の研究者による見解は否定的である。
天文23年(1554年)7月、今川氏の重臣・太原雪斎の仲介などもあって、娘・早川殿を今川義元の嫡男・今川氏真に嫁がせ、12月には、前年に婚約の成立していた武田信玄の娘・黄梅院を嫡男・氏政の正室に迎えることで、武田・今川と同盟関係を結ぶに至った(甲相駿三国同盟)。
さらに氏康は実子の氏規を実質的に人質として、氏規にとっては外祖母にあたる寿桂尼に預けた(この時氏規は松平竹千代・後の徳川家康と親交を結んだとされる)。
これにより背後の駿河が固まったことになり、主に武田氏と軍事的連携を強化し、関東での戦いに専念することになる。
永禄2年(1559年)、氏康は次男で長嫡子の氏政に家督を譲って隠居した。
「永禄の飢饉」という大飢饉が発生していたため、その責を取るという形で代替わりによる徳政令の実施を目的としていた。
しかし隠居後も小田原城本丸に留まって「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握しながら、氏政を後見するという、「ニ御屋形」「御両殿」と称される形体に移行した。
この頃、上野国内の上杉方(横瀬(由良)氏・上野斎藤氏・沼田氏など)をほぼ降伏させ、この時点では上野国の領国化に成功している。
越後に対しては越後から上野への出入口・沼田に北条康元を置いて対抗した。
永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いにおいて織田信長に討たれたため、今川氏の勢力が衰退する。
同年、上杉謙信が「永禄の飢饉」の中の関東へ侵攻し、小田原城の戦いとなる。
上杉憲政を奉じ、8,000の軍勢を率いて三国峠を越えた謙信は、各地で略奪を繰り広げながら、厩橋城・沼田城・岩下城・那波城など上野国の北条方の諸城を次々と攻略し、関東一円の大名や豪族さらには一部の奥州南部の豪族に動員をかける。
これに対し、上総国の里見義堯の本拠地・久留里城を囲んでいた氏康は、包囲を解いて9月に河越に出陣、10月には松山城に入る。
ここで主要な城へ籠城指示を出し、その後本拠地の小田原城に入城。
籠城の構えをとった。
上杉連合軍には、上野国の白井長尾氏、総社長尾氏、箕輪長野衆、沼田衆、岩下斎藤氏、金山横瀬氏、桐生佐野氏。
下野国の足利長尾氏、小山氏、宇都宮氏、佐野氏。
下総の簗田氏、小金高城氏。
武蔵国の忍成田氏、羽生広田氏、藤田衆、深谷上杉氏、岩付太田氏、勝沼三田氏。常陸国では、小田氏、真壁氏、下妻多賀谷氏、下館水谷氏。
安房国の里見氏。
上総国の東金酒井氏、飯櫃城山室氏といった『関東幕注文』の面々に加え、遅れて佐竹氏が参陣した。
これに対し、北条氏には上野国の館林赤井氏、武蔵国の松山上田氏。
下野国の那須氏。
下総の結城氏、下総守護千葉氏、臼井原氏。
上総国の土気酒井氏。常陸国の大掾氏が組みし、玉縄城には北条氏繁、滝山城、河越城に北条氏堯、江戸城、小机城、由井城に北条氏照、三崎城に北条綱成、津久井城の内藤康行で等対抗した。
12月初旬、謙信は下総古河御所などを包囲。上野廓橋城にて越年し、永禄4年(1561年)2月に松山城、鎌倉を攻略。
最終的に10万余りの連合軍を率い、氏康の本国・相模にまで押し寄せた。
連合軍先陣は3月3日までには当麻に着陣。
上杉方は14日に中郡大槻にて北条方・大藤氏と交戦。
謙信勢も3月下旬ころまでに酒匂川付近に迫り(加藤文書・大藤文書他)、居城・小田原城を包囲した。
『関八州古戦録』等の軍伝に於いては上杉軍の太田資正隊が小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、対する北条軍は各地で兵站に打撃を与えて抗戦、この間、包囲は一ヶ月に及んだとも伝えられているが、同時代史料では上杉軍による城下への放火等は記されているものの(「上杉家文書」)、詳細は明らかになっておらず、前後の上杉軍や謙信の動きから包囲自体は1週間から10日間ほどであったという。
小田原城の防衛は堅く、当時関東では飢饉の続発していたため長期にわたる出兵を維持できず、佐竹氏など諸豪族が撤兵を要求し、一部の豪族は勝手に陣を引き払う事態となっていた(杉原謙氏所蔵文書)。
さらに氏康と同盟を結ぶ信玄が信濃国川中島に海津城を完成させ、信濃北部での支配域を広げることで、謙信を牽制。
これらにより、謙信は小田原城から撤退、鎌倉に兵を引き上げ、閏3月に鶴岡八幡宮にて関東管領に就任した。
この後、謙信は足利藤氏(義氏の庶兄)を公方として擁立。
更に謙信は上杉憲政を関白・近衛前久と共に古河に入れると、武田氏に扇動された一向一揆が越中国で蜂起したこともあり、このときの小田原城の攻略を断念。
早くも上杉軍から離反した上田朝直の松山城を再攻略し、各地で略奪・放火を行いながら、6月に越後国へ帰国した。
他にも、関宿城等の城が北条氏から離脱したが、玉縄城、滝山城、河越城、江戸城、小机城、由井城、三崎城、津久井城等は攻勢を耐え切った。
以降の永禄年間、上杉謙信は、作物の収穫後にあたる農業の端境期である冬になると関東に侵攻し、氏康は北条氏と上杉氏の間で離脱従属を繰り返す国衆と、戦乱と敵軍の略奪による領国内の荒廃といった、その対応に追われることなる。
永禄4年の謙信帰国の直後には、関東管領就任式時に北条下から離脱していた下総国の千葉氏・高城氏が再帰参したが、氏康は謙信の帰陣前の6月から、既に上杉氏に奪われた勢力域の再攻略を試みていた。
9月には武蔵国の三田氏を攻め滅ぼし、その領国は氏照に与えられた。
次に氏邦が家督を継いでいた藤田氏の領国のうち、敵に応じていた秩父日尾城、天神城を攻略し、武蔵北部を奪還した。
さらに武蔵国の小田氏・深谷城の上杉憲盛をも再帰参させ、上野国の佐野直綱と下野国の佐野昌綱を寝返らせることに成功したが、昌綱の方はその後まもなく謙信に降伏している。
氏康は武蔵国へ軍勢を派遣し、11月27日の生野山の戦いで、第四次川中島合戦直後の上杉勢を破り上野国まで後退させると(内閣文庫所蔵・小幡家文書、出雲桜井文書、相州文書)、そのまま上野武蔵境まで進軍して、秩父高松城を降伏させ、氏邦の領国の回復を成させた。
上杉勢は古河城を、公方宿老の簗田晴助に任せるとの書状を出して軍を引き上げていたが、12月には近衛前久は由良成繁に古河城の苦境を伝えている(『古簡雑纂』)。
古河城を追われた義氏は、北条氏によって上総佐貫城に移された。
永禄6年(1563年)には武田氏の援軍を得たこともあって、氏康は松山城や上野厩橋城を攻略。
さらに下野の小山氏を寝返らせ、その後は古河城をも攻略し、謙信が古河公方として擁立した足利藤氏を捕らえた。
これに対し謙信も反撃、三国峠を越えて上野・武蔵・下野・常陸・下総へ侵攻。
厩橋城や古河城を奪還し、成田氏・小山氏・結城氏・小田氏を降伏させる等、北条方の諸城を攻略するが、両軍ともに支配権を安定させるまでには至らず、一進一退の攻防が続いた。
[sengoku-3]永禄7年(1564年)、里見義堯・義弘父子と上総国などの支配権をめぐって対陣する(第二次国府台の戦い)。
北条軍は兵力的には優勢であったが、里見軍は精強で一筋縄にはいかず、北条軍は遠山綱景などの有力武将を多く失った。
しかし氏康の攻勢により里見軍は敗れて安房国に撤退した。
同年の永禄7年、太田資正を、その息子と謀って岩付城から追放し、氏康は武蔵の大半を再び平定する。
永禄8年(1565年)、氏康は、関東の中原における拠点である関宿城を攻撃、この城は利根川水系等の要地で氏康も重要視していたが、このときは城主・簗田晴助の抵抗に北条軍は撤退した(第一次関宿合戦)。
この後、謙信は臼井城や和田城の攻略に失敗、さらに箕輪城が陥落した事もあり、武蔵国の成田氏、深谷上杉氏、上野国の由良氏、富岡氏、館林長尾氏、下野国の皆川氏、上総国の酒井氏、土気(土岐)氏、原氏、正木氏の一部など多くの豪族が北条氏に服従。
続いて常陸国の佐竹義重が謙信の出陣要請に難色を示すなど、対北条方の足並みの乱れが生じていた(三戸文書)。
そして、永禄9年(1566年)上野厩橋城の上杉家直臣・北条(きたじょう)高広が北条に寝返った事により、上杉氏は大幅な撤退を余儀なくされた。
永禄9年(1566年)以降は実質的にも隠居し息子達に多くの戦を任せるようになる。
関東において優勢に戦いを進めており、氏政も成長しつつあったためである。
これ以降は「武榮」の印判を用いての役銭収納、職人使役、息子達の後方支援に専念するようになる。
この前後から氏政は左京大夫に任官し、氏康は相模守に転じている。
家臣への感状発給もこの時期に停止し、氏政への権力の委譲を進めている。
永禄10年(1567年)、氏康は息子の氏政・氏照に里見氏攻略を任せ出陣させる。
しかし、正木氏などの国人が里見氏に通じたことなどがあり、氏政は里見軍に裏をかかれて大敗。
北条家は上総南半を失った。
この際、娘婿の太田氏資が戦死している(三船山合戦)。
また佐竹領以外の常陸においては、南常陸の小田氏等の臣従により北条氏の勢威が及んだものの、小田氏は永禄12年(1569年)に佐竹氏に大敗し、佐竹氏の勢力は南へ拡大した。
永禄11年(1568年)、義元没後の今川氏の衰退を受けて、従来の外交方針を転換させた武田信玄が駿河侵攻を行ったことにより、三国同盟は破棄された。
今川軍は武田軍に敗北、さらに徳川軍の侵攻を受けて掛川城に追い詰められる。
北条家は娘婿の今川氏真を支援をする方針を固め、氏政が駿河に出兵、薩多峠にて武田軍と対峙する。
氏康は信玄が徳川の不信を買ったことを利用し徳川との密約を結び、駿河挟撃の構えをとった。
さらに富士信忠が大宮城に攻撃を仕掛けた武田軍を退けたことにより、信玄はこの状況での駿河防衛は困難と判断、一旦駿河国から軍を退き甲斐国へと退却した。
北条氏は興国寺城、葛山城、深沢城など東駿河を奪取した。
氏康と信玄の敵対関係は決定的となり、甲相同盟は破綻した。
氏康は、西に武田氏、北に上杉氏、東に里見氏と3方向を敵勢力に囲まれる危機的状況に陥る。
この苦境を乗り切るべく駿河出兵を決めると同時に、上杉氏との同盟交渉を開始(大石氏照書状)。
この頃、西上野一円は武田領化しており、謙信の上野における支配域は沼田と厩橋など主に東上野のみとなっていた。
さらに謙信の目は越中国に向けられていた。
謙信は当初、討伐対象であった北条氏との同盟に乗り気でなかったが、家臣の説得もあり態度を軟化。
既に纏まっていた今川家と上杉家の同盟に乗る形で交渉を始め、謙信の旧臣・由良成繁を仲介役に、石巻天用院を使者として、永禄11年(1569年)に上杉謙信との同盟である越相同盟を結んだ。
これにより謙信は氏康の甥である足利義氏を関東管領の主である古河公方として、また氏康・氏政は、謙信を公方の執事たる関東管領職であるとお互いに認め、上野・武蔵北辺の一部の上杉氏領有を認める代わりに、謙信に北条氏による相模・武蔵大半の領有を認めさせた。
北条方は氏康の実子・三郎(後の上杉景虎)、上杉方は謙信の家臣・柿崎景家の実子・晴家が人質とされた。
この越相同盟は、両家の停戦という意味では成功を収めた。
しかし同時に謙信に対する反北条派の里見氏や佐竹氏、太田氏といった関東諸大名・豪族の不信感を生み、彼らは上杉氏から離反し武田氏に与してしまった。
さらに信玄が信長・将軍足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、同年8月には上杉・武田両氏の和睦が一時的に成立した。
また上杉が甲越和与を解消した後も北条・上杉両氏による同盟条件の不調整・不徹底のため、北条・上杉両軍の足並みは乱れることが多かった。
永禄12年(1569年)9月、武田軍が武蔵国に侵攻する。
これに対し、鉢形城で氏邦が、滝山城で氏照が籠城し武田軍を退け、武田軍はそのまま南下、10月1日には小田原城を包囲する。
しかし氏康が徹底した籠城戦をとり、武田軍にも小田原城攻略の意図はなかったため、わずか4日後、城下町に火を放ったのち撤退する。
氏康は撤退する武田軍に対し挟撃を謀り、氏政を出陣させるが、荷を捨て身軽になってまで迅速に行軍した武田軍に対して、氏政隊の追撃が間に合わず、本隊到着前に三増峠に布陣する氏邦・氏照隊が攻撃を開始し挟撃はならなかった。
緒戦は優位に押したが、武田別働隊による高所からの奇襲を受け、加えて津久井城も武田方に抑えられて援軍が出陣できず、突破され敗退。
武田家譜代家老の浅利信種を討ち取ったものの、武田軍の甲斐帰還を許す結果になった(三増峠の戦い)。
その後、武田は再度駿河国に出兵、対する北条は里見氏の勢力回復や氏康の体調悪化に伴い、興国寺城・東駿河はかろうじて保つものの、駿河国での戦いは武田に押されていった。
氏康は元亀元年(1570年)8月頃から中風とみられる病を得ており、8月初旬には鎌倉仏日庵で、氏康の病気平癒祈願の大般若経の真読が行われている。
その頃、小田原城に滞在していた大石芳綱は、「風聞としてではあるが氏康の様子を、呂律が回らず、子供の見分けがつかず、食事は食べたいものを指差すような状態で、意志の疎通がままならず、信玄が豆州に出たことも分からないようだ」と記し伝えている。
その後、12月には信玄の深沢城攻めの対応を指示ができるほどには快方に向かったが、明けて元亀2年に入ると氏康発給の文書は印判だけで花押が見られなくなる。
そして元亀2年(1571年)5月10日を最後に文書の発給は停止されている。
そして10月3日、氏康は小田原城において死没した。
享年57。
同年から、氏康は、かつて武田氏に通じていた北条高広を介して、武田信玄との和睦・同盟を模索していたといい、最後の務めとして氏政をはじめとする一族を集め、「上杉謙信との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残したとされているが真偽は不明。
死後の12月27日、北条・武田は再同盟している。
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