【時代】 戦国時代
【生誕】 天文17年(1548年)
【死没】 慶長2年8月8日(1597年9月19日)
【改名】 乙千代丸(幼名)→藤田氏邦→北条氏邦
【別名】 幼名:千代丸、仮名:新太郎、受領名:安房守
【主君】 北条氏康→氏政→氏直
【氏族】 後北条氏→藤田氏→北条氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代の武将。

北条氏康の五男。

従来の通説では氏康の四男で、正室・瑞渓院を母としているとされていたが、元亀2年(1571年)における北条家中での序列がこれまで弟とみられてきた氏規どころか氏康の養子(実際は甥)である北条氏忠よりも下に置かれていたことが判明し、四男の氏規よりも年下でなおかつ妾の子ではないかと考えられるようになった。

その後、天正10年(1582年)の時点では氏忠よりも上位に位置づけられ、天正14年(1586年)頃には氏規を抜いて三男氏照に次ぐ地位に位置付けられていた。

歴史学者の黒田基樹の言に拠れば、氏邦が嫡出で年長であった氏規よりも高い政治的地位に位置付けられることは通常ではありえない事態であり、この判断は氏康次男で「御隠居様」としてなお北条家最高権力者の地位にあった氏政の判断とされている。

北条家の関東支配において、氏邦の担う役割の重要性を十分に認識し、氏邦の功績に鑑みて瑞渓院と養子縁組が行われ氏照の次点とされたとする。

その後の永禄元年(1558年)、武蔵国北部の有力国衆の藤田氏の養子になったとされる。

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永禄11年(1568年)甲斐武田家との抗争が始まると新たな本拠として鉢形城を構築した。

領国は鉢形領と称されるようになった。

永禄12年(1569年)から開始された越相同盟の交渉において、かつて上杉家に従属経験のある由良成繁と由良への指南役を務める氏邦が交渉を取り纏める中心的な役割を果たした。

元亀2年(1571年)同盟が破棄された後は、上野国の北条氏領国化を進める役割を果たした。

天正4年(1576年)、安房守を名乗るようになった。

安房守は室町時代に上野守護職を歴任した山内上杉氏の歴代の名乗りであったが、氏邦がそれを名乗ることは、山内上杉家に代わり氏邦そして北条氏が上野国の国主になることを表明するものであった。

天正6年(1578年)5月、上杉氏の家督争いである御館の乱が起こると、実弟の上杉景虎の援軍要請に応じた長兄氏政の名代として、次兄氏照と共に景虎支援のために越後に出陣した。

北条勢は三国峠を越えて越後に侵入し、上杉景勝の拠点坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、次いで坂戸城攻略に着手した。

しかし景勝方はよく守り、北条方はそれ以上の攻勢に出ることができずにいた。

やがて冬が近づき、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置して関東への一時撤退を強いられた。

この冬の間に景勝は攻勢を強め、景虎は明けた翌年3月に自害した。

天正8年(1580年)に織田氏に対し北条氏が従属の表明を行った際、氏邦は負担として黄金3枚を負担している。

天正10年(1582年)の本能寺の変後の神流川の戦いでは、甥で当主の氏直を補佐して戦い、滝川一益を壊走させた。

直後の天正壬午の乱にも参戦した。

天正10年7月までは藤田家を称していたが、それ以降から天正15年(1587年)11月までの間に北条姓に復姓している。

天正11年もしくは12年頃に、氏政の子直定を養子に迎えた。

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天正17年(1589年)7月24日頃、沼田領の請取が行われた。

沼田領を氏政は氏邦に管轄させ、氏邦はそれを宿老かつ沼田城代の経験もある猪俣邦憲に管轄させることにした。

9月には猪俣邦憲は領域支配を開始させている。

同年10月22日に真田家の管轄とされていた名胡桃城内で内紛が起こった。

中山九郎兵衛が城代鈴木主水を追放し、猪俣邦憲に加勢を求めたため、邦憲は軍勢を派遣した(名胡桃城奪取事件)。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐を前にして小田原城で行われた評定の席において、小田原城に籠もることに反対し、駿河国に進出しての大規模な野戦を主張したが他の北条閣僚らに容れられず、小田原城を退去して居城の鉢形城に籠城し、単独で抗戦した。

しかし豊臣方は圧倒的な大軍であり、上野国・下野国・武蔵国北部は瞬く間に制圧された。

鉢形城も完全包囲され激しい攻勢に曝されると、氏邦は降伏勧告を受け入れた。

開城し、出家姿になり藤田家の菩提寺正竜寺に蟄居した。

戦後は城攻めの大将であった前田利家に預けられ、家臣となり、慶長2年(1597年)に加賀金沢にて50歳で病没した。

金沢で荼毘に付された後に、遺骨は菩提寺の正竜寺に移された。

この時、菩提寺での大法要に集まった参列者の列はひと山を越える長さに及んだといわれ、かつての威勢と人望を偲ばせた。

妻の大福御前は鉢形に残ったものの文禄2年5月10日(1593年6月9日)に病死したとも、自害したとも言われている。

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