【時代】 室町時代後期 – 戦国時代
【生誕】 文正元年(1466年)
【死没】 永正4年6月23日(1507年8月1日)
【改名】 聡明丸(幼名)→政元
【別名】 九郎(仮名)、半将軍(渾名)
【官位】 従四位下右京大夫
【主君】 足利義政、義視、義尚、義稙、義澄
【氏族】 細川京兆家
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
室町時代後期から戦国時代にかけての武将、守護大名。
室町幕府24、26、27、28代管領。
摂津国・丹波国・土佐国・讃岐国守護。
細川氏12代当主。
足利将軍家の10代将軍義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。
事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。
室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。
父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。
母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。
修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。
将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり、畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが生じ、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。
応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。
文正元年(1466年)、室町幕府管領として強い力を持っていた細川勝元の嫡男として誕生。
文明5年(1473年)5月、応仁の乱の最中に病死した勝元の後継として、僅か8歳で家督を相続。丹波・摂津・土佐守護に就任する。
幼少のため、分家の典厩家当主細川政国の補佐を受けた。
文明6年(1474年)4月3日、西軍方の山名政豊と和睦し、応仁の乱は終息する。文明10年(1478年)7月に13歳で元服し、8代将軍・足利義政の偏諱を受けて政元と名乗る。
管領に任じられたものの、9代将軍・足利義尚の任大将拝賀の儀礼が終わると短期間(9日間)で辞職している。
ところが、文明11年(1479年)12月に丹波国内における細川氏の家臣同士の争いが原因で一宮宮内大輔一族に拉致され、翌年3月まで丹波国に幽閉されている。
文明14年(1482年)には摂津の国人が蜂起、畠山義就討伐に向かう管領・畠山政長と協力して連合を組んだが、摂津国人を討伐した後は義就が占領した摂津欠郡(東成郡・西成郡・住吉郡)の返還と引き換えに河内十七箇所を義就に渡し、単独で和睦して京都に撤退した。
長享元年(1487年)、9代将軍・足利義尚は六角高頼(行高)討伐を決意するが、それを事前に知らされていたのは政元のみで、両者は極秘のうちに出陣の準備を進めていたと伝えられている。
また、この年の長享改元の際に行われた幕府の吉書始の儀式のために1日だけ管領に就任している(2度目:長享元年8月9日)。
だが、2年後の延徳元年(1489年)、将軍・義煕(義尚の改名後の名)は六角討伐(長享・延徳の乱)の最中、近江国で病死する。
政元は次期将軍として義煕の従兄で堀越公方・足利政知の子で禅僧となっていた天龍寺香厳院の清晃(のちの足利義澄)を推挙するが、義煕の母・日野富子と畠山政長の後押しの結果、義煕の従弟で足利義視の息子・義材(後に義尹、更に義稙と改名)が10代将軍に就任する。
この結果に不満であった政元は、延徳2年(1490年)7月5日に義材の就任儀式(判始)のために1日だけ管領を務めるが、やがて幕府に距離を置き始める。
義材の将軍就任は、幕府内で足利義視と畠山政長の権勢が高まることとなり、延徳3年(1491年)1月に義視が死去した後は政長が幕府の権力を独占するようになる。
直後の延徳3年2月13日に九条政基の末子(聡明丸と名乗る、のちの細川澄之)を猶子に迎えた。
澄之を養子に迎えた意図として、妻帯していない(するつもりのない)政元には実子はもちろん弟もいないため後継者を得ておく必要性と、澄之は清晃の母方の従兄弟に当たるため足利政知との連携を深める狙いがあったとされる。
更に直後の3月、政元は東国旅行へ出かけ、越後国を訪問、守護・上杉房定と会見した。
奥州へ向かう予定だったが、将軍義材から六角高頼討伐の出陣命令が届いたため断念、4月に帰京した。
この旅の背景は堀越公方足利政知と連携する意向で房定を取り込む意図があり、政知との会見も計画していたが、政知が亡くなったため帰京した。
政元は、丹波で位田氏・荻野氏・大槻氏・須知氏らが起こしている国人一揆の鎮圧が上手くいっていないこともあり、この時の出兵には反対で、義材を諌めようとしたものの無視されている。
この時から政変を計画していたとされる。
[sengoku-2]明応2年(1493年)、将軍義材は畠山政長と共に畠山義豊討伐のため河内国へ出兵する。
政元はこの出兵にも反対をして従軍を拒んだ。
4月、京都に残留していた政元は日野富子や前政所執事・伊勢貞宗と組んで周到な根回しのもとクーデターを決行、以前将軍候補に推げた清晃を第11代将軍として擁立する(明応の政変)。
興福寺の尋尊は義材は政元に政務を任せると約束しながら、その反対を無視して近江出兵と河内出兵と2度も大規模な軍事作戦を行ったこと、そして義材が自分の政策に反対する政元を討とうとしたことが原因であると記している。
この政変により、当初は畠山政長方であった赤松政則も政元に寝返り、孤立無援となった政長は自害し、大きな力を持っていた三管領畠山家の勢力は削ぎ落とされ、捕らえられた義材は京都龍安寺に幽閉されたうえ、将軍職を解任された。
明応3年(1494年)、清晃は還俗して足利義高(後に義澄に改名)と名乗り将軍に就任、政元は管領に就任して実権を握り将軍を事実上の傀儡にして幕政を掌握し、京兆専制を確立するに至った。
管領や幕臣が将軍を追放・挿げ替えるという実例は室町幕府において政元が初のことで、室町幕府将軍の権威が決定的に失墜した政変であった(ただし、管領の政治的職権の実態は既に失われており、政元の4度目にして最後の管領在任も実際には義高の元服の儀礼が行われた明応3年12月27日の1日間のみであった)。
これより後の将軍は、実権のない名ばかりの存在となっていき、この政変と応仁の乱で失われた将軍権威復活と様々な要因で衰退へと進んでいく幕府の維持を強いられていくことになる。
但し、以後も幕府権力は存続していたとする見方もあり、伊勢貞宗は日野富子の意向で将軍義澄の後見役を務め、度々政元の行動を抑止している。
また、政元の命を受け政変を主導していた政元家臣の京兆家内衆である丹波守護代・上原元秀が急死、京兆家内で政変に消極的な家臣が多数を占めるようになると、京兆家はなるべく幕府の意向を容認、前将軍義材派の巻き返しを用心する方向に切り替えたため、政変後の幕府と京兆家は協調関係に入っていたのではないかとする意見もある。
政変後、越中国へ亡命し、亡命政権(越中公方)を樹立していた足利義稙(義材)は、明応8年(1499年)に北陸の兵を率いて近江にまで侵攻し、比叡山延暦寺を味方に付ける。
こうした延暦寺の行動を素早く察知した政元は早速行動に移った。
赤沢朝経と波々伯部宗量に命じて7月11日の早朝に延暦寺を攻撃、大規模な焼き討ちを行わせたのである。
この攻撃で根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍は全焼した。
勢いに乗った朝経は続いて9月には河内で挙兵した政長の子・畠山尚順を撃ち破り、尚順が大和国に逃げ込んだ為、12月にはそのままの勢いで大和国に攻め込んだ。
そして筒井順賢・十市遠治ら尚順に与した国人衆を追討し、喜光寺・法華寺・西大寺・額安寺などを焼き討ちして大和北部を占領した。
この朝経の一連の働きによって細川の版図は大幅に拡大することになった。
また政元は周辺国の国人の細川被官化も推し進め、実質的な細川領国化による支配勢力強化を図った。
何かと政元と将軍義澄は政治面で対立することも多々あったが、文亀2年(1502年)8月4日、突如として義澄が金龍寺に引き籠るという事件が発生した。
そして、義澄を説得しに行ったところ、御所に戻る交換条件として出された五つの条件のうちに前将軍義材の弟である実相院義忠を処刑せよ、というものがあり、翌5日に政元は義澄を見舞いに来た義忠をとらえて殺害した。
これにより、義澄は政元によって自身が将軍を解任されて追放され、代わりに義忠が新たな将軍になるという可能性がなくなった為に大いに安堵する一方、政元は義忠の殺害によって次期将軍候補を失い、かつ前将軍義材派からは完全に敵視される状況となった。
義澄を廃して新たな将軍を立てることも義材派と和解することも出来なくなった政元は、その政治的選択肢を大幅に狭めることとなった。
政元の気分屋的な傾向、そして実子が無かったことは京兆家の家督相続問題を直撃した。
同年9月、摂関家の九条家から家督相続を条件に養子として迎えていた聡明丸(のちの澄之)を正式に嫡子と定め丹波守護職を与えるも、翌文亀3年(1503年)5月、細川一門の阿波守護家(讃州家)から六郎(改め澄元)を養子として迎えて家督相続を約束したため、政元は聡明丸を廃嫡する(これより間もなく聡明丸も元服して澄之と名乗る)。
結果、澄之・澄元両派の対立が先鋭化するに至る。
また、野州家からも高国を養子として迎えていたが、後にこれがさらなる混乱へとつながることになる。
なお高国については養子となった時期が不明であり、実は養子でなく政元死後に澄元との対立のなか自分も養子になったと言い出したという説や最初から実家の野州家を継ぐことを前提とする養子縁組であったとする説(高国の実父の細川政春には他に男子がいなかった)もある。
永正元年(1504年)9月、内衆の摂津守護代・薬師寺元一が謀反を起こすが、これを鎮圧。
永正3年(1506年)7月に河内の畠山義英(義豊の子)と畠山尚順を討伐し、赤沢朝経を大和国へ再び派遣、侵攻させる。
永正4年(1507年)には紀伊国、さらに若狭の武田元信を助けるために丹後の一色義有の城に養子細川澄之・細川澄元を侵攻させるなど、細川氏の勢力の拡大を図った。
こうして、政元は細川京兆家の全盛期を築き上げる。
[sengoku-3]ところが、政元はこのような戦乱を嫌悪したのか、修験者として奥州に行って廻国修行したいと言い出す。
この際には家臣の三好之長らの諫言によって断念する。
永正4年(1507年)、武田元信救援のために一色義有を攻めている最中、帰京を命じる勅旨がありそれを受けて5月29日に帰京する。
そして6月23日、澄之派の内衆の香西元長、薬師寺長忠、警護役の竹田孫七によって、湯殿で行水をしていたところを襲われ暗殺された(永正の錯乱)。
享年42。
半将軍と呼ばれるほどに力を持った政元が死亡すると、京兆家は家督をめぐる内紛を重ねて政権体制、領国、家臣団ともに急速に力を失っていくことになる。
政元暗殺後の後継者について、まず細川家の血を引かない澄之の排除に関しては一族で一致をみることができたが、澄之敗死後の澄元(後にはその子の晴元)・高国両派の対立は、幕府将軍の義澄・義稙両派の争いとも絡んで、20年以上の長きに渡り細川家を二分し畿内に争乱をもたらすものとなった(両細川の乱)。
また、政元をもって京兆家嫡流である細川頼元の血筋は絶え、頼元の弟である細川満之・細川詮春の子孫が京兆家の家督の地位を争うこととなる。
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