【時代】 戦国時代 – 江戸時代初期
【生誕】 天文2年(1533年)
【死没】 慶長10年11月9日(1605年12月18日)
【別名】 利貞、利卓、利太、利大、利興、宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎、慶次、穀蔵院飄戸斎、穀蔵院忽之斎、龍砕軒不便斎
【主君】 前田利久→前田利家→上杉景勝
【氏族】 前田氏

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概要 (説明はWikipediaより)

前田利益は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。

滝川一族の出身だが、荒子城主・前田利久の養子となった。

加賀百万石の祖・前田利家は叔父。

利益以外にも利貞、利太など、さまざまな名前が伝えられているものの、現在では小説や漫画の影響で前田慶次/慶次郎の通称で知られる。

また穀蔵院飄戸斎、穀蔵院忽之斎、龍砕軒不便斎という人を食った道号も伝えられている。

さらに『鷹筑波』『源氏竟宴之記』によると、連歌会では「似生」という雅号を用いていた。

虚実入り混じった多くの逸話により「天下御免の傾奇者」と囃される一方、高い文化的素養を備えた文人武将でもあった。

現在流布している人物像は、隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』、それを原作とした原哲夫の漫画『花の慶次』によって生み出されたものと言って過言ではない。

しかし、その原型となったのは『武辺咄聞書』『常山紀談』『可観小説』『翁草』など、江戸時代に盛んに読まれた武辺咄に描かれた逸話群であり、それらを通して形成された人物像が現代に甦ったものと見なすことができる。

一方、その人気に反して歴史上の人物である前田利益の事跡を裏付ける一次史料はきわめて少ない。

特に前田家を出奔するまでの具体的な動向や逸話は前田家関連の史料にはほとんど確認されない。

これについて池田公一は「慶次郎に関する史料は、前田家の禁忌として、早くも出奔直後には闇に葬られたといってよいのではないか。

それほどまでに慶次郎の「かぶき」に彩られた破天荒な行動は、利家の怒りをかったことをうかがわせる」と述べている。

しかし、そうしたことがかえって人々の自由な想像力をかきたてることとなり、江戸時代からさまざまな武辺咄で盛んに取り上げられ、今日でも小説・マンガ・ゲームなどで広く知られる結果となっている。

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養父の前田利久は、前田利春の長男で、尾張国荒子城主(愛知県名古屋市中川区)であった。

実父は織田信長の重臣滝川一益の一族であるが、比定される人物は諸説あり未確定である。

一説に一益の従兄弟、あるいは甥である滝川益氏、滝川益重、一益の兄である高安範勝、また利益が一益の弟との説も存在する。

子のなかった利久が妻の実家である滝川氏から弟の安勝の娘の婿として利益を引き取り養子にしたとも、実母が利久に再嫁したともいう。

永禄10年(1567年)に信長より、「利久に子が無く、病弱のため『武者道御無沙汰』の状態にあったから」(『村井重頼覚書』)との名目によって利久は隠居させられ、その弟・利家が尾張荒子2千貫の地(約4千石)を継いだ。

このため利益は養父に従って荒子城から退去したとされる。

熱田神宮には天正9年(1581年)6月に荒子の住人前田慶二郎が奉納したと伝わる「末□」と銘のある太刀が残る。

また、『乙酉集録』内の「尾州荒子御屋敷構之図」には荒子城の東南に東西20間、南北18間の「慶次殿屋敷」が記されている。

天正9年(1581年)ごろ、信長の元で累進し能登国一国を領する大名となった利家を頼り仕える事になる。

利家から利久・利益親子には7千石が与えられた(そのうち利久2千石、利益5千石)。

天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が起きる。

真田家の史料『加沢記』では、この時に利益は滝川勢の先手となっている。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは佐々成政に攻められた末森城の救援に向かう。

また翌年5月には佐々方から寝返った菊池武勝が城主を務める阿尾城に入城し、同城奪還に向かった神保氏張らの軍勢と交戦した(『末森記』)。

この時の利益の身分について城主(ないしは城代)だったとする見方もあるものの、実際に城にとどまったのは5~7月ごろまでの3か月ほどだと考えられている。

天正15年(1587年)8月14日、義父利久が没したことにより利益の嫡男前田正虎が利家に仕え、利久の封地そのまま2千石を給された。

天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると利家が北陸道の惣職を命ぜられて出征することになったので利益もこれに従い、次いで利家が陸奥地方の検田使を仰付かった事により利益もまたこれに随行した。

しかし天正18年(1590年)以降、前田家を出奔する。

その理由については、利家との不仲(ただし同時代には利家と不仲とする史料はなく、利益に付き従った野崎知通は利家の嫡男前田利長と不仲であったとしている)、利久の死を契機に前田家と縁がなくなったためなどとされているものの確たるものではない。

なお利益の嫡子である正虎をはじめ妻子一同は随行しなかった。

その後は京都で浪人生活を送りながら、里村紹巴・昌叱父子や九条稙通・古田織部ら多数の文人と交流したという。

ただ、歌人「似生」は天正10年(1582年)にはすでに京都での連歌会に出席した記録が『連歌総目録』にあり、出奔以前から京都で文化活動を行っていたようである。

天正16年(1588年)には上杉家家臣木戸元斎宅で開かれた連歌会に出席しているほか、連歌会でたびたび顔を合わせている細川幽斎の連歌集『玄旨公御連哥』には年未詳ながら「五月六日、前田慶次興行於和泉式部(誠心寺)」とあり、利益主催の連歌会に幽斎が出席したことが記録されている。

後に上杉景勝が越後から会津120万石に移封された慶長3年(1598年)から関ヶ原の戦いが起こった慶長5年1600年までの間に上杉家に仕官し、新規召し抱え浪人の集団である組外衆筆頭として1000石を受けた。

なお、慶長9年8月の直江兼続書状には「北国(北陸)へ迎えの使者を送り、春日元忠のもとへ間もなく到着することは喜ばしい。屋敷を建てるのはよろしいようにするといい。ただし、無理な造作はいらない」とあり、これが利益召し抱えに関する書状であるとの見方もある。

関ヶ原の役に際しては、長谷堂城の戦いに出陣し、功を立てたとされる。

西軍敗退により上杉氏が30万石に減封され米沢に移されると、これに従って米沢藩に仕えた。

米沢では兼続とともに『史記』に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠むなど自適の生活を送ったと伝わる(上杉家が所有していた『史記』は現在国宝に指定されているが、こちらに注釈を入れていたかについては不明である)。

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晩年をめぐっては、史料によって記すところがまちまちとなっている。

最も具体的なのは野崎知通の遺書で、上杉と心を共にし、種々の業を尽くしたものの、年を経て痞(つかえ)の病を発症し、保養のためと称して大和国へ引っ越した。

ところが、上京して「犯惑」に及ぶこと度々で、遂には前田利長の命によって大和国刈布に蟄居させられた。

その後は仏門に入り、自らを「龍砕軒不便斎」と呼び、慶長10年(1605年)11月9日にその地で生涯を終え、同地の安楽寺に一廟を築き、「龍砕軒不便斎一夢庵主」と刻んだ方四尺余高さ五尺の石碑がたてられたという(現在は残っていない)。

また「前田慶次殿伝」では刈布に「カリメ」とルビがふってあり、今福匡は「カリフ」と読むのではないかと推測、安楽寺のある宇陀市菟田野古市場の北方、大沢地区や見田地区にある「カリウ」が故地ではないかとした。

一方、『加賀藩史料』所引の「加賀藩歴譜」「前田氏系譜」では上杉の領地である会津で亡くなったとしている。

また同じ上杉の領地でも米沢で亡くなったとしているのが『可観小説』で、記事の最後で「米沢にて病死しけるとなむ」。

この米沢説で足並みを揃えるのが米沢の郷土史料類で、『米沢古誌類纂』では米沢近郊の堂森に隠棲し、慶長17年(1612年)6月4日、堂森の肝煎太郎兵衛宅で亡くなったとしている。

また利益の亡骸は北寺町の一花院に葬られたとするものの、一花院は現在廃寺となっており、当時の痕跡は残っていない。

堂森善光寺に供養塔が残るが、これは昭和55年(1980年)に建てられたもの。

ただし、『米沢古誌類纂』には「牌は善光寺にあり」とも記されており、近年では善光寺で供養祭も営まれている。

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