【時代】 戦国時代
【生誕】 延徳2年(1490年)
【死没】 享禄4年7月27日(1531年9月8日)
【改名】 竹千代(幼名)→信忠→太雲、祐泉(法号)
【別名】 次郎三郎、三郎(通称)、左京亮
【官位】 従五位下、越前守、左近蔵人佐
【氏族】 松平氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代の武将。

徳川家康の曾祖父にあたり、安城松平家2代目にして松平氏宗家第6代当主。

家督継承後に松平党内をまとめることができず、早期に隠退させられて嫡男の清康に家督を譲ったが、その背景には諸説がある。

三河吉良氏の吉良義信の偏諱を受けて信忠と名乗る。

文亀3年(1503年)8月頃、父・長親の隠居により家督を継いだと推定されるが、実権は長親が握っていたという。

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家督継承から程無い永正3年(1506年)7月には今川氏親の三河侵攻が始まり、永正5年には西三河の松平領も攻撃を受けた。

岩津松平家の岩津城が伊勢盛時の率いる今川の大軍に包囲されていたが、父道閲の主導の下に安城松平軍は岩津近郊の井田野(現岡崎市井田町周辺)で決死の戦いを挑み、辛くも今川軍を撃退した(永正三河の乱)。

しかし、この今川軍との戦いにも信忠の確かな戦功や軍事的采配の記録は見えず、大久保忠教の『三河物語』では信忠を不器用者(統率者としての器量の無い者)としている。

『三河物語』は宗家の「家憲」として当主の具備すべき「武勇・情愛・慈悲」のいずれも信忠には備わっていなかったと指摘し、暗愚・強情な人物とされた。

このため、家中衆も民・百姓も怖れおののき、松平一門衆や小侍までもが信忠を慕わず、城に出仕しない者まで多く現れた。

また謀反の動きも有ったとされ、これは信忠自身が事前に察知して首謀者を手討ちにしたが、この情況を挽回するには至らなかった。

結局、大永3年(1523年)には一門等が協議の上で信忠の隠居と嫡男清康への家督譲渡の方針が決まり、家老の酒井忠尚(将監)が代表して信忠にその意を伝えると、信忠はこれを受け容れ清康に家督を譲って、三河国幡豆郡大浜郷称名寺(愛知県碧南市大浜地区築山町)に34歳にして隠居・出家した。

清康への家督継承の時期について、平野明夫は松平清康発給文書の初見とされる、「大永3年(1523年)8月12日付書下(稲河文書)」の存在によって証明されるとしている。

その後は長命した父道閲とともに、まだ若い清康を弼けたとも言われている。

なお、信忠の代から、岩津、滝等の寺院にも寄進状等を出していることから、今川氏らの攻勢で岩津松平家が滅び、代わりに安祥松平家が惣領となったものと窺える。

享禄4年7月に隠居先の大浜郷で父に先立ち死去した。

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信忠が早期に隠退させられた背景には、『三河物語』によれば、長男である信忠に家督を譲り、戦巧者の優れた家臣を付け、能力不足の主君を支えよとの道閲の意志を尊重すべきだという一門衆・家中衆の意見がある一方、一門衆・家中衆の中には不器量の信忠よりも、家憲の3条件を兼ね備えた次男の信定を跡継ぎにすべきという意見もあって、松平党が二派に分裂して紛糾していたとされ、今川氏再侵攻の脅威の中で一門・家中の決定的な衝突を回避する必要があったからだという。

またさらに、現代の研究者達の考察において、実は道閲は次男の信定を偏愛し、不器量の長男・信忠には父子間で対立があったのではという柴田顕正の見方があり、井田野合戦後に壊滅的打撃を蒙った岩津松平家領を安城松平家の直領にしたことが戦功への恩賞をめぐる不満につながったと推定する新行紀一の見解や、恩賞への不満よりもむしろ、井田野合戦後に岩津松平家に代わり安城松平家が惣領家の位置に台頭することで松平党内に軋轢が生じたからではないかという平野明夫の見方もある。

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