【時代】 戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】 永正5年(1508年)または永正7年(1510年)
【死没】 天正5年10月10日(1577年11月19日)
【改名】 久秀→道意(号)
【別名】 霜台、松永弾正(通称)
【官位】 従四位下、弾正忠・山城守・弾正少弼
【主君】 三好長慶→義継→織田信長→足利義昭→織田信長
【氏族】 松永氏(藤原氏、源氏)

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から安土桃山時代の武将。

大和国の戦国大名。

官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。

弟に長頼、嫡男に久通、久秀の甥で松永家の姓を継承した永種(貞徳の父)。

初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。

久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。

また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた。

長慶の死後は三好三人衆と、時には協力し、時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。

織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。

その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。

茶人としても高名であり、茶道具と共に爆死するなどの創作も知られている。

出身については、阿波国・山城国西岡(現在の西京区)・摂津国五百住の土豪出身など諸説がある。

長江正一は西岡出身の商人の生まれで、斎藤道三と同郷であったと断定している。

しかし、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)との父子2代にわたるものではないかと思われる資料が発見されたことから、同郷だと当てはめるのは困難だとされ、2012年頃からは摂津国五百住の土豪出身の説も大きくなっている。

阿波国説は、同国市場犬墓村(現・徳島県阿波市市場町犬墓)旧家の由緒書に基づくが、長慶父の三好元長が阿波国から渡海し畿内入り戦闘時の史料に松永姓の武将はいないし、その諸将は後にほとんどが、三好実休に従い、阿波へ帰国しているので、史実性はなくなっている。

天文2年(1533年)か天文3年(1534年)頃より細川氏の被官・三好長慶の右筆(書記)として仕えたと言われている。

史料における初見は天文9年(1540年)と言われている。

天文9年(1540年)6月9日、長慶が西宮神社千句講用の千句田二段を門前寺院の円福寺、西蓮寺、東禅坊の各講衆に寄進する内容の書状を33歳の久秀が弾正忠の官名で伝達している。

同年12月27日、堺の豪商・正直屋樽井甚左衛門尉の購入地安堵判物にも久秀が副状を発給しており、このころ奉行の職にあったとみられる。

史料上の初見の時期からも、三好長慶が、それまでの三好勢のように、畿内の争いで一時敗れても阿波に帰らず、越水城主として摂津下郡半国の守護代になり、初めて畿内での統治を行った際に外様の家臣として取りたてられ活動していたと見られる。

天文11年(1542年)には三好軍の指揮官として、木沢長政の討伐後なおも蠢動する大和国人の残党を討伐するため、山城南部に在陣した記録があり、この頃には官僚だけでなく武将としての活動も始めていた。

長慶が細川晴元の部下であった頃から仕えていたようだが、本格的に台頭してくるのは長慶が晴元を放逐して畿内に政権を樹立する頃からである。

松永久秀の抜擢は、三好政権における人事の特殊さを表していると指摘される。

低い身分、外様からの重臣への抜擢自体は他の大名家でも見られるが、上杉家は樋口兼続に直江家の後を継がせ直江の城と家臣団を継承させ、北条家は福島(櫛間)綱成に北条の名字を与え一門に列席させるなど、抜擢するに応じて相応の家格・地位・領地・家臣団を与えている。

滝川一益や明智光秀を外様から抜擢した織田信長も、家格という観点から秩序維持の為に、光秀や丹羽長秀に惟任氏、惟住氏の名跡を継がせている。

信長の場合、彼らの出世が従来の織田家譜代を中心とする家格秩序と齟齬をきたすであろうと信長が予測し、その齟齬を未然に防ぐための措置と指摘される。

これらと比較して、三好長慶は久秀や岩成友通を登用し、彼らは三好政権で枢要な地位につくほどの重臣となったが、彼らが阿波時代からの三好譜代の名跡と家格を継承した形跡はない。

これは三好家の人事登用が従来の家格秩序にとらわれないものであったことの証左と言われる。

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天文18年(1549年)、三好長慶が細川晴元、室町幕府13代将軍・足利義輝らを近江国へ追放して京都を支配すると、公家や寺社が三好家と折衝する際にその仲介をする役割を、三好長逸と共に果たすようになった。

例えば、同年、公家の山科言継が今村慶満から所領の利益を押領されたため、これを回復する為に長慶らと交渉を開始するが、その際に度々交渉先の相手として久秀が登場している。

同年12月には久秀は本願寺の証如から贈り物を受けている。

久秀は長慶に従って上洛し三好家の家宰となり、弾正忠に任官し、弾正忠の唐名である「霜台」(そうだい)を称する(霜台を称したのは永禄3年(1560年)からともされる)。

上洛後しばらくは他の有力部将と共に京都防衛と外敵掃討の役目を任され、天文20年(1551年)7月14日には等持院に攻め込んできた細川晴元方の三好政勝(宗渭)、香西元成らを弟の長頼と共に攻めて打ち破っている(相国寺の戦い)。

しかし、この戦で両軍の放火の為に相国寺の塔頭、伽藍などが灰燼に帰してしまう。

長慶に従い幕政にも関与するようになり、長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に摂津滝山城主に任ぜられる(弘治2年(1556年)7月とも)。

同年9月には長頼と共に丹波国の波多野秀親の籠る数掛山城を攻めるが、波多野氏の援軍に訪れた三好政勝、香西元成に背後から奇襲を受け惨敗を喫する。

この戦いで味方の内藤国貞が戦死を遂げ、内藤家に混乱が生じる。

その後は長頼が国貞の遺子である千勝の後見人をするという形式で内藤家を継承、丹波平定を進めていった。

天文24年(1555年)、久秀は六角義賢の家臣・永原重興に送った書状の中で、将軍・義輝を「悪巧みをして長慶との約束を何度も反故にして細川晴元と結託しているから、京都を追放されるのは『天罰』である」と弾劾している。

また長慶の書状も併せて送り、長慶が天下の静謐を願っていることを伝えている。

弘治2年(1556年)、奉行衆に任じられ、6月には長慶と共に堺で三好元長の二十五回忌に参加している。

同年7月、久秀の居城滝山城へ、長慶が御成し、歓待された。

久秀が千句連歌で、そして観世元忠の能で長慶をもてなした。

永禄元年(1558年)5月に足利義輝、細川晴元が近江国から進軍して京都郊外の東山を窺うと、久秀は吉祥院に布陣し、弟の長頼、三好一門衆の三好長逸、伊勢貞孝、公家の高倉永相と共に洛中に突入して威嚇行動を行ったのち、将軍山城と如意ヶ嶽で幕府軍と交戦し、11月に和睦が成立すると摂津国へ戻った(北白川の戦い)。

永禄2年(1559年)3月、三好長慶は鞍馬寺で花見を開催する。

この際、久秀も谷宗養、三好義興、寺町通昭、斎藤基速、立入宗継、細川藤賢らと共に参加している。

また同年、部下の楠木正虎(楠木正成の子孫)が、北朝から朝敵として扱われているが、これを赦免して欲しいと前から願っており、久秀はこれを聞き入れて、正親町天皇に赦免を許可して欲しいと交渉している。

正虎は赦免された上に河内守にも任官された。

この交渉とそれにおける楠木氏の朝敵赦免には足利義輝も関与しており、彼も赦免に同意し許可した。

しかし、義輝にとって足利家の仇敵であり敵対した南朝の中心人物である楠木氏を赦免することは内心とても不愉快であったろうし、強い危機感を抱いたに違いないという指摘もある。

久秀は同年5月の河内国遠征に従軍し、戦後は長慶の命令を受けて残党狩りを口実に8月6日大和国へ入り、1日で筒井順慶の本拠筒井城を陥落させ追い払った。

次に平群谷を焼き、筒井方の十市氏を破った。

永禄3年(1560年)には興福寺を破って大和一国を統一する一方、長慶の嫡男・三好義興と共に将軍・義輝から御供衆に任じられ、1月20日に弾正少弼に任官。

6月から10月までの長慶の再度の河内遠征では大和国に残り、7月から11月にかけて大和北部を平定し、三好家中の有力部将として台頭していった。

そして同年11月に滝山城から大和北西の信貴山城に移って居城とする。

やがて信貴山城に天守を造営した。

永禄4年(1561年)2月4日に従四位下に昇叙されると、それまで称していた藤原氏から源氏を称するようになった。

また2月1日には義輝から桐紋と塗輿の使用を許された(『歴名土代』『御湯殿上日記』『伊勢貞助記』)が、これは長慶父子と同等の待遇であり、既にこの頃には幕府から主君・長慶と拮抗する程の勢力を有する存在として見られていた事がわかる。

義輝が参内などをする際、久秀は義興と共に幕臣として随行しており、また義輝の元に出仕して仕事を行う頻度も増えてゆく。

この御供衆任命が、久秀の政治生命・人生における一つの分水嶺とも解釈され、久秀と義輝が関与する史料がこれ以降増加する。

長慶には多くの被官がいたが、ここまでの出世を遂げたのは久秀一人である。

この頃、久秀は長慶と「相住」(同居)の関係(『厳助大僧正記』)にあり、長慶の側近として特に重用されていた。

同年からは六角氏への対応のため、三好軍の主力を率いてしばしば交戦している。

永禄4年(1561年)3月、将軍・義輝が三好義興の邸宅に御成し、歓待を受ける。

ここで久秀は、義輝に太刀を献上したり、義輝の側近達を接待したりするなど、三好家の人間として義輝達を接待する一方で、具足の進上、義輝達への食事の配膳、食事中の義輝に酒を注ぐなど、御供衆の仕事も務めている。

またこの将軍御成の宴席では猿楽が催されたが、久秀はその際に要脚を運ぶ仕事をしている。

これは義輝を歓待する三好一族と、義輝の側近のみが許可された仕事であり、三好一門ではない久秀は御供衆としてこの仕事を行ったと推測される。

将軍御成における久秀の仕事は、彼が御供衆として非常に多くの仕事をこなしていたことを示し、それは、久秀が幕府・将軍と三好家の間を仲介し、両者の関係を取り持ち深化させる紐帯としての役割を持っていた証左でもある。

御供衆への任命によって、久秀は三好家家臣・長慶被官として活動するのと同時に、義輝の側近のような立場としても活動した。

永禄4年(1561年)、足利義輝が三好義興の邸宅に御成した際の、久秀の行動からはそれを如実に伺わせる。

久秀は、三好義興が義輝の相伴衆に任命されるとほぼ同時に御供衆に任じられ、同時期に従四位下の官位を授与され、桐紋の使用を許可されていることから、家中における地位は長慶嫡男である義興と同格に近いものだったとみられる(相伴衆と御供衆の違いはあるが)。

こうした飛躍的な出世、当主の嫡男と同格の地位まで登りつめたことが、彼が三好家に下剋上をして成り上がったと後世で言われる一因ではないかと指摘される。

しかし、三好家の実権は没するまで長慶が握っていた、つまり三好家の実質的なトップは最期まで長慶であり、久秀は長慶を出し抜こうとしたりその意に反した形跡はない。

また、久秀は三好長慶から大和一国の管理を任され、その権勢は非常に強く、一国の大名のような立場になっていた。

永禄4年(1561年)11月には三好義興と共に六角義賢と京都付近で戦う(将軍地蔵山の戦い)。

永禄5年(1562年)に三好軍を結集させ河内へ出陣し、5月に義賢と結んだ河内国の畠山高政を打ち破り(久米田の戦い、教興寺の戦い)、紀伊国へ追放している(6月には義賢と和睦)。

9月に長慶に逆らった幕府政所執事の伊勢貞孝・貞良父子を討伐するなど功績を挙げていく。

同年に大和と山城の国境付近に多聞山城を築城・移住し、大和国人・十市遠勝を降伏させ、永禄6年(1563年)1月には多武峰衆徒と戦うが苦戦し、足利義輝に仲介を依頼している。

この時、和睦を仲介していた義輝はそれに応じない多武峰側に不快感を示していたという記録(『お湯殿の上日記』)があり、心情的に久秀側擁護に回っているとも解釈できる。

敵対時には久秀が義輝の境遇を「天罰」と罵り、また永禄年間に曼殊院と松梅院との相論を巡り義輝と久秀が激しく口論を行う姿が記録される(『左衛門督局奉書案』)など、当初は険悪な関係にあったと思われる両者だが、義興・久秀が幕臣として義輝と接する機会も増え、決して常に対立していた関係ではなかったとも言える。

この年の12月14日、家督を嫡男・久通に譲ったが(厳助往年記)、隠居したというわけではなく、以後も前線で活躍する。

久秀が勢力を増加させていく一方で、主君・三好長慶は弟の十河一存、三好実休、嫡男・三好義興の相次ぐ死去などの不幸が重なった。

一存や義興については久秀による暗殺説もあるが、一存の死因は落馬、義興は病死とされている。

また岩成友通に宛てた書状では、義興が病に倒れたことに心を痛め、改めて三好家に忠誠を誓い討死せん覚悟があることを伝えている。

永禄7年(1564年)5月9日、三好長慶の弟である安宅冬康の死去により、三好家では久秀に並ぶ実力者は、阿波で国主を補佐していた篠原長房のみとなる。

7月4日に長慶が死没すると、しばらくは三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らと共に長慶の甥・三好義継を担いで三好家を支えた。

永禄8年(1565年)5月19日、息子の久通と三好義継、三好三人衆が軍勢を率いて上洛し、室町御所の足利義輝を襲撃して殺害する(永禄の変)。

この事件は久秀が首謀者のように言われているが、この時期の久秀は京への出仕は久通に任せ大和国にいることが多く、事件当日も大和国におり参加していない。

また覚慶と号し、この当時僧籍に入っていた還俗前の足利義昭の書状から、久秀は事件直後に義昭の命は取るつもりはないと誓詞を出しており、実際に興福寺での監禁は外出を禁止する程度でさほど厳しいものではなかった。

義継・久通・三人衆ら襲撃犯が義輝の子を懐妊していた侍女や弟の周暠を殺害したことに比較すると温情的な処置であり、久秀は義輝殺害に全く関与していなかった、または消極的だったとも言える。

一方で、久秀は義輝殺害に強く反発した形跡が見られず、殺害そのものは容認していたのではないかとも推測される。

久秀は義輝の死という突発的な状況に、義昭を庇護してそれを将軍に据え傀儡として操ろうとしていたのではないか、とも言われる。

久秀は直後、キリシタン宣教師を追放する。

しかし、同年8月2日に弟・長頼が丹波国で敗死して三好家は丹波国を喪失。

やがて久秀は畿内の主導権をめぐり三人衆と対立するようになり、11月16日に義継を担いだ三人衆が久秀と断交。

両者は三好家中を二分して争い、これが内乱の幕開けとなった。

永禄9年(1566年)には三好康長や安宅信康ら一門衆も三人衆側に加担し、三人衆が新たに担いだ14代将軍・足利義栄からも討伐令を出されるなど、久秀は三好家中で孤立してしまう。2月に畠山高政・安見宗房と同盟を結び、根来衆とも連携して義継の居城高屋城を攻撃するなど何とか勢力の挽回を図ろうとするも、三人衆は和泉国堺を襲撃。

2月17日、久秀は畠山軍とともに三人衆と同盟者の大和国人・筒井順慶と堺近郊の上芝で戦うが(上芝の戦い)、両者の挟撃を受け松永・畠山軍は敗退する。

久秀は一旦多聞山城に退却して5月に再度出陣し、かつての領国摂津で味方を募り堺で畠山軍と合流した。

高屋城では三好義継の被官である金山氏(金山信貞か)が久秀へ内応を図るが高屋衆に阻止され失敗し、高屋城から出撃した三人衆に堺も包囲されたため久秀は5月30日に堺から逃亡し、数ヶ月間行方不明となった(『永禄以来年代記』)。

高政は三人衆と和睦し、摂津・山城の松永方の諸城は篠原長房・池田勝正などの援軍を加えた三人衆に次々に落とされ、留守中の多聞山城は久通が守っていたが、筒井順慶が大和を荒らし回るなど劣勢に立たされた。

ところが、永禄10年(1567年)2月16日に再び金山信貞の手引きで三人衆のもとから三好義継が久秀を頼って出奔してきたため、これを契機に勢力を盛り返し、4月7日に堺から信貴山城に復帰した。

4月18日に三人衆が大和へ出陣。

久秀は長い対陣の末に10月10日に三人衆の陣である東大寺の奇襲に成功し、畿内の主導権を得た(東大寺大仏殿の戦い)。

このとき大仏殿が焼失し、大仏の首も落ちた。

茶人でもあった久秀は、近辺の松屋久政の手貝屋敷となっていた茶室・珠光座敷が失われるのを惜しみ、進攻に先立ち、松屋の椿井邸宅に解体して避難させた(『松屋会記』)。

一般的には久秀の命によるとされているが、大仏殿に火を点けたのは誰か(あるいはそもそも放火なのか失火なのか)については諸説ある。

松永久秀軍による兵火の残り火が倉庫に燃えつき、そして法華堂から大仏殿回廊にまわり本殿に燃え移った失火であると、同日の奈良での記録がある(『大乗院日記』)。

その一方、ルイス・フロイスの『日本史』では、この出火は三好方のキリシタンの放火によると記述されている。

三好義継は2月28日付で南山城国人の椿井氏に宛てた書状で、三好三人衆の悪逆無道を鳴らし、また久秀の三好家に対する忠誠心を賞し、これを見離せず鞍替えしたと述べている。

実際これ以降の久秀の行動は義継とほぼ共にあり、三人衆や阿波三好家(三好長治)とは激しく対立したものの、やはり三好家当主には忠実だったと言える。

しかし、この時点で久秀に味方したのは畠山高政や根来衆、箸尾高春ら一部の勢力だけで、四国に強い地盤を持つ阿波三好家の篠原長房率いる大軍勢を味方につけた三人衆とは大きな勢力の開きがあり、三人衆との戦いは終始劣勢であった。

永禄11年(1568年)になっても三人衆は軍を大和に駐屯させたまま久秀の監視体制を継続、6月29日に信貴山城が三人衆に落とされるまでになった(信貴山城の戦い)。

多聞山城に籠城していた久秀が打開策として考えていたのが織田信長の上洛で、永禄9年(1566年)の段階で既に信長と交信していて、信長も大和国人衆に久秀への助力を伝えている。

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永禄11年(1568年)9月、足利義昭を擁立した信長は上洛に成功し、信長の上洛に協力した久秀は、当初は信長の同盟者の立場にあった。

10月2日には信長に対して人質と名物といわれる茶器「九十九髪茄子」を差し出した。

久秀は幕府の有力な構成員となり、大和一国の支配を認められた。

三人衆は信長に抵抗して9月に畿内から駆逐され、足利義栄も上洛出来ず急死したため義昭が15代将軍となり、畿内は信長に平定された。

この後も三好義継、松永父子は相伴衆や御供衆に任じられた義昭の「幕臣」としての京での活動が記録に残っている。

大和の有力国人はほとんどが筒井順慶に属していたが、信長が10月に家臣の佐久間信盛、細川藤孝、和田惟政ら2万の軍勢を久秀の援軍として大和に送ると、この軍勢と協力して次第に大和の平定を進めていく。

一段落した12月24日には岐阜へ赴き、さらに「不動国行の刀」以下の諸名物を献上した。

永禄12年(1569年)も大和平定を継続し、対する順慶は没落を余儀無くされていく。

またこの年の本圀寺の変時には岐阜に滞在しており、事件の際には信長と共に上洛し駆けつけている。

元亀元年(1570年)、信長の朝倉義景討伐に義継や池田勝正らと共に参加し、信長が妹婿・浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされると、近江国朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている(金ヶ崎の戦い)。

また、同年11月から12月にかけて信長と三人衆の和睦交渉に当たり、久秀の娘を信長の養女とした上で人質に差し出して和睦をまとめている。

以後も事実上の信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するが、次第に久秀と義昭は反目を深め、それと共に義昭を擁する信長との関係が悪化していく。

元亀2年(1571年)5月、久秀は畠山秋高の家臣で自らの指揮下にあった安見右近丞を奈良に招いて殺害すると、その本拠である交野城を攻めた(『多聞院日記』『二条宴乗記』)。

これに呼応するように三好義継や三好三人衆までが畠山攻めを開始して、6月には連合して高屋城を攻めた(『尋憲記』)。

義昭としては、久秀・義継・秋高はいずれも幕臣である以上、幕臣同士の争いを許容できず、和田惟政に秋高救援を命じた。

更に6月に入ると、義昭は養女を筒井順慶に嫁がせて自派に引き込もうとし、これに伴って久秀は義昭・信長に反旗を翻すが、8月4日の辰市城の戦いで筒井方に大敗し、竹内秀勝らの有力な家臣を失っている。

しかし、その後三好三人衆と連携していた阿波三好家(三好長治・十河存保・篠原長房)とも和睦をして8月28日の白井河原の戦いで和田惟政を討ち取ることに成功した。

なお、久野雅司は久秀と義昭の対立のもう一つの理由として、久秀が大和支配の安定化のために幕府の直轄地である山城南部への進出を図り、それが義昭との境界紛争を招いた結果として、義昭は久秀を牽制するために順慶と接近したとみている。

実際にこの5月より山城普賢寺城を巡って久秀と三淵藤英・細川藤孝兄弟が交戦をし、10月には普賢寺城を抑えた久秀が更に槙島城へと攻め込んでいる。

当時、義昭と信長の協力関係は続いており、久秀は信長と敵対したのではなく、義昭と対立した結果としてその後見である信長とも対立したと見るのが適切である。

また、元亀2年(1571年)の時点で甲斐国の武田信玄から書状が送られており、この時点で既に信長に対する不穏な動きが見て取れる。

元亀3年(1572年)に入ると、久秀と義継は細川昭元・畠山秋高・遊佐信教・伊丹親興・和田惟長(惟政の子)らを味方に引き込もうとするが、義昭の働きかけによって誘いには応じず、わずかに三好為三を引き込めたに過ぎなかった。

しかし、三好勢力の再結集には成功しつつあった久秀らは朝倉義景や武田信玄、本願寺などの反信長勢力と接近し、また義昭と信長の関係悪化に伴って、敵対対象は信長へと移行していく(信長包囲網)。

そして、翌元亀4年(1573年、天正に改元)2月、義昭が信長と決別して挙兵をすると、義昭と久秀・義継は正式に和睦を結んだ。

しかし、元亀4年4月、包囲網の有力な一角である信玄が西上作戦中に病死し、武田氏は撤兵。

7月に足利義昭が信長に敗れ追放(槇島城の戦い)。

11月に三好義継も信長の部将・佐久間信盛に攻められ敗死(若江城の戦い)。

12月末に余勢を駆った織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏した。

三人衆も信長に敗れ壊滅し包囲網は瓦解した。

翌天正2年(1574年)1月には岐阜に来て信長に謁見、筒井順慶も信長に服属している。

以後、久秀は対石山本願寺戦(石山合戦)の指揮官である信盛の与力とされたが、目立った動きは無い。

天正5年(1577年)に上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。

信長の命令に背き、信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表した。

信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、使者には会おうともしなかったという(『信長公記』)。

信長は、嫡男・織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲させた。

佐久間信盛は名器・古天明平蜘蛛を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首の2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答した(『川角太閤記』)。

織田軍の攻撃により、久秀は10月10日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害した。

首は安土へ送られ(『多聞院日記』)、遺体は筒井順慶が達磨寺へ葬った(『大和志料』)。

享年68歳(一説に70歳とも)。

10年前に東大寺大仏殿が焼き払われた日と同月同日であったことから、兵は春日明神の神罰(神仏習合参照)だと噂した(『信長公記』)。

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