【時代】 戦国時代 – 江戸時代
【生誕】 不明
【死没】 慶長19年8月5日(1614年9月8日)
【別名】 少輔八郎
【官位】 摂津守
【主君】 毛利元就→輝元→秀元
【氏族】 源姓三沢氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から江戸時代にかけての武将。

南信濃の国人飯島氏の末裔、もしくは木曾義仲の末裔を称する。

出雲国仁多郡三沢城を根拠とする三沢氏の当主。

三沢氏は尼子氏傘下であったが、元々独立性の強い国人領主であり、父の三沢為清の時に尼子氏を見限り、毛利氏に臣従した。

生年不詳だが、父の生年から1550~1560年代の生まれと推測される。

為虎幼少の頃、もしくは誕生前に父の為清は安芸国の戦国大名毛利氏に臣従し、その家臣となった。

[sengoku-2]

永禄12年(1569年)、毛利氏の北九州への侵攻に従い、吉川元春傘下として出陣。

筑前国立花山城の戦いに加わった。

同年、毛利氏の主力が九州に集中している隙を狙って尼子再興軍の尼子勝久や山中幸盛が出雲国に侵攻してくると、父とともに尼子再興軍を迎撃した。

永禄13年(1570年)布部山の戦いでも戦功を挙げ、尼子再興軍を撃破した。

引き続き、吉川元春指揮下で山陰方面を転戦する。

また、天正元年(1573年)に織田信長に追放された足利義昭が鞆に住まいを構える(通称:鞆幕府)と、その御供衆となった。

天正2年(1574年)、父の隠居に伴い家督を相続。

そして天正6年(1578年)の上月城の戦いにも従軍し、尼子氏の最期を見届けた。

そして天下統一を目論む織田信長とその配下、羽柴秀吉との戦いにも参加し、天正10年(1582年)の備中高松城の戦いにも出陣した。

羽柴秀吉との戦いでは、三沢為虎が秀吉に通じたとの噂があり、その噂を否定するために吉川元長に誓紙を提出している。

[sengoku-3]

豊臣秀吉の天下となると、毛利氏は積極的に領内の再編成を進めた。

出雲国内も例に漏れず、多くの国人衆が所領を転封され、家臣団の再編成と在地性脱却が図られた。

三沢氏と同じ出雲国の有力国人であった三刀屋久扶は徳川家康への面会を理由に、所領を没収されて追放された。

三沢為虎も天正17年(1589年)に毛利輝元に安芸国へ呼び出され、そのまま監禁状態に置かれた。

三沢は没収されたものの、その有能さと毛利一門宍戸元続の娘を妻としていたこともあり、長門国厚狭郡に1万石を与えられ、そこへと移住した。

その後も毛利氏家臣として、引き続き輝元に仕え、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐にも従軍。

伊豆国下田城攻めでは同僚の吉見広頼、益田元祥、山内広通らと武功を挙げ、下田城を開城させた。

また、文禄・慶長の役でも出陣して、朝鮮へと侵攻した。

慶長2年(1597年)から翌年にかけての蔚山城の戦いでも、戦功を挙げた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、安濃津城の戦いや大津城の戦い、関ヶ原本戦にも出陣せず、長門国の要衝であった赤間関の守備についた。

結局、毛利氏は戦いに敗れ、中国地方120万石の大大名から防長2ヶ国36万石に減封された。

三沢為虎は、新たに立藩した長府藩藩主毛利秀元の家老となり2,700石の所領を知行された。

没年不詳。

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