【時代】 安土桃山時代 – 江戸時代
【生誕】 天正20年1月4日(1592年2月16日)
【死没】 天和3年7月3日(1683年8月24日)
【改名】 辰千代(幼名)→忠輝
【別名】 越後少将(通称)
【官位】 従五位下、上総介、従四位下、左近衛権少将
【氏族】 徳川氏→長沢松平氏

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概要 (説明はWikipediaより)

安土桃山時代から江戸時代にかけての大名。

天正20年(文禄元年、1592年)に徳川家康の六男(庶子)として誕生した。

『徳川幕府家譜』『御九族記』には文禄元年に浜松で生まれたとある一方、『幕府祚胤伝』には1月4日に江戸城で誕生したとした上で、同年に同母の松千代が双子の兄として誕生したとある。

前者はこれ以前の天正18年(1590年)に家康が江戸に、それ以前の天正13年(1585年)に浜松から駿府に移っている。

また後者は松千代を兄とする問題点がある。

幼名は辰千代(たつちよ)で、生年が辰年だったのがその由来と思われる。

なお『徳世系譜』(朝野旧聞裒藁所載)には天正14年(1586年)生、文禄元年元服とする記述がある。

同時代資料には、『言経卿記』に慶長10年(1605年)4月11日の参内・任官時点で12・3歳頃とあり文禄2年頃、『当代記』『慶長見聞録案紙』には慶長10年5月11日時点で14歳(『当代記』には第七子とある)とあり文禄元年、また『当代記』に慶長14年(1609年)9月23日や同年12月11日時点で20歳とあり天正18年に換算される。

武田信吉が生まれた天正11年(1583年)から天正20年の間に、公式には家康の子が出生した資料は確認できない。

この間は秀吉の妹朝日姫が家康の継室となって死去する期間(天正14年~同18年)に符号しており、この間に家康の子が生まれるのは外聞を憚ったと見られる。

生母・茶阿局の身分が低いため、下野栃木(皆川)城主で3万5,000石の大名である皆川広照に預けられて養育されることとなった。

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慶長4年(1599年)1月、家康の七男で同母弟の松千代が早世したため、弟の名跡を継ぐ形で長沢松平氏の家督を相続し、武蔵国深谷1万石を与えられた。

ただし『徳川幕府家譜』では慶長初めに長沢松平氏は忠輝が直接継いだとあり(『御九族記』は松平康直死去と同じ文禄2年)、松千代は通説では異母弟松平仙千代の経歴とされる平岩親吉の養子になったとある。

松平仙千代は後に御三家筆頭となる徳川義直の同母兄であり、如何に親吉が功臣としても養子とするのは不自然であり、庶子の第二子である松千代の方が適当と言える。

慶長3年(1598年)、伊達政宗の娘と縁組を行う。

慶長7年(1602年)に下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る。

慶長8年(1603年)2月、信濃国川中島藩12万石に加増移封され、待城(松代城)主となる(佐倉移封が前年12月であったため、わずか40日で2度の転封となる)。

慶長10年(1605年)に上洛して家康が将軍として最後に参内した翌日の4月11日に参内、従四位下・右近衛権少将に任じられる。

5月11日には新将軍秀忠の名代として、上洛を拒否した大坂の豊臣秀頼に面会した。

慶長11年(1606年)11月24日、先述のように縁組した政宗の長女・五郎八姫と結婚した。

慶長13年(1608年)、同母姉(異父姉)の婿の花井吉成が附家老とされた。

慶長14年(1609年)9月、幼き日の忠輝を養育し、この頃は幕府からの附家老であった皆川広照や、山田重辰・松平清直ら古くからの家臣が、忠輝の素行の改まらないことを駿府の家康に訴えた。

忠輝側の弁明もあり、家康からは逆に家老に不適格であるとされて皆川・松平清直は改易、山田は切腹となった。

慶長15年(1610年)、当初は井伊直勝の代わりに近江国50万石を与える話があったが、閏2月に越後国高田藩(福島城主・後述)30万石を加封され、このとき川中島14万石と併合して合計45万石を領した(『恩栄録』)。

なお、所領は史料によって75万石(『慶長見聞録案紙』『慶長見聞書』)、65万石(『松平系諸集参考』)、55万石(『家盛』『大三川志』)、53万8千500石(『武徳編年集成』)、45万石(『恩栄録』『続選武家補任』)と一定していない。

旧領の川中島領は花井吉成が松代城代となって支配した。

この際、幕命により松平清直を5千石で再度附属させられている。

慶長17年9月には駿府で家康と面会したが、これは主に江戸に参勤していた忠輝と暫く会っていない家康からの要望だった。

同年には長年家康麾下の大番頭を勤めた松平重勝を、忠輝の附家老にした。

翌年4月も忠輝は駿府に出向き、家康と面談している。

越後領有当初の忠輝は、堀氏が築いた福島城を居城としたが、高田城を築城して慶長19年(1614年)2月にこれに移った。

高田城は幕命(天下普請)により、忠輝の義父である伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造された。

西の越前国に封じられた同じく家康の子である結城秀康67万石の北の庄城と高田城の忠輝63万石の合計130万石で、加賀国の前田家120万石を挟んで封じ込める形になる。

他の天下普請の徳川城郭と比較した場合に石垣の比率が低いが、これは東北の城全般に言える。

移転理由として海と二本の川に囲まれた福島城は交通利便はあるが、河川や海による城への被害が激しかったためとある。

また俗説として忠輝が絶えず聞こえる日本海の波の音を怖がったために内陸部に移転した、とする話が伝わる。

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慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では江戸の留守居役を命じられる。

剛毅な忠輝には不満が残る命令であり、なかなか高田城を出発しなかったが、岳父の伊達政宗の促しもあり、結局これに従った。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂に出陣した。

伊達政宗の後援の下に大和口の総督を命じられたが、遅参により軍功を挙げることはできなかった。

同年8月、家康は忠輝に対し今後の対面を禁じる旨を伝える使者を送った。

元和2年(1616年)4月、家康が死去した。

家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを呼びながら、忠輝だけは呼ばなかった。

拝謁を望む忠輝は駿府まで自ら参じたが、家康は最後まで面会を許さなかった。

『徳川実紀』は「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。家康は以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御対面も叶はざれば。少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。御気のひまを伺ひて。謝し奉られんとする内に薨去……」と伝えている。

元和2年(1616年)7月6日、忠輝は兄・秀忠から改易を命じられて伊勢国朝熊に流罪とされ、金剛證寺に入った。

生母・茶阿局は、家康の側室の阿茶局や高台院などにも取り成しを依頼したが、聞き入れられなかった。

元和4年(1618年)3月5日に正式に飛騨国高山の金森重頼に預けられた。

この際、使者の近藤秀用・中山照守に対して「吾罪あらんには。この儘に死をたまはるべし」(『徳川実紀』)と、潔い死罪を主張して動こうとしなかったが、幕府の重臣らがとにかく将軍に陳謝することを勧めたため、ようやく飛騨に赴くことにした。

金森家では忠輝を持て余したらしく、寛永3年(1626年)4月24日には信濃国諏訪の諏訪頼水に預け替えとなった。

息子の徳松(母は竹の局)は同行が許されず、別に岩槻藩主・阿部重次の預かりとなったもののそこで冷遇され、寛永9年(1632年)に住居に火をつけて自殺している。

享年18、墓所は岩槻の浄安寺。

諏訪の配流屋敷で長年を過ごした。

監禁生活ではなかったらしく、地元の文人と交流したり、諏訪湖で泳いだ等の話が残る。

天和3年(1683年)7月3日、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて死去した。

享年92歳。

当時としても長命であり、徳川将軍は大甥で五代徳川綱吉になっていた。

野風の笛の逸話をもって、家康との仲は実はそう悪くはなかったとする説もある。

この笛は、織田信長→豊臣秀吉→家康と渡り歩いた物とされており、その天下人の象徴である笛を、家康は茶阿局を通して忠輝に渡したといわれている。

現在、長野県諏訪市の貞松院に保存されている。

徳川宗家より赦免されたのは、死去から300年後の昭和59年(1984年)になってからであった。

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