【時代】 戦国時代
【生誕】 大永3年(1523年)
【死没】 永禄6年8月4日(1563年9月1日)
【別名】 通称:少輔太郎
【官位】 備中守、従四位下、大膳大夫、贈・正三位
【主君】 大内義隆 → 足利義輝
【氏族】 毛利氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代の武将。

安芸の守護大名、戦国大名。

毛利氏の第13代当主。

本姓は大江氏。

家系は大江広元の四男の毛利季光を祖とする国人領主の毛利氏。

周防・長門・安芸・備後・備中守護職として、毛利氏による中国地方支配を盤石なものとした。

官位は従四位下・大膳大夫。

贈・正三位。

毛利元就の嫡男で毛利氏の第13代当主。

吉川元春・小早川隆景の同母兄。

正室は大内義隆の養女(長門守護代の内藤興盛の娘)である尾崎局で、義隆からは「隆」の字の偏諱を受けた。

尾崎局との間に生まれた子に毛利輝元・毛利徳鶴丸・津和野局(吉見広頼室)がいる。

父の元就の隠居表明後に家督を継ぐが、その後も実権を握っていた父に8年先立って死去。

隆元自らが毛利家当主として実権を握ることはなかったが、優れた内政手腕によって父の勢力拡大を支え続けた。

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大永3年(1523年)、毛利元就の嫡男として安芸多治比猿掛城で生まれた。

天文6年(1537年)12月1日、当時元就が従属していた周防の戦国大名の大内義隆のもとに人質として送られる。

同年中に主君・大内義隆を烏帽子親として元服し、義隆から一字を賜り「隆元」と名乗ることが許され、大内氏に仕える武将の一人に加えられた。

嫡男を人質としたことで、毛利氏は大内氏から絶大な信頼を置かれることになる。

当時の隆元の優雅な暮らしぶりは『毛利隆元公山口逗留日記』にも書かれている。

また、山口滞在中の隆元は大内家重臣の内藤興盛(長門守護代、のちに隆元の岳父となる)や江良房栄、人質仲間の天野隆綱(興定の子)などとも親交を結んだ。

特に同年代であった陶隆房(後の陶晴賢)や弘中隆包(隆兼)らとの親交は深かった。

天文9年(1540年)、大内義隆から吉田郡山城に戻ることが許された。

隆元は元就と共に月山富田城攻めに従軍し、その後の撤退戦(七騎落ち)などの修羅場を経験した。

またこの際の蓮池縄手の戦いで、隆元は初めて家臣の児玉就光に感状を与えている。

天文15年(1546年)、元就の突然の隠居表明により、家督を相続して第13代毛利家当主となるが、元就は隠居後も毛利家の実権を掌握しており、隆元は依然として元就麾下の一武将の扱いであった。

これは、毛利家を覆う事情が依然として険しかったという理由もあるが、自分の器量に自信が持てない隆元が、実権の移譲を辞退したためともされる。

家督相続前後から、元就の要請により老臣の志道広良が隆元の訓育にあたるようになった。

天文18年(1549年)、大内義隆の養女で大内氏の重臣の内藤興盛の娘と結婚する。

後にこの女性は隆元が生活していた屋敷(尾崎丸)の名前から尾崎局と呼ばれ、幸鶴丸(後の輝元)を含む二男一女に恵まれる。

隆元はこの女性を深く愛したとされ、生涯側室を持たなかった。

戦場から妻にあてて「たいした事は起きていないが、この手紙を預ける男が吉田に戻ると言うので手紙を書いた」という律儀な一文から始まる手紙が残っている。

なおこの時興盛から、船岡山合戦以来着用してきた嘉例の重宝「縹糸胸紅白威胴丸」(毛利博物館蔵)を贈られており、興盛の娘婿隆元に対する期待のほどが窺える。

天文19年(1550年)、父の元就の主導の下、専横甚だしい井上党が粛清を受け、井上元兼ら重臣一派が殺害された。

その後、新しい毛利家の行政官僚組織として、隆元直属の五奉行制度が発足した。

隆元側近の赤川元保を筆頭奉行とし、国司元相・粟屋元親、元就の側近であった児玉就忠と桂元忠も参画した。

この組織の創設に隆元は大いに貢献したとされるが、主導権を握っていたのはやはり元就であった。

また、この五奉行制度自体も、当初は親隆元派の官吏達と親元就派の武将達との対立によって運営が上手くいかず、元就も隆元も頭を悩ませた。

しかし、隆元がこの時期に著した訓戒状の条文の多くは、後の毛利家の御家訓に収録され宗家運営の模範とされるのである。

天文20年(1551年)、大内義隆が重臣の陶隆房(陶晴賢)により自害に追い込まれると、いずれ陶氏は毛利にも攻めてくると判断して陶氏打倒を主張した。

しかし、元就は戦力的劣勢を理由に慎重な姿勢を崩さなかった。

そこで隆元は重臣たちを動かして元就に翻意を促すべく、家中に陶氏の横暴無慈悲ぶりを喧伝して回った。

その甲斐あってか、間もなく元就もまた陶との対決を決めることとなる。

弘治元年(1555年)、父と共に旧友の陶晴賢を厳島の戦いで滅ぼした。

隆元は元就と共に本陣を率いて厳島に渡海した。

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弘治3年(1557年)に防長経略を行い、大内義長を滅ぼした。

しかし旧大内領をめぐって豊後国の大友宗麟が西から、出雲国の尼子晴久が北から侵攻してきたため、元就は北の尼子氏に、隆元は西の大友氏に対応することになった。

毛利氏にとっては非常に危機的な時期ではあったが、隆元は弟の隆景の支援を受けつつ大友氏を撃退することに成功した。

永禄2年(1559年)、隆元は元就との連署で正親町天皇の即位料を朝廷に献納した。

毛利氏の献金は総額二千五十九貫四百文に及んだ。

永禄3年(1560年)、第13代将軍足利義輝より、安芸の守護に任じられた。

また、正親町天皇の即位料を献上した功績により、朝廷から大膳大夫に任じられた。

この口宣案には義輝の袖花押が添えられていた。

永禄5年(1562年)、隆元は幕府から備中・備後・長門の守護職に、永禄6年(1563年)には周防の守護職に任じられる。

これにより毛利氏は、正式に中国地方の大名としての立場を認められたこととなり、国人領主連合という従来の支配体制も急速に大名家のそれへと変貌していった。

永禄3年(1560年)に尼子晴久が急死して尼子氏の勢力が衰退し始めると、九州戦線を受け持っていた隆元は幕府の仲介を利用して大友宗麟と和議を結び、尼子討伐に全力を傾けるようになる。

永禄6年(1563年)7月10日、隆元は多治比猿掛城に帰還した。

また、隆元は嫡男の幸鶴丸(後の輝元)を吉田郡山城から呼び寄よせ、対面した。

だが、これが父子の最後の対面となった。

7月12日、隆元は多治比猿掛城を出発し、安芸の佐々部に到着した。

式敷の蓮華寺に留まり、ここで尼子攻めに参加するための準備を行った。

8月3日晩、隆元は毛利氏傘下の備後国人である和智誠春の宿所に招かれ、饗応を受けたが、宿に戻った後に急病となり、翌8月4日朝に急死した。

享年41。

死因は食傷とも毒殺ともいわれる。

この時隆元に近侍した赤川元保が永禄10年(1567年)3月に、和智誠春が永禄12年(1569年)1月に元就の意向によって誅殺されている。

元就は、隆元の死因に釈然としないものがあったのではないかと指摘されている。

毛利家の家督は隆元の嫡男の幸鶴丸が継いだが、若年のために元就が実質的な当主として主導権をなおも握ることとなった。

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