【時代】 戦国時代後期 – 江戸時代前期
【生誕】 天文22年1月22日(1553年2月4日)
【死没】 寛永2年4月27日(1625年6月2日)
【改名】 幸鶴丸(幼名)→輝元→幻庵宗瑞(号)
【別名】 少輔太郎(通称)、羽柴安芸宰相、羽柴安芸中納言、大江輝元
【官位】 従五位下・右衛門督→ 右馬頭→従四位下・ 侍従→参議→従三位・権中納言
【主君】 足利義昭→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光
【氏族】 大江姓毛利氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代後期(安土桃山時代)から江戸時代前期にかけての武将・大名。

安芸の戦国大名・毛利氏の14代当主。

豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖でもある。

天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として、毛利氏の居城・安芸吉田郡山城で誕生した。

母の尾崎局は大内氏の重臣で長門守護代の内藤興盛の娘であり、大内義隆の養女でもあった。

幼名は幸鶴丸(こうつるまる)と名付けられた。

幸鶴丸が誕生した天文22年は、天文19年(1550年)の井上元兼とその一族の討伐を契機に家中掟法の整備、それによる家中統制が行われ、毛利氏の「国家」が成立していた。

また、陶晴賢が主君・義隆を討った大寧寺の変を経て、祖父・毛利元就の権力基盤が強化された後でもあった。

天文23年(1554年)、防芸引分(大内氏・陶氏との断交)が行われ、翌年(1555年)に毛利氏は厳島の戦いで陶晴賢を討った。

その後、防長経略も行われ、毛利氏は大内氏と陶氏を滅ぼした。

さらに、尼子晴久を惣領とする尼子氏との戦いも行われ、石見国で対峙が続いた。

それゆえ、父の隆元は断続的に出陣を繰り返し、幸鶴丸のもとに落ち着くことはなかった。

永禄6年(1563年)8月4日、当主である父・隆元が尼子攻めのさなか、安芸佐々部で急死した。

そのため、幸鶴丸が11歳にして家督を継承するが、元就が後見して政治・軍事を執行した。

この時期、安堵状・宛行状・官途状・加官状類は元就から発されており、幸鶴丸は形式的には家督を継承したものの、その権限は保留状態にあった。

永禄8年(1565年)2月16日、幸鶴丸は13歳のとき、吉田郡山城で元服し、室町幕府の13代将軍・足利義輝より「輝」の偏諱を受けて、輝元と名乗った。

もっとも、輝元が将軍の偏諱を受けることができたのは元就が幕府に働きかけたからであり、永禄7年(1564年)12月以前から元服の準備が進められ、幸鶴丸の名を据えた花押の文書が同年半ば頃から増加したのもその一環であったと考えられる。

これにより、輝元は事実上の当主となり、幸鶴期には全く発給していなかった官途状・加官状類が輝元の名でも発給されるようになり、輝元自身の当主としての権限も拡大された。

だが、輝元と元就の連署の書状もあり、元就の後見が必要となる場面もあった。

永禄8年3月、輝元は毛利氏による尼子攻めに出陣し、4月の尼子氏の本拠地・月山富田城への総攻めで初陣を飾る(月山富田城の戦い)。

この戦いにより、永禄9年(1566年)11月に尼子氏の当主・尼子義久が降伏し、毛利氏にとって長年の宿敵たる尼子氏は滅亡した。

永禄10年(1567年)2月、輝元は吉田郡山城へ凱旋した。

他方、元就自身は二頭体制に移行後、輝元の当主権限が拡大されるにつれ徐々に権限を移行し、輝元の初陣を機に隠居を考えていた。

だが、同年に輝元は隠居しようとする元就に隠居しないように懇願し、その隠居を断念させた。

15歳の輝元には毛利氏の領国を円滑に運営させてゆく自信がなく、輝元の名で領主たちの盟主たりうることは困難であった。

そのため、元就が死没するまで、輝元と元就の二頭政治体制が続くことになる。

また、叔父の吉川元春や小早川隆景の2人、毛利氏庶家筆頭の福原貞俊、口羽通良を合わせた4人、いわゆる「御四人」が輝元の政務を補佐した。

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天正4年(1576年)2月、将軍・足利義昭が紀伊国の畠山領を経て、毛利氏領国の備後・鞆に動座してきた。

同月8日には義昭は元春に命じて、輝元に幕府の復興を依頼した。

だが、この動座は毛利氏に何一つ連絡なく行われたものであって、信長との同盟関係上、義昭の動座は避けなければならない事態であり、輝元はその対応に苦慮した。

輝元と信長は先の軍事衝突後、同盟を維持する方向で話を進めていた。

ところが、信長は播磨に逃れた浦上宗景を庇護して軍事支援を行い、先の衝突では浦上氏・三村氏の支援に消極的だったにもかかわらず、一転して方針を転換させ、毛利氏との軍事対決も辞さない態度を示した。

また、先の衝突が信長の予想に反して早期決着したため、信長は毛利氏と宇喜多氏の同盟を警戒するようになっていた。

さらに、天正3年以降、信長は毛利氏への包囲網を構築するため、近衛前久を九州に下向させ、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図ろうとしていた。

輝元と信長の関係は悪化していたとはいえ、表面上両者の同盟関係は継続されており、 毛利氏が義昭を受け入れないことは信長とも約束されていたことで、それを破ることは重大な背信行為であった。

だが、義昭の下向は先の衝突以降、浦上氏の領国という緩衝地帯がなくなった両者の軍事的緊張が高まっていた中で、決定的な亀裂を生じさせた。

義昭自身は信長が宗景に備前・播磨・美作の統治を認める朱印状を出したことや、宗景が播磨へ逃亡して以降の対応から、信長の輝元に対する「逆心」は明確であると述べており、同盟は既に破綻していると考えていた。

輝元は信長と義昭との間に揺れ動いた末、4月に義昭の要請に応じ、5月7日には反信長として立ち上がり、13日に領国の諸将に義昭の命令を受けることを通達し、西国・東国の大名らにも支援を求めた。

これにより、輝元は信長との関係を断ち、織田氏との同盟も破棄することとなった。

輝元自身も信長の領国への介入から疑心に駆り立てられ、信長との関係修復が困難であると判断したと考えられている。

輝元ら毛利氏に庇護されていたこの時期の室町幕府は、「鞆幕府」とも呼称される。

義昭を筆頭とする鞆幕府は、かつての奉公衆など幕臣や織田氏と敵対して追われた大名の子弟らが集結し、総勢100名以上から構成されていた。

輝元自身も鞆幕府において、義昭から将軍に次ぐ地位たる副将軍に任じられている。

また、輝元は副将軍として義昭を庇護することにより、毛利軍を公儀の軍隊の中核として位置づけ、西国の諸大名の上意に君臨する正統性を確保した。

また、義昭は鞆に滞在中、輝元に足利氏の家紋たる桐紋を与えている。

輝元が義昭を鞆において庇護することを決めたことは、諸国の情勢に大きな変化を与えた。

義昭は輝元の庇護を受け、反信長勢力を糾合し、幕府の復興に尽力した。

4月、輝元が義昭を庇護したのと同時期、織田氏と大坂の石山本願寺と和議が破れ、戦闘が再開された。

石山本願寺は紀州の雑賀衆の援軍も得て、初戦は織田軍に勝利を収めた。

同月、輝元と同様に信長と同盟関係にあった北国の上杉謙信が、本願寺との和平交渉を開始し、5月中旬に講和を成立させた。

謙信が本願寺と講和した背景には、義昭が輝元の庇護下で鞆に落ち着き、義昭自身も謙信に幕府再興の援助を求めたからだとされる。

謙信と本願寺との講和によって、毛利氏、上杉氏、本願寺による三者同盟が結成され、第三次信長包囲網が築き上げられた。

5月になると、輝元は謙信に上洛を呼びかけ、6月に謙信は隆景に対して、来春には上洛するように伝えている。

また、義昭も6月に謙信と甲斐の武田勝頼に使者を出し、輝元と力を合わせて信長を討つように命じている。

本願寺は初戦に勝利を収めていたが、5月に信長自らが出陣すると劣勢となり、やがて石山を水陸から織田軍に包囲された。

本願寺は輝元に支援を求め、輝元も反信長同盟が崩れることを危惧し、救援を決めた。

輝元は本願寺救援のため、村上水軍などからなる毛利水軍を派遣し、織田軍の海上からの包囲を破ろうとした。

7月13日、毛利水軍は織田水軍を大阪湾木津川河口(現在の大阪市大正区に位置する木津川運河界隈)で破り、本願寺に兵糧や武器など物資を運び入れることに成功した(第一次木津川口の戦い)。

この戦いで織田水軍は毛利水軍の焙烙といった火器に対抗できず、真鍋貞友ら水軍の将が多数討たれるなど大きな損害を被り、輝元は強力な海軍力を背景に瀬戸内海一帯の制海権を保持した。

天正6年11月6日、毛利水軍は本願寺に物資を運び入れるため、石山に再び来援したが、九鬼嘉隆の鉄甲船を用いた織田水軍に敗北を喫した(第二次木津川口の戦い)。

以後、毛利氏は淡路島以西の制海権は保持したままであったが、大阪湾は織田水軍に封鎖された。

本願寺は輝元自らの援軍も見込めなくなったこともあり、次第に戦況が不利となっていった。

また、輝元と同盟関係にあった上杉謙信が天正6年3月に死去すると、その2人の養子・上杉景勝と上杉景虎が跡目を争う、御館の乱が勃発した。

天正7年にこの乱を制した景勝もまた信長との抗争を継続したが、上杉氏は北陸方面で大きく勢力を減退し、信長包囲網が瓦解し始めてきた。

天正7年9月、輝元の上洛による援軍をあてにしていた荒木村重は織田方との戦いで不利に陥り、有岡城から退去を余儀なくされた。

また、同年11月に有岡城が落城し、その他諸城も織田方の手に落ち、村重は毛利氏領国へと逃亡した。

天正8年(1580年)1月、織田軍の羽柴秀吉が三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害した(三木合戦)。

閏3月、本願寺は三木城の開城を受けて、勅命による織田氏との講和に応じた。

顕如らは石山を退去することとなり、摂津における毛利方勢力は壊滅した。

さらに、5月までに但馬の毛利方勢力も織田氏に降伏した。

南条氏によって但馬への連絡ルートを断たれた結果、但馬の国人らは抵抗を断念せざる得なかった。

5月、秀吉は播磨を平定し、播磨の毛利方勢力も壊滅した。

その後、同じく但馬を平定した弟の秀長と合流し、因幡へと侵攻した。

秀吉は因幡の諸城を落とし、同年6月には因幡守護の山名豊国は降伏を余儀なくされた。

同年8月、輝元が吉川元春を主力とする軍勢を南条氏に向けると、因幡では豊国の家臣らが毛利氏に内通し、豊国を鳥取城から追放した。

その後、毛利氏は名将・吉川経家を城番として因幡に派遣し、天正9年(1581年)3月に鳥取城に入城させた。

だが、同年7月から秀吉は鳥取城の兵糧攻めを開始したため、城内は深刻な兵糧不足に陥り、同年10月に経家は自害を余儀なくされ城は開城した。

天正10年(1582年)2月、毛利軍と宇喜多軍は備前児島に近い、八浜において合戦を行った(八浜合戦)。

毛利氏はこの戦いに勝利し、宇喜多秀家の名代・基家を討ち取った。

だが、宇喜多氏はこの大敗を秀吉に報告し、秀吉はこれを受けて、中国地方への出陣を決意した。

3月、輝元と同盟関係にあった甲斐の武田勝頼もまた、甲州征伐で織田氏に敗れ、自害し果てた。

武田氏の滅亡、上杉氏の衰退により、信長包囲網が瓦解し、輝元ら毛利氏はさらに不利な状況に追いやられた。

また、輝元は四国の長宗我部元親とも同盟関係にあったが、信長は長宗我部氏討伐のため、三男・織田信孝に四国への出兵を準備させていた。

4月、秀吉が備中に侵攻したが、毛利氏の軍事動員能力は天正4年から7年続いた戦いで限界に達しつつあり、備中諸城には毛利氏の支援もなく、落城するか調略されるかにより降伏した。

そして、同月に毛利氏の忠臣で勇名を馳せていた清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃し、5月には水攻めを行った(備中高松城の戦い)。

同月、輝元は急報を受けて、元春・隆景らと共に総勢5万の軍勢を率い、高松城の救援に向かった。

そして、輝元は猿掛城に布陣し、高松城に近い岩崎山(庚申山)に元春、その南方の日差山に隆景を布陣させ、秀吉と対峙する。

だが、輝元らは積極的な行動を起こせず、5月21日になって輝元は元春とともに織田勢と対峙する位置に陣を移したほどだった。

援軍としてやってきた毛利氏が動けなかった理由としては、秀吉の毛利水軍に対する調略により、来島水軍、高畠水軍、塩飽水軍が離反していていたことにあった。

これにより、毛利氏は制海権を失い、陸路からのみの補給に頼らざるを得ず、そのために絶望的に物資が不足しており、輝元の本陣でさえ物資が不足する有様であった。

また、毛利勢は水攻めにされた高松城に対して、船を使って物資を救援しようとしたが、その船すら入手できない状態であった。

そのうえ、5月末には信長自らが毛利氏討伐のため、京の本能寺で備中高松城に赴く準備をしており、毛利氏は危機的な状況に陥った。

6月2日、高松城攻防戦の最中、信長が京において明智光秀によって討たれる、いわゆる本能寺の変が発生した。

いち早く情報を得た秀吉は、光秀の謀反による信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、安国寺恵瓊に働きかけた。

輝元ら毛利側は秀吉から毛利氏の諸将のほとんどが調略を受けていると知らされ、疑心暗鬼に陥り、講和を受諾せざるを得なかった。

6月4日、備中高松城は講和により開城し、城主の清水宗治らは切腹した。

また、中国地方の毛利氏支配領域に関しては、秀吉が当初割譲を要求していた美作・備中・伯耆・出雲・備後5ヶ国から、美作・備中・伯耆の三国を割譲することで妥協された。

ただし、この時結ばれたのは当面の戦闘を中止するとした停戦協定に過ぎず、輝元と秀吉の講和ではないとする見方もある。

輝元は信長の突然の横死、清水宗治の犠牲と引き換えに危機を脱する形となった。

秀吉はその日のうちに撤退し、毛利方が本能寺の変報を入手したのはその翌日の5日であったことが、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが輝元の従兄弟・吉川広家の覚書(案文)から確認できる。

この時、元春などから秀吉を追撃すべきいう声もあがったが、隆景が誓紙を交わした以上は講和を遵守すべきと主張したため、輝元も追撃を断念したとされるが、兵力からいっても、毛利氏の追撃は無理であったのが実情である。

6月9日、信長の死を知った義昭は隆景に対し、帰京するために備前・播磨に出兵するように命じたが、輝元は講和を遵守して動かなかった。

毛利氏は上方の情報収集は行ったが、領国の動揺を鎮めることで精一杯であり、進攻する余裕はなかった。

6月13日、秀吉が山崎の戦いで光秀を破ると、輝元は秀吉に戦勝を祝うため、安国寺恵瓊を使者として派遣した。

だが、輝元は秀吉の戦勝を祝したものの、諸方面の戦闘では譲らず、美作と伊予では羽柴方との戦闘を継続した。

また、秀吉と柴田勝家が覇権を巡って火花を散らし始めると、輝元は双方から味方になるよう誘いを受けた。

この間、義昭は勝家から自身の帰京の約束を取り付けると、毛利氏に勝家を支援させるように動き始めたが、輝元は両者の抗争を静観し続けた。

天正11年(1583年)3月、勝家が近江に出陣すると、輝元とともに秀吉を挟撃しようとし、義昭にすすめて輝元に出兵を督促させた。

これを受け、4月に義昭は毛利氏に柴田方に加勢し、秀吉を攻撃するように命じた。

だが、輝元は「どちらが勝利するか判断できない」という元春や隆景らの意見を重視し、両者との通交を維持して情勢を見極める方針を打ち出した。

同月、秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家に勝利すると、秀吉は毛利氏に対して強硬な姿勢を取り、再侵攻をほのめかすようになった。

秀吉が恵瓊に宛てた5月7日付の書状では、輝元に美作・備中・伯耆の三国を割譲することなどを条件に講和を迫り、もしこれを拒否した場合は毛利氏を滅ぼす、という旨が記されており、輝元に決断を迫った。

輝元は恵瓊から説得を受けたものの、元春や隆景が領地の割譲に反対し、国境の画定交渉は難航した。

加えて、割譲を求められた美作・備中・伯耆の三国では、毛利氏配下の国人たちが領有地域からの退去に抵抗し、その説得のためには安易な妥協はできなかった。

美作では、毛利氏配下の草刈氏や中村氏が宇喜多勢の侵攻を撃退しており、輝元自身は秀吉との軍事衝突に突入しても互角に戦えると判断していた。

だが、恵瓊は秀吉と戦闘に入った場合、9月16日付の書状では「十に七・八は負ける」と判断しており、輝元に軍事衝突を避けるように説得し続けた。

天正12年1月、秀吉は毛利氏との講和交渉が進まない事に激怒し、明け渡し対象の毛利氏諸城の攻撃を示唆したばかりか、また講和の条件を美作・備中・伯耆の三国の割譲ではなく、当初の美作・備中・伯耆・出雲・備後の5ヶ国割譲に立ち戻ると脅した。

前年10月に輝元は叔父の小早川元総と元春の三男・吉川経言を毛利氏の人質として提出していたが、これは秀吉からすれば毛利氏の一時しのぎとしてみなされていなかった。

このとき、秀吉は徳川家康や織田信雄との関係が悪化しており、輝元が軍を率いて上洛し、背後から毛利勢が襲ってくるのではないかという心配にも駆られていた。

秀吉は毛利氏が参戦するのを恐れ、小牧・長久手の戦いの間もずっと、宇喜多秀家や因幡衆に警戒させていた。

毛利氏もまた、この小牧・長久手の戦いに対してはどちらかと言えば中立的立場であり、積極的な介入は行っていない。

同年11月、秀吉と家康・信雄との講和が成立し、秀吉はさらに強大な勢力を持つようになった。

輝元は秀吉が東海から引き上げて西国へと転向し、毛利氏領国へ侵攻することを恐れるようになった。

また、同年秋には備前・美作での戦闘は終結し、毛利氏配下の国人たちは退去しつつあった。

天正13年(1585年)1月、輝元は秀吉との国境画定に応じ、毛利氏は安芸国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、隠岐国7ヶ国に加え、備中・伯耆両国のそれぞれ西部を領有することとなった。

輝元は祖父以来の領地の多くを認められ、その所領の総石高は120万5,000石となり、徳川家康、織田信雄らと並ぶ大名となった。

こうして、輝元は秀吉と正式に講和し、天正4年から続いた毛利氏と織豊政権の戦闘はようやく終結した(京芸和睦)。

慶長5年(1600年)5月、家康は上杉景勝が上洛を拒否したことを理由に、これを秀頼に対する謀反として、会津へと出兵した。

家康が前年9月に大坂城に入城して以降、豊臣政権は家康が運営しており、輝元も景勝討伐に対して賛同せざるを得なかった。

とはいえ、輝元は景勝ととも石田三成襲撃事件の解決を2人で調整して以降、強く結びついていたと考えられている。

6月16日、家康は諸将を引き連れて会津へと出陣したが、輝元はその直前に広島へと向けて帰国した。

輝元は広家と恵瓊を出陣させたが、恵瓊は三成や大谷吉継と会談し、家康に対する決起を決めた。

7月、遂に三成が挙兵した。

この時、三成は吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。

輝元も恵瓊の説得を受けて、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾する。

そして、輝元は7月12日付の書状で五奉行のうち前田玄以、増田長盛、長束正家から上坂を求められた。

7月15日、輝元は三奉行からの書状を受け取るとすぐ広島を出発し、7月19日には大坂城に入城した。

醍醐寺三宝院門跡・義演の記した日記『義演准后日記』7月19日条よると、その兵力は6万であったという。

それより2日前の17日、秀元は家康が居を置き政務を執っていた大坂城西の丸を占拠しており、城内から家康の留守居役を追い出していた。

大坂の徳川氏勢力の動きを封じ、秀頼を手中に収めることは西軍決起の計画の最重要行動の一つであったが、これは輝元の判断なしで秀元が行える行為ではなく、輝元は17日の時点で在坂していたか、あるいは事前に秀元に対して指示を出していたことになる。

輝元は大坂城に入城後、諸将から西軍の総大将に推挙され、盟主として軍勢の指揮を執っていた。

だが、関ケ原の戦いの終結まで城から出陣することはなかった。

九州に向けては、当時広島城に滞在していた大友吉統を吉統の旧領地である豊後国に派遣した。

大友軍は東軍の黒田家や細川家の九州留守居軍と戦闘を行う。

また、西軍方の毛利吉成(もとは森氏で、輝元の毛利氏とは別族)が伏見城の戦いでの損害により兵力を欠くこともあり、黒田方から防衛するためとして輝元の旧領であった豊前国の吉成領を占領する。

また、蜂須賀至鎮が東軍に参陣したことから、その父・家政の身柄を押さえ、蜂須賀家の領国阿波徳島城を毛利家の軍勢に占領させる。

東軍方で領主不在であった伊予国の加藤嘉明領と藤堂高虎領では、故・小早川隆景の旧臣であった国人を促し蜂起させる。

加藤領には毛利軍が侵攻し交戦した(三津浜夜襲)。藤堂領で蜂起した国人は藤堂家に鎮圧されている。

輝元は秀元と広家、恵瓊を出陣させ、毛利軍は伊勢国安濃津城を攻撃したのち、9月10日に南宮山に着陣した。

一方、同月1日に家康も江戸を出発して西上し、12日に岐阜に到着した。

輝元は大坂城にとどまっている間、家康の西上を阻止するために軍を南宮山に布陣させ、また離反者の情報を懸命に収集した。

西軍の大名には離反のうわさが飛び交っており、輝元は恵瓊からその報告を受けている。

だが、輝元は小早川秀秋が東軍に内通しているという報告も知らされていたが、最後まで対処できなかった。

一方、西軍が負けると判断していた吉川広家は黒田長政を通じて、毛利氏の本領安堵などの交渉を行った。

そして、9月14日には徳川方の本多忠勝や井伊直政が広家や福原広俊に対し、「家康が輝元を疎かにしないこと、領国をすべて安堵すること」を約束した起請文を提出している。

このとき、広家は毛利氏の諸将と協議せず、密約を結んだといわれている。

9月15日、関ケ原で西軍と東軍が激突したが、広家と秀秋の裏切りで西軍は敗北し、戦いは一日で終結した。

南宮山に布陣していた毛利の大軍勢は広家ら吉川軍に抑えられ、福原広俊が秀元の出馬を諫めたりしたため、傍観するほかなく、東軍と一戦も交えずに大坂に撤退した。

退却した毛利勢は輝元のいた大坂城には入らず、大坂市中に駐屯した。

西軍壊滅の報が大坂に届くと、大坂城内の諸将の間では主戦論と講和論が衝突した。

輝元には秀頼を擁して、大坂城に籠城して戦うという選択肢が残されていた。

また、大阪には無傷で帰還した毛利軍や、本戦に参加しなかった軍勢も多数存在した。

一方、家康は輝元に対して、17日に両者の良好な関係を望むとの書状を送り、大坂城からの退去を促した。

輝元もまた、19日に家康に返書を送り、所領安堵に関してどうなるかを聞いている。

9月22日付の起請文では、輝元が所領安堵を条件に、大坂城西の丸からの退去する旨を記している。

そして、9月25日に輝元は所領安堵の起請文を受け取ると、秀元、立花宗茂、島津義弘の主戦論を押し切り、自ら大坂城西の丸から退去し、木津の毛利屋敷に入った。

その後、輝元は四国・九州の毛利勢も順次撤退させている。

[sengoku-3]

元和7年(1621年)11月3日、輝元は松平忠輝の改易や福島正則の減転封等の事例から幕府による改易に備えて、秀就に20箇条に及ぶ長文の訓戒状を送った。

主な内容としては、秀就の行状を戒めて孝行を勧め、毛利家中の者や他家の者、特に将軍や幕府に対する態度こそが肝要と心得て毛利家の存続を図るように求めるものであり、秀就も訓戒状の趣旨を承服し、即日に自筆の返書を出している。

元和9年(1623年)9月10日、江戸から帰国した秀就が萩城に入城すると、輝元は家督譲渡の儀式を行い、正式に秀就へと家督を譲渡した。

このとき、輝元は病気療養中であり、同年の秀忠・家光の上洛に際しては、吉川広正をその名代として派遣した。

この元和9年の家督継承儀式により、対内的にも輝元から秀就への家督継承が完了した。

だが、輝元はその後も毛利氏当主としての権限を一定は行使しており、その死まで輝元と秀就の二頭体制は続いた。

寛永元年(1624年)9月1日以降、輝元は腹中が詰まる病気にかかった。

前年に将軍職を譲って大御所となった徳川秀忠と、将軍・家光は輝元の病状を憂いて、10月2日に江戸在府中の秀元に帰国を許可し、輝元の見舞いと領国の政治の補佐を命じた。

秀就も輝元の病状を心配して、10月4日に国許の繁沢元景、益田元祥、清水景治に対して「秀就と就隆は江戸を離れられないため、ただ気遣いをするのみであるが、輝元の養生について相談した秀元が帰国を許可されたため、ひとまずは安堵している」と述べている。

この時の輝元の病も元和5年に京から帰国した際と同様に、榎本元吉が進上した霊薬によって10月上旬には回復し、食事も元通りとなったが、輝元の体調はこれ以降めっきり衰えることとなった。

寛永2年(1625年)2月、輝元の体調の衰えを心配した秀就は輝元の見舞いのため、児玉元恒を萩に派遣した。

3月10日、児玉元恒が萩へ到着し輝元を見舞うと、輝元は大いに喜んだ。

輝元の見舞いを終えた児玉元恒は再び江戸へと戻った。

しかしその後、輝元は腰に腫物ができるなど病状が悪化し、4月27日酉の刻(午後6時頃)に隠居所である萩の四本松邸で死去した。

享年73(満72歳没)。

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