【時代】 戦国時代
【生誕】 不明
【死没】 元亀3年5月4日(1572年6月14日)
【別名】 柚ノ木崎正家、日州一の槍突き
【官位】 丹後守(受領名)
【主君】 伊東義祐
【氏族】 柚木崎氏
無料の動画を楽しみましょう♪(↓をクリック)
YouTube responded with an error: Permission denied: Consumer 'api_key:AIzaSyCDrKuaF8iycbq8AoHMuLngEmpnFFM7Tq8' has been suspended.
[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
戦国時代の武将。
日向伊東氏の家臣。
内山衆去川役人。
日向国柚木崎城主。
一部史料には柚ノ木崎と表記。
槍の名手であり、「日州(日向国)一の槍突き」と謳われた。
[sengoku-2]元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いに出陣。
釣り野伏せに掛かり敗走する伊東軍の殿となる。
弓矢で20余人を討ち取り、かつ鬼塚原(小林市西小林地区)の、後に粥餅田と呼ばれる地で肥田木玄斎と共に踏み止まり(正家一人のみとする史書もある)奮闘。
しかし、島津義弘目掛けて弓矢を放った際、義弘の愛馬が前脚を突き曲げて正家の攻撃を交わしたため、矢は義弘の甲の箙をやや掠めただけに終わる。
それに激怒した義弘により討ち取られた。
墓は小林市北西方の小林市指定史跡「粥餅田古戦場跡」から少々外れた場所にある(個人所有)。
その後、日向が島津氏の領土となると、義弘は正家の子孫を召し出して御切米6石を与えて家臣とした。
子孫に柚木崎正次がいる。
[sengoku-3]義弘との戦いは諸説あり、待ち伏せて弓で狙らい討とうとしたとの説(「日州木崎原御合戦伝記」他)と、殿による槍同士の一騎討ちだったとする説(「三国名勝図会」他)、島津兵に囲まれて討たれたとする説(「日向纂記」)もある。
また攻撃が外れた後、義弘に降伏を促されたが「二君に仕えず」と断って討たれたとする説(「三国名勝図会」)もあるが、弓を投げ捨てて義弘に恭順すべく平伏したが、策ではないかと警戒した義弘に槍で突き殺されたとする説(「日州木崎原御合戦伝記」他)もある。
その場合、義弘が子孫を召しだしたのは、恭順を示した者を討ち取った自戒の念からとされる。
[sengoku-4]柚木崎正家(最新無料動画を楽しみましょう♪)
[sengoku-sita]