【時代】 室町時代後期(戦国時代)
【生誕】 永正8年3月5日(1511年4月2日)
【死没】 天文19年5月4日(1550年5月20日)
【改名】 亀王丸、義晴
【墓所】 義晴地蔵寺
【官位】 従五位下、正五位下左馬頭、征夷大将軍、従四位下参議、左近衛中将、従三位権大納言、右近衛大将、贈従一位左大臣
【幕府】 室町幕府第12代征夷大将軍
【氏族】 足利氏
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 – 1546年)。
第11代将軍足利義澄の長男。
母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされるが、永俊娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。
これに対して将軍家で御末を務めていた「阿与」という女性が母親であったとする説もあり、母親の身分が低くて記録に残さなかった可能性も高い。
[sengoku-2]西国最大の大名・大内義興に擁された前将軍足利義稙が上洛した煽りを受け、父の義澄は将軍職を解任され近江の六角高頼を頼って落ち延びていた。
その最中の永正8年(1511年)3月5日に、義澄の長男として、亀王丸は近江国蒲生郡水茎岡山城で生まれた。
しかし同年8月14日、父は帰洛を果たせずに同地で死去している。
誕生直後に、亀王丸は義澄派であった播磨守護・赤松義村の元に送られて庇護下で養育された(『高代寺日記』『武家昇譜日記』)。
永正10年(1513年)2月14日には義稙陣営と義澄陣営(実質は亀王丸陣営)の和睦により、義稙の将軍職が確定した。
なお、義晴は義稙の養子になったとする史料もある。
ところが犬猿の仲である備前守護代・浦上村宗への反攻を目論む赤松義村によって、名目上の旗頭に担ぎ出されてしまったばかりか、あろうことか永正18年(1521年)1月には敗戦。
この敗戦の責により義村が強制隠居へ追い込まれたせいで、亀王丸の身柄は浦上氏に渡ってしまった。
永正18年(1521年)3月7日、管領・細川高国と対立した義稙が京都を出奔したことで、同月22日に行われた後柏原天皇の即位式に出仕しなかったために高国が警固の職務を行った。
これによって天皇の信任を失った義稙の放逐を決意した高国によって、友誼を通じる浦上村宗の元にいる亀王丸は代わりの将軍として招かれることになる。
7月6日の上洛では、高国の歓待を受けると、8月29日には内裏へ代始の参賀を行った。
高国の判断を受け入れた朝廷からは、11月25日に右馬頭に任ぜられると、12月24日に亀王丸の元服が行われ義晴と以後名乗る。
翌25日に義晴は第12代将軍に補任された。
とは言え、11歳の義晴には実際の政務を行うには未熟で、細川高国や政所執事(頭人)の伊勢貞忠、飯川国信や大舘常興に代表される義澄を支持していた幕臣(中には義晴と共に播磨に下っていた者もいた)、播磨国に所領を持つ奉公衆三淵晴員の姉で大舘氏の養女ともされる佐子局(後に清光院)(義晴の養育係)らが政務の運営にあたった。
[sengoku-3]将軍としては、側近集団を内談衆として再編成して政権中枢に置くことで自己の親裁権の強化を図り、足利義満以来続けてきた日野家との婚姻関係に代わって近衛家出身の正室を迎えて朝廷との関係強化を図るなど、将軍権威の回復に努めたが、細川氏の内紛をきっかけにした大規模な争乱によって挫折することになった。
ただし、将軍と内談衆の合議による幕政運営はある程度成功し、幕政における役割を失った管領は儀礼的な役職へと低下していくことになった(幕府内及び畿内有数の実力者であった細川京兆家の立場の低下を意味するものでないことに注意)。
生涯に幾度も都を落ち延びた義晴だが、将軍御内書を近国の守護・国人に出すなど巧みな外交戦略を用い、対立将軍候補(義維)の入京を許さなかった。
このため義稙(明応2年、大永元年更迭)や義澄(永正5年更迭)のように将軍を廃されることなく、一貫して将軍職を保持し続けることに成功した。
戦国期の室町将軍であったため合戦に出陣することも多かった。
また城郭の築城や大規模改修をすることも多く、特に如意ヶ嶽に築いた中尾城は威容を誇る「名城」として名高く、普及し始めたばかりの鉄砲対策のため、城の防壁に石や砂利を敷き詰めるよう義晴自ら指示したといわれる(『万松院殿穴太記』)。
[sengoku-4]足利義晴(最新無料動画を楽しみましょう♪)
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