【時代】 戦国時代
【生誕】 永正11年2月12日(1514年3月8日)
【死没】 永禄3年12月24日(1561年1月9日)
【改名】 三郎四郎(幼名)→詮久(初名)→晴久
【別名】 三郎
【官位】 従五位下、修理大夫、民部少輔
【主君】 足利義晴→義輝
【氏族】 宇多源氏佐々木氏流尼子氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代、出雲国の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。

尼子経久の嫡孫に当たる。

山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し中国地方一の大大名となった。

また大内、毛利両軍をよく制した。

八カ国守護とも言われる。

永正11年(1514年)、尼子経久の嫡男・政久の次男として生まれる。

幼名が、父祖たちも用いた又四郎でなく三郎四郎であったのは政久の長男にあたる兄がいたからである(ちなみに晴久の子の義久も同様である)。

しかし、政久の嫡男(跡取り)となる筈であった兄(名乗りは又四郎か)は夭折。

これに伴い次男の三郎四郎が代わって政久の跡目と成る。

さらに本来なら尼子氏の家督を継いでいたはずの父・政久も、永正15年(1518年)の出雲阿用城攻めで陣没。

このため祖父・経久の世子(直接の跡取り)に繰り上がった。

元服後の初名は詮久(あきひさ)と称した。

大永年間には祖父の命を受け、伯耆守護代として伯耆守護の山名澄之を監視する任に付く。

この頃、尼子氏は重臣・亀井秀綱の主導による毛利氏の家督相続への介入に失敗した事で、毛利氏の大内氏への転属を許し、備後国や安芸国への支配力低下を招いていた。

享禄3年(1531年)、叔父・塩冶興久が謀反を起こす。

同年5月28日付の大内氏家臣・陶興房の書状には大内氏が塩冶興久・尼子経久の両者から支援を求められ、最終的には経久を支持していることから、経久の代には大内氏と和睦していたことが判る。

享禄4年(1531年)、塩冶興久に味方した備後山内氏を討伐すべく遠征しており、他にも三沢・多賀・山内氏討伐へと出陣している。享禄5年(1532年)には美作国へ侵攻しこれを確保すると、備前国を攻略する。

天文6年(1537年)、経久の隠居により、家督を継いで当主となった。

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当主となった翌、天文7年(1538年)には、大内領であった石見銀山を攻略し、更には因幡国を平定した後に播磨国へと侵攻して石見・因幡・播磨の守護・赤松晴政に大勝する。

天文8年(1539年)には龍野城を落城させ、播磨国にまでその勢威を拡大した。

この上洛戦は、大友義鑑が画策した将軍・足利義晴の入洛を名目とする大内包囲網の一翼を詮久が担い、更には足利義晴から御内書の発給を求め、それを貰い受けている。

当時、室町幕府は石山本願寺と対立していたこともあり、大内氏・尼子氏等の勢力に救援を兼ねた上洛要請をしていた為、詮久はこれに便乗する形で上洛そのものが目的というより、国人衆の統制を強化すると共に、近隣にその存在感を誇示するための遠征であった。

同時期、詮久は備後国衆である宮氏・渋川氏を従属させ大内氏への圧力を強化している。

安芸国においても、安芸武田氏・吉川氏と連絡を取り、影響力を強める。

天文11年(1542年)には、居城・月山富田城(現:島根県安来市)が大内義隆率いる大内軍の侵攻を受ける(第一次月山富田城の戦い)。

しかし、尼子勢の徹底抗戦により戦いは長引き、大内軍はしだいに疲弊したため、寝返っていた国人衆は動揺し、再び尼子方へと復帰した。

この国人衆の再度の寝返りにより戦況は完全に逆転し、大内軍は撤退を開始したが、混乱の中で大内義隆の養嗣子・大内晴持が事故死し、尼子軍に追撃された小早川正平は戦死、毛利元就も九死に一生を得るほどの損害を受けた。

また、この時には勢いに乗り、失地した石見東部を取り返し佐波氏を大内所領に追放している。

以後、晴久は失った勢力の回復に尽力し、大内氏に与した一族の尼子清久は粛清、出雲国造千家氏は退転、河津氏・宍道氏・神西氏・多賀氏・佐波氏は惣領を追放処分、三沢氏は出雲国横田荘などの領地を削減、直轄化とされた。

また、雲南地域砂鉄の産地や流通を押さえるなどして出雲の支配体制を強化し、本国出雲を中心として、伯耆・美作・隠岐を基盤に、周辺地域へ侵攻し、勢力を更に拡大しようとする。

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弘治3年(1557年)、毛利元就に追い詰められた大内義長が自害する。

大内領の大半が毛利領になると、毛利氏による石見東部への侵攻も激しくなり、永禄元年(1558年)には小笠原長雄の温湯城が攻撃された。

晴久は救援に出陣したが、おりからの豪雨のため江の川が増水して渡れず、永禄2年(1559年)8月には小笠原氏が毛利氏に降伏した。

毛利氏は石見銀山奪取の為に銀山を守る要衝である山吹城を攻撃するも、これを陥落させることができず、その撤退中に城主・本城常光の追撃を受け、敗走している(降露坂の戦い)。

そして、10月には大田より帰陣した。

結局、晴久の存命中に毛利氏は石見銀山を奪取しえなかった。

弘治元年(1555年)から永禄年間にかけては、嫡男・義久を浦上政宗への援軍総大将として播磨国に派遣している。

永禄2年(1560年)には、備中上房郡(現高梁市)にて毛利方国人・三村家親と一戦を交え、これを敗走させた。

永禄3年12月24日(1561年1月9日)、晴久は月山富田城内で急死した。

享年47。

晴久の急死に毛利元就は「一度でいいから旗本同士で戦いたかった。」と言ったという。

晴久の死後、嫡男の義久が継いだ。

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