【時代】 安土桃山時代 – 江戸時代初期
【生誕】 文禄2年(1593年)
【死没】 慶長20年5月6日(1615年6月2日)
【官位】 正四位上・長門守
【主君】 豊臣秀頼
【氏族】 木村氏

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概要 (説明はWikipediaより)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。

豊臣氏の家臣。

知行3千石。

木村重茲の子といわれている。

父と兄の高成は豊臣秀次に仕えていたため秀次事件に連座して自害させられたが、助命された母の宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれる。

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秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席するようになる。

慶長4年(1599年)12月17日、豊臣姓を与えられる。

豊臣家と徳川家康との関係が険悪になると、大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から追い出すのに一役買った。

大坂冬の陣では後藤基次とともに今福砦攻防戦を展開し、徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めた。

真田丸の戦いにも参加する。

また、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞された。

慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。

藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。

その後、敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との戦闘の末に戦死した。井伊家家臣の安藤重勝に討たれたとも、庵原朝昌に討たれたが朝昌はその功を重勝に譲ったともいわれる。

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首実検でその首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあったので、その覚悟を感嘆させたという逸話が残っている。

その後、首は重勝が密かに彦根まで持ち帰り、安藤一族の菩提寺である宗安寺に埋めたとされ、同寺院には木村重成の首塚がある。

大阪方諸将の墓碑の建立は認められていなかったため、重成の遺体は同じく若江の戦いで戦死した山口重信の墓の隣に葬られ、目印として2本の松の木が植えられた。

享保15年(1730年)に重信の墓を訪れた儒家の並河五一は墓碑もない重成の扱われ方を憐れみ、訴願して墓を建立したという。

五一の建立した墓碑は現存していないが、その後150忌にあたる宝暦14年(1764年)に、安藤家の子孫によって幕府公認の墓が建てられた。

現在、墓は第二寝屋川の南側、大阪府八尾市幸町の公園にある。

また、木村重成に由来する地名として東大阪市若江南町1丁目には「若江木村通」という交差点がある。

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