【時代】 戦国時代 – 江戸時代初期
【生誕】 永禄6年(1563年)
【死没】 慶長14年5月3日(1609年6月4日)
【改名】 小法師(幼名)、高次
【別名】 羽柴大津宰相、京極侍従、京極若狭守
【官位】 従三位参議
【主君】 織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠
【氏族】 宇多源氏京極氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から江戸時代初期の武将、大名。

若狭小浜藩の初代藩主。

京極氏は北近江の守護で本来は浅井氏の主筋に当たるが、臣下の浅井氏の下克上を受け、高次はその庇護のもと、浅井の居城内で生まれた。

のちに妹(姉との説もある)・竜子(松の丸(京極)殿)が豊臣秀吉の側室となり、また淀殿の妹の初(常高院)を正室とした。

そのため彼女たちの七光りで出世したとされ、蛍大名と囁かれた。

しかし決して無能な人物ではなく、大津城の戦いでは、居城の大津城に篭もって1万人を超える西軍の軍勢を食い止め、関ヶ原の戦いの主戦場へと向かわせなかった。

戦後、その功により若狭一国を与えられて国持大名となり、弟・高知と並んで京極家を再興し、近世大名家としての礎を固めた。

永禄6年(1563年)、京極高吉と京極マリア(浅井久政の娘。浅井長政の姉)の長男として、浅井氏の居城である近江国の小谷城京極丸で生まれる。

幼名は小法師と称した。

父の高吉は足利義昭に仕えていたが、義昭と織田信長が対立した際に出家し、高次は美濃国へ人質として送られ、幼少期を過ごす。

元亀4年(1573年)7月には宇治の槇島城に篭もる義昭を攻めた信長に従い、近江国奥島5,000石を与えられる。

天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、高次は妹の竜子が嫁いでいた若狭国の武田元明と共に光秀に与し、羽柴秀吉の居城である長浜城を攻めるが、13日の山崎の戦いで光秀は秀吉に討たれ、19日に元明は自害した。

高次は初め美濃国、そして若狭国の武田領へと逃れ、一時は柴田勝家に匿われていたようである(京極家譜)。

秀吉の側室となった妹・竜子の嘆願などにより、高次は許されて秀吉に仕えることとなり、天正12年(1584年)に近江国高島郡2,500石を与えられる。

翌々年には5,000石へと加増された。

さらに同年の九州平定での功により、1万石に加増され、大溝城も与えられて大名となった。

天正15年(1587年)、京極家の旧家臣である浅井家の娘・初(父は浅井長政)を正室とする。

高次と初は従兄妹同士であった。

天正18年(1590年)、小田原征伐の功により近江八幡山城2万8,000石となり、翌年に豊臣秀次が関白に就任すると、従五位下侍従に任ぜられる。

文禄4年(1595年)には近江大津城6万石へと加増され、従四位左近衛少将にも任ぜられた。

大津城は明智光秀の坂本城の後継として秀吉の親族である浅野長政が築いたものである。

滋賀郡にある南西近江の要の城であった。

翌年には羽柴の苗字公称も許され、豊臣姓を下賜され、従三位参議(宰相)に任ぜられる。

この頃の高次の出世は自身の功ではなく、妹や妻の尻の光(閨閥)に拠ったといわれ、高次は陰で蛍大名と囁かれた。

しかし近江国支配を円滑に進めたい豊臣家は、浅井家以前に大名羽柴家の草創地である北近江の代々の領主であった京極家の名望を利用する目的があった。

秀吉が没した後の慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立が深まっていた。

そうした中、会津の上杉景勝を討つべく大坂を発った家康は、翌々日の6月18日に大津城へと立ち寄り、高次は家康から上杉征伐の間のことを頼まれ、弟の京極高知と家臣の山田大炊を家康に伴わせる。

しかし三成も家康を討つべく諸大名を誘っており、高次は氏家行広と朽木元綱から三成の西軍へ属することを求められる。

これに対して家康の東軍からも、再三の書状により大津城の堅守を頼まれる。

高次は大津城の守りが弱いことから一旦は西軍へ属することを決め、大坂へ嫡子の熊麿(京極忠高)を人質として送り、大津城を訪れた三成と面会する。

しかし関ヶ原への出陣に備えつつ、西軍の動向を東軍に伝える。

ただし、御厨義道はこうした高次の行動は家中の親西軍派への配慮や万が一の京極家の生き残りのための策であって、一貫して東軍方として行動としていた解釈すべきとしている。

なお、東軍諸将の間では高次が東軍についていることは7月の段階で広く知られていたが、石田三成ら西軍諸将は高次と豊臣一門との関係から西軍に加わるものと思い込んで高次が籠城を始めるまで東軍についていた事実に気づいていなかった。

9月1日、高次は西軍と共に大津城を発ち、2日には越前国の東野へと至るが、ここから海津を経て船で大津城へと戻る。

3日、城に兵を集め兵糧を運び込み、籠城し西軍を抑える旨を、家康の重臣である井伊直政に伝える。

高次の行動は即大坂へと伝えられ、城近くの逢坂関にいた毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)軍が大津の町へと攻め寄せた。

さらに立花宗茂軍がこれに加わる。

7日、西軍の寄せ手は1万5,000とも3万7,000とも4万とも言われる数に増し、大砲が打ち込まれる。

11日夜、家臣の山田大炊、赤尾伊豆守らは寄せ手に夜襲をかけ戦果を得るが、12日に堀は埋められ、13日には総攻撃を受け、高次自身も応戦するが2ヶ所に槍傷を受け、三の丸、続いて二の丸が落ちる。

14日、和平の使者が送られるが高次は拒否した。

しかし、北政所の使者・孝蔵主を受け、老臣の黒田伊予の説得もあり、高野山の木食応其の仲介のもと夜になって降伏した。

最終的に大津城の陥落は軍事力による制圧ではなく、大坂城からの使者からの説得に高次が応じて降伏、開城したといえる。

高次は一命を助けられ、高野山に上って出家することとなった。

15日朝には城に近い園城寺で剃髪し、70人程の兵と共に宇治へと去り、その後高野山に入った。

一方、開城したその日に関ヶ原の戦いが起こり、西軍の敗北となった。

結局、高次の篭城により足止めされた毛利元康および立花宗茂らの軍勢は移動に時間がかかったため、関ヶ原に参陣することができなかった。

関ヶ原の戦いの後、徳川家康は西軍の軍勢を大津に引きつけて関ヶ原へ向かわせなかった高次の功績を高く評価した。

高次は井伊直政からの使者を受け、早々に高野山を下りるように伝えられる。

初め高次はこれを断ったが、更に山岡道阿弥を送られ、それに弟の高知も加わった説得を受けて下山した。

高次は大坂で家康に会い、若狭一国8万5,000石へ加増転封され、後瀬山城に入る。

慶長5年10月に小浜に入り、翌年には近江国高島郡のうち7,100石が加増される。

大坂の陣を控えた徳川家康の命により、高次は新たに日本海と北川と南川に囲まれた雲浜に、二条城に似た小浜城を築き始めた。

また、後瀬山の麓に残った城跡と武家の屋敷を町屋として街路を整備し、新たな街区を設けるなど、小浜の城下町を整備した。

慶長14年(1609年)5月に47歳で没し、長男・忠高が跡を継いだ。

高野山奥の院には大津城で討死した22名の家臣を供養する石碑が、慶長5年9月13日の日付と共に残っている。

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