【時代】  戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】  永禄元年(1558年)
【死没】 慶長5年10月1日(1600年11月6日)
【別名】 弥九郎(仮名)・如信
【官位】 従五位下、日向守、摂津守
【主君】 宇喜多直家→豊臣秀吉→秀頼
【氏族】 小西氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。

肥後宇土城主。

アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。

当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。

文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。

関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。

自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。

永禄元年(1558年)、和泉国堺の商人・小西隆佐の次男として京都で生まれた。

はじめ備前国福岡の豪商・阿部善定の手代であった源六(後に岡山下之町へ出て呉服商をしていた魚屋九郎右衛門)の養子となり、商売のために度々宇喜多直家の元を訪れていたが、その際に直家に才能を見出されて抜擢されて武士となり、家臣として仕えた。

織田氏の家臣・羽柴秀吉が三木城攻めを行っている際、直家から使者として秀吉の下へ使わされた。この時、秀吉からその才知を気に入られ、臣下となる。

豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いた。

天正13年(1585年)には摂津守に任ぜられ、また豊臣姓を名乗ることを許される。

同年の紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したといわれている。

また一方で、太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も動員して攻撃し、開城のきっかけを作ったともいわれている。

天正13年(1585年)、小豆島で1万石を与えられた。

これに前後して、天正12年(1584年)には高山右近の後押しもあって洗礼を受けキリシタンとなる。

小豆島ではグレゴリオ・デ・セスペデスを招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。

また、天正15年(1587年)のバテレン追放令の際に改易となった右近を島に匿い、秀吉に諫言している。

天正14年(1586年)10月頃より摂津守を名乗り、没するまで摂津守を名乗ることになるが、天正15年(1587年)3月から5月の時期のみ日向守を名乗っている。

天正15年(1587年)の九州平定、天正16年(1588年)の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後国の南半国宇土、益城、八代の三郡20万石あまりを与えられた。

天正17年(1589年)、宇土古城の東の地(現在の熊本県宇土市古城町)に新たな宇土城を築城し、本拠とした。

小丘陵の城山の頂上に本丸、西に二の丸・堀と石垣三の丸を配し、それぞれを堀と石垣で囲んだ近世城郭であった。

鎌倉時代末期に宇土氏によって築かれた宇土古城とともにみると、鶴が翼を広げているように見えたことから「鶴の城」の異名を持つ。

この宇土城普請に従わなかった天草五人衆とは戦になり(天草国人一揆)、これを加藤清正らとともに平定。

天草1万石あまりも所領とした。

秀吉は、後の朝鮮出兵を視野に入れて、水軍を統率する行長を肥後に封じたという。

このころ天草は人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンであり、60人あまりの神父、30の教会が存在したという。

志岐氏の所領である志岐には宣教師の要請によって画家でもあるイタリア人修道士(イルマン)ジョバンニ・ニコラオが派遣され、ニコラオの指導下で聖像学校が営まれ、油絵、水彩画、銅版画が教えられ聖画・聖像の製作、パイプオルガンや時計などの製作が行われていた。

学校は後の文禄3年(1594年)、有馬半島八良尾のセミナリオと合併し、規模を拡大したが、これらイエズス会の活動に行長は援助を与え保護した。

行長の宇土城は水城として優れた機能を持っていたというが、秀吉の意を受け、相良氏統治時代からこの地域の海外貿易の中心地であった八代(徳淵津)にも、麦島城を築城して水利を強化し、重臣の小西行重を城代として配置した。

行長は従来の山頂にあった古麓城を廃して、麦島城を球磨川と八代海に面する河口の島に建て、堀から外水を引きれて浮城としたので、直接、船で出入りできた。

このほか隈庄城、木山城、矢部城、愛藤寺城を支城とし、隈庄城に弟の小西主殿介、愛籐寺城に結城弥平次ら一族重臣を城代に任じている。

また高山右近の旧臣(キリシタン)が多く家臣に取り立てられた。

しかし、残りの肥後北半国を領した清正とは次第に確執を深めることになった。

文禄元年(1592年)からの文禄の役に際しては、行長と加藤清正の両名が年来先鋒となることを希望していたが、秀吉は行長を先鋒として、清正は2番手とした。

出陣に際して秀吉より大黒の馬を贈られている。

戦端が開かれると釜山の攻略を皮切りに、次々と朝鮮軍を破り(釜山鎮の戦い、東莱城の戦い、尚州の戦い、忠州の戦い)、清正に先んじて漢城を占領し、さらに北進を続け平壌の攻略を果たす(大同江の戦い)。

この間、行長は度々朝鮮側に対して交渉による解決を呼び掛けているが、何れも朝鮮側が拒絶または黙殺している。

その後、平壌奪還を図った祖承訓率いる明軍の攻撃を撃退した。

この平壌の戦いでは弟・小西与七郎と従兄弟・小西アントニオ、一門の日比谷アゴストのほかに著名な者の戦死者はなかった。

その後、この明軍に対して講和を呼び掛け、50日間の休戦と講和交渉の同意を取り付けた。

次に朝鮮軍が平壌を攻撃したがこれも撃退する。

行長は休戦期日を過ぎても講和交渉の明側の返答を待ち続けていたが、この間、明では李如松率いる4万余の朝鮮派遣軍を編成し、平壌に向かって進行していた。

文禄2年(1593年)1月に明軍による平壌攻撃が行われると、抗しきれず漢城まで退却する。

同年5月に島津忠辰が仮病を使って出陣を拒否し改易された際には身柄を預かるなど、国内でも活動した。

漢城周辺の日本軍は、進撃してきた明軍を碧蹄館の戦いで破った(このとき行長軍は漢城に駐留)。

その後、戦意を喪失した明軍と兵糧不足に悩む日本軍との間に講和交渉が開始される。

行長は石田三成と共に明との講和交渉に携わり、明側の講和担当者・沈惟敬らと共謀し、秀吉には明が降伏すると偽り、明には秀吉が降伏すると偽って講和を結ぼうとしたといわれる。

この時、行長家臣の内藤如安(明側の史料では小西飛騨)が日本側の使者として明の都・北京に向かった。

この結果、明の使者が秀吉を日本国王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になった。

冊封の内容はアルタン・ハーンのものを先例とし、順化王の王号と金印を授与するものであった(秀吉の王冊封以外にも宇喜多秀家、小西行長、増田長盛、石田三成、大谷吉継ら和平派諸将が大都督、前田利家、徳川家康、上杉景勝らが地方の都督指揮に任じられる)。

これは明の臣下になることを意味するもので、秀吉が求めていた講和条件は何ら含まれないものだった。

これを秀吉に報告する段階で行長は、書を読み上げる西笑承兌に内容をごまかすよう依頼したが、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。

このため講和は破綻し、交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い死を命じられるが、承兌や前田利家、淀殿らのとりなしにより一命を救われる。

慶長2年(1597年)からの慶長の役でも再び出兵を命じられ、特に講和交渉における不忠義の埋め合わせのため武功を立てて罪を償うよう厳命されて朝鮮へ進攻する。

漆川梁海戦で朝鮮水軍を殲滅し、南原の攻略戦(南原城の戦い)に参加後、全州を占領し全羅道方面を制圧した後、順天倭城に在番。

翌慶長3年(1598年)9月末から10月初めにかけて行われた順天倭城の戦いでは、戦いに先立って明将・劉綎から講和が持ちかけられ、行長はこれに応じて交渉に臨もうと城を出たが、これは行長を捕縛しようとする明側の謀略であった。

この謀略は明側の不手際のため寸前のところで窮地を脱し城内に駆け込んで籠城することができた。

続いて明・朝鮮軍による水陸からの攻撃が開始されたが、これを撃退する。

その後、秀吉死去による帰国方針が伝えられ、明軍と交渉して円滑な帰国を認める旨の同意を取り付けた。

しかし、朝鮮水軍の李舜臣の反対で、海上封鎖による帰国妨害が続けられたが、島津義弘等の救援により無事帰国することができた。

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、行長は12月に帰国する。

その後は寺沢広高とともに徳川家康の取次役を勤めるなど、むしろ家康との距離を近づけているが、慶長5年(1600年)の家康による会津征伐に際しては上方への残留を命じられた。

その後に起こった関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応し西軍の将として参戦する。

9月15日の関ヶ原本戦では、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦する。

しかし小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は伊吹山中に逃れた。

9月19日、関ヶ原の庄屋・林蔵主に匿われた。

行長は自らを捕縛して褒美をもらうように林蔵主に薦めたが、林はこれを受けず、竹中重門家臣の伊藤源左衛門・山田杢之丞両名に事情を話し、共々行長を護衛して草津の村越直吉の陣に連れて行った。

10月1日に市中引き回しの後、六条河原において石田三成・安国寺恵瓊と共に斬首された。

その際、行長はキリシタンであったので、浄土門の僧侶によって頭上に経文を置かれることを拒絶し、ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げて三度頭上に戴いた後に首を打たれたと伝えられる。

処刑後、首は徳川方によって三条大橋に晒された。

死に臨んで告解の秘蹟を同じキリシタンであった黒田長政に依頼したが、家康の命もあって断られ、処刑当日も司祭が秘蹟を行おうとしたが、接近を許されなかった。

イエズス会側の史料によると、行長の遺体は教会に引き取られた後で改めて秘蹟を受けてカトリック式で葬れたというが、どこに埋葬されたのかはわかっていない。

教皇クレメンス8世は行長の死を惜しんだと言われる。

行長が亡くなってから7年後の1607年、イタリアのジェノバでは行長を主人公とする音楽劇が作られている。

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