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合戦名 鳴梁海戦
合戦の年月日 慶長2年9月16日(1597年10月26日)
合戦の場所 朝鮮国全羅道鳴梁渡
合戦の結果 右水営を占領し鳴梁海峡を突破
交戦勢力 日本水軍 朝鮮水軍
指導者・指揮官 藤堂高虎、加藤嘉明、脇坂安治、来島通総 李舜臣、金億秋
戦力 7200人 不明

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概要 (説明はWikipediaより)

鳴梁渡海戦ともいい、豊臣秀吉の慶長の役により慶長二年(1597年)9月16日に陸に呼応して西進した日本水軍と朝鮮水軍との間に起こった慶長の役における海戦の一つ。

韓国では鳴梁大捷と呼ばれ、韓国国内では李舜臣率いる少数の朝鮮水軍が日本軍に勝利を収めた戦いとして名高い。

朝鮮水軍は日本水軍の先鋒と戦った後は拠点としていた右水営を失い、それ以上は無理な戦闘を避け唐笥島、於外島、七山島、法聖浦、蝟島を経て戦場からはるか北方の古群山島付近へ撤退した。

文禄の役後、日本と明の間で続けられた和平交渉は決裂し再征が決定された。

慶長2年(1597年)2月に発せられた軍令によると、「全羅道を徹底的に撃滅し、さらに忠清道にも進撃すべきこと」、「これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中心として築城すること」が命じられていた。

日本軍の主力は5月から6月ごろに渡海し、7月15日に漆川梁海戦で朝鮮水軍を大破すると、陸上でも左軍と右軍の二手に編成され全羅道に向かって進撃し、左軍は南原城(南原城の戦い)を8月15日に、右軍は黄石山城を8月16日に陥落させた(黄石山城の戦い)。

続いて両軍が併進して8月19日全羅道の主府全州を占領すると、左右の諸将は一堂に会して会議を行い今後の作戦方針を定めた。

その内容は、三手に分けた全軍をもって忠清道に進攻した後、加藤清正・黒田長政・毛利秀元(35,000人)は直ちに慶尚道に入って加藤・黒田の居城の築城を開始すること。

その他の陸軍(78,700人)は全羅道に戻って未掃討の地を北から南へと掃討してゆくこと。

これに呼応して水軍(7,000余)は全羅道沿岸を進撃する方針が決定した。

日本軍による全羅道掃討作戦は順調に推移し、9月中旬には最終段階に入って残るは全羅道南部のみとなっていた。

当地に存在する明・朝鮮側の戦力は右水営に拠る朝鮮水軍わずか十二、三隻に過ぎなかった。

朝鮮では漆川梁海戦で水軍が壊滅的打撃を受けた後、再び李舜臣を三道水軍統制使に任命していたが、戦力的劣勢は明らかであった。

この状況で日本軍は陸軍が全羅道南部で南進を続け、水軍は沿海を西進し、水陸から鳴梁海峡方面に迫っていた。

慶長2年(1597年)8月下旬、左軍に属した船手衆の藤堂高虎(兵数2,800)、加藤嘉明(2,400)、脇坂安治(1,200)、来島通総(600)、菅達長(200)と目付の毛利高政は全州占領後に艦船へ戻り、全羅道を北から南へと掃討を続ける陸軍に呼応して全羅道の南海岸沿いを西進し、先鋒は9月7日に於蘭浦沖に達する。

碧波津(珍島の東北端の渡し口)に布陣していた李舜臣率いる朝鮮水軍はこれに対するため出撃したが、日本水軍先鋒が戦わずに立ち去ったため、追撃することができないままに碧波津に帰った。

そもそも朝鮮水軍では大船が十二、三隻があるだけであり、戦力的に劣勢だったため、後続の日本水軍の集結を知るとひとまず鳴梁渡に退き、15日さらに右水営沖に移った。

鳴梁渡は珍島と花源半島との間にある海峡であり、潮流が速く大きな渦を巻いている航行の難所である。

藤堂高虎らは敵の大船(本体)が近くにいることを知ってその捕獲を図り、9月16日、水路の危険を考えて全軍のうち関船(中型船)数十隻(朝鮮側記録では百三十余隻)だけを選抜して鳴梁渡へ向かった。

これに対し朝鮮水軍は大船(板屋船)十二、三隻(その他後方に兵力を誇張するために動員された避難民の船百隻があったとされている。)で迎え撃つ。

当初他の船は退いてしまい、一時は李舜臣の船一隻だけが戦う状況となったりもしたが、僚船を恫喝して呼び戻し、戦闘は継続された。

日本水軍では来島通総以下数十人が戦死、藤堂高虎が負傷し、数隻が沈没するなどの損害を受けた。

毛利高政と藤堂の船が敵船に攻めかると朝鮮兵7~8名が海に落ちて水死したものの毛利高政も反撃を受けて海に落ちた。

ここに藤堂水軍の藤堂孫八郎と藤堂勘解由が来援して朝鮮船を撃退し、毛利高政は海中から救助された。

この海戦における朝鮮水軍の損害は軽微であったとされるが、結局のところ衆寡敵せず、夕方になると急速に退却を開始し、その日の内に唐笥島(新安郡岩泰面)まで後退している。

日本水軍は水路に不案内なため、帆を上げて戦場を離脱する朝鮮水軍を追撃することは行わなかったが、翌17日には藤堂高虎・脇坂安治らが前日の戦場を見回り、敵船の皆無を確認する。

実はこの時点で、同日中に朝鮮水軍ははるか遠く於外島(新安郡智島邑)まで退却していた。

これにより朝鮮水軍の撤退した鳴梁海峡は、日本水軍の制圧下に置かれた。

日本軍では8月26日の全州会議で定められた方針に従い、一度忠清道まで進出した陸軍のうち、左軍は全羅道に戻り北から南へと掃討を続けた。

全羅道北部の掃討を完了後、この海戦と同時期に開かれた9月16日の井邑会議では残る全羅道南部の掃討方針が定められ、各大名は任地に向けて進撃した。

全羅道西南部も9月中旬以降日本陸軍部隊が進出するところとなり、朝鮮水軍はそれらの日本陸軍部隊の西岸部進出に圧倒される形で、その後約1ヶ月間北上して逃避せざるを得なくなった。

朝鮮水軍はまともな反撃を行うこともできないままに後退を重ね、9月19日に七山海(霊光郡沖)、9月21日には遥に全羅道北端の古群山島(群山沖)まで後退している。

他方、こうした朝鮮水軍の退却を受けた日本の水軍は、鳴梁海戦の翌日には朝鮮水軍の根拠地であった右水営を攻撃し、また対岸の珍島を攻略した。

さらに鳴梁海峡を突破して全羅道西南岸(現在の全羅南道西岸域)に進出し、ここを陸軍に呼応するかたちで制圧していき、姜沆や鄭希得などの多くの捕虜を得た。

これにより、日本軍の左軍及び水軍は作戦目標であった全羅道全域の掃討作戦を完全に達成した。

同時期に北上を続けた右軍も稷山の戦いで明軍を撃退して忠清道を超え京畿道まで進出し、こちらも作戦目標を達成した。

このため10月に入ると次の作戦目標である城郭群(倭城)の構築のため、陸軍・水軍ともに進出地から、順天、南海、泗川、固城、唐島瀬戸口(見乃梁)、昌原(馬山)、梁山、蔚山、の新規築城予定地又は既成の城郭に移動し築城作業を開始する。

日本軍が去った後の鳴梁海峡では、ようやく10月8日になって朝鮮水軍が帰還するが、朝鮮水軍の根拠地である右水営は日本軍によって破壊された後であった。

李舜臣は根拠地を古今島(莞島郡古今面)に移して朝鮮水軍の再建を図ったが、次に積極的な作戦行動を実施するのは1年以上後の順天城の戦い以降となる。

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