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合戦名 蔚山城の戦い
合戦の年月日 慶長2年12月22日~慶長3年1月4日(1598年1月29日~2月9日)
合戦の場所 朝鮮国慶尚道蔚山
合戦の結果 日本軍の勝利
交戦勢力 明・朝鮮軍 日本(豊臣政権)軍
指導者・指揮官 楊鎬、麻貴、権慄 加藤清正、毛利秀元
戦力 57,000 23,000

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概要 (説明はWikipediaより)

1597年および1598年に慶長の役で明・朝鮮連合軍と日本軍との間で行われた交戦。

文禄の役後、日明の間で続けられた和平交渉は決裂し、再征が決定された。

慶長2年(1597年)の任務として、全羅道・忠清道を成敗すること、これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中心として築城することが命じられていた。

慶長の役が始まると釜山周辺に布陣していた日本の諸軍は、明・朝鮮軍を破って全羅道・忠清道に進撃し、この二道を成敗するという目標を達成する。

そして次の任務である築城を開始するために朝鮮南岸域に帰還した。

釜山周辺には、既に文禄期から倭城群が築かれていたが、新たに築かれる城はその外縁部に位置し、東から、蔚山城、梁山城、昌原(馬山)城、唐島瀬戸口(見乃梁)城、固城城、泗川城、南海城、順天城の八城である。

これら倭城群の最東端にあたる蔚山の地(隣接拠点西生浦倭城の北約15km)には、加藤清正自らが縄張りを行い、慶長2年(1597年)11月中旬から、毛利秀元・浅野幸長・加藤清正の軍勢を中心として、久留の計をめざし本格的に蔚山倭城の築城を始める。

城地に選ばれた島山は蔚山湾の最奥で、南には太和江が流れている。

現在は長年に亘る土砂の堆積と近年の埋め立てにより内陸化しているが、当時は海のすぐ近くに位置しており、城下には兵船を着岸させることができた。

築城を急ぐ日本軍に対し、このころ明・朝鮮では、加藤清正を日本軍中で最強の武将とみなし、蔚山を攻めて清正を捕らえたなら日本全軍の士気をくじくことができると考え、明将楊鎬、麻貴らに率いられた明軍および、都元帥権慄率いる朝鮮軍、合わせて約56,900(うち朝鮮軍12,500人)の兵を建設中の蔚山倭城に差し向けた。

蔚山倭城では、突貫工事の後、40日程で完成が目前になると、築城が担当であった毛利秀元は兵糧・武具類を釜山に輸送し蔚山を退去して帰国の準備に取り掛かっていた。

また加藤清正は西生浦に出張中で蔚山にはおらず、浅野幸長・太田一吉らが城外の仮営に駐屯していた。

そこへ12月22日、明軍の先鋒、擺寨指揮の軽騎兵1000に急襲され、毛利家家臣、冷泉元満、阿曽沼元秀、都野家頼が討ち死にし、仮営が焼き払われた。

当初、浅野幸長らは仮営からの銃声を白鳥狩をしていると思い込んでいたために救援に遅れることになる。

敵の襲来の報が入り浅野幸長、太田一吉が反撃に移るが、擺寨が偽りの退却をし、浅野勢をおびき寄せ、楊登山・李如梅らが三方から合撃したので浅野勢は苦戦に陥った。

460余の戦死者を出し太田一吉も負傷するほどの激戦の後、蔚山城惣構内に撤退して籠城戦が始まる(『清正高麗陣覚書』による籠城兵力は10,000人)。

蔚山城が襲撃を受けたとの報を西生浦で聞いた加藤清正は即座に兵船に座乗して蔚山に帰還、城内に入った。

これより籠城する日本軍は加藤清正の指揮のもと明・朝鮮連合軍を迎え撃つこととなる。23日、未完成であった城の惣構を明・朝鮮軍に突破され660余の戦死者を出した日本軍は、内城に撤退して防衛戦を展開し、この日の日暮れに迫った明・朝鮮軍を撃退した。

12月24日早朝、明・朝鮮軍は四面から蔚山内城を攻撃したが、城を守る日本軍から無数の銃弾を浴び、多数の死傷者を出して退却した。

25日、楊元は朝鮮軍の都元帥権慄を呼び「今日、明軍は休息するが、朝鮮軍は城を攻めよ。」と命令する。

故に権慄は朝鮮軍単独による城攻めを行ったが、日本軍から雨の如く銃弾を浴び、多数の死傷者を出して退却した。

26日は終日風雨だったが雨を冒して進攻し、 27日もまた軍を進めたが、前の如く死傷者を出した。

28日、柴草を集めて、城を火攻めにしようとしたが、明軍と朝鮮軍は甚だ多くの死傷者を出し、城の下に達することさえも出来ずに退却した。

このように明・朝鮮連合軍は、連日攻城戦を展開したが、日本軍の防戦はこれを尽く撥ね退け城を守り通したため、明軍に大きな損害を与え攻撃を頓挫させた。

しかし、城の完成間もなくで兵糧の備蓄も充分でないままの篭城戦により日本軍側は厳しい戦いを強いられることになった。

冬の寒さと飢えとにより倒れる者が続出。落城は時間の問題となる。

29日には、城を明け渡せば和睦するとの使者が明・朝鮮連合軍の陣営から呼びかけられる。

2名の使者は、降倭将の岡本越後守と田原七左衛門であった。

清正は開城には応じる気はなかったが、 捕虜交換の交渉には応じようと、城外で明将との会見に臨もうとしたが、浅野幸長に危険であると諫止された。

しかし、この交渉が結果的に援軍到着までの時間稼ぎになった。

実は蔚山城包囲戦の最中、明・朝鮮軍は日本の援軍が大挙して到来することを恐れていた。

そしてこの恐れは現実のものとなる。

籠城開始から10日後の1月3日、西生浦から毛利秀元・黒田長政らの率いる援軍が蔚山城南方の高地に到着した。

また海上には長宗我部元親らの水軍が到来した。

このため明・朝鮮軍は早急に蔚山城を陥落させる必要に迫られた。

その夜、楊鎬、麻貴は全軍を自ら督戦して最後の攻城戦を開始するが、敵前退却する士率を斬り捨てて、さらに戦意不足の李化龍を捕縛し軍中の見せしめにしなければならない状況であった。

来援を知った蔚山城兵は生気を取り戻して迎撃し、攻めかかる敵兵に雨の如く銃弾を浴びせかけた。

明・朝鮮軍は多くの死傷者を出して、誰一人として抵抗する者がいなくなるほどの損害を被り、最後の攻城戦は失敗した。

翌4日、楊鎬、麻貴は城攻めの失敗と援軍の到来により退路を失うと判断し、擺寨、楊登山、呉惟忠、茅国器の4隊を後衛として逐次慶州へ撤退を開始する。

日本の赴援軍では毛利秀元の陣所より、吉川広家が真っ先に進み出て明軍に向かって突撃し、続いて立花宗茂は吉川隊と連携して側面から追撃し、黒田長政、小早川秀秋ら日本軍総勢が一度に突撃した。そのとき明軍の敗走が始まる。

明軍の内、箭灘を守っていた浙江の歩兵及び騎兵には、楊鎬、麻貴の撤退が伝わっておらず、慌てて転倒しながら逃走をはじめた。

ここにおいて蔚山城の日本兵は山を駆け下り、一気に敵兵を討ち殺した。明軍で歩兵の生還者は多くなく、騎兵の戦死者もまた幾ばくか知れず、甲冑を投棄し身一つで逃走した。

また朝鮮軍からも多くの死傷者が出た。

吉川広家は明軍の一隊の逃走先に進み退路を寸断すると、その方向へ明兵は逃げられなくなり、別方向に逃げた。

その先には池があり、そこへ逃げたところを日本兵が追い詰めて多くの敵兵を討ち取った。

さらに日本軍は敗走する明・朝鮮軍を30里にわたって追撃する。

明軍の戦死者は無数に及び、追撃戦時における戦死者数は、軍中で隠蔽されているため正確には判らないが、或いは3,000とも、或いは4,000とも云われ、その中で参将盧継忠の一軍は後方にあったためほとんど壊滅した。

このとき小早川秀秋は、自ら馬に乗り退却する明・朝鮮連合軍を激しく追撃し、数多くの敵兵を討ち取っている。

中国側の史料である明史によれば、この戦いで明軍は2万人が戦死する大損害を出し、戦いは日本軍の勝利となった。

城廻り敵死骸数の事『浅野家文書』二五五号によると、合戦後の日本側検証で各場所合計10,386人分の敵兵の遺棄死体を確認している。

明軍の指揮官クラスでは、 遊撃楊万金戦死、 千総麻来戦死、 千総周道継戦死、 千総李洞賓戦死、 把総郭安民戦死、 千総王子和戦死、 哨総湯文瓚戦死、 千総銭応太戦死、 張応元戦死、陳観策戦死、 遊撃陳寅負傷、 遊撃陳愚沖負傷、 という損害を出している。

明将楊鎬は日本軍の追撃を恐れ、漢城まで撤退した。

敗北した明軍では退却中に麻貴配下の韃靼兵が略奪を働くなど統制が乱れ、また朝鮮人が日本軍の味方をしたとの情報に接した明軍上層部が不審を抱くこととなった。

明軍を統括する経略の邢玠は1598年2月に結果を戦勝として皇帝に奏上し、万暦帝はこれを「国威、大いに彰わす」と賞賛した。

しかし、邢玠の部下で賛画の丁応泰は戦捷は虚報であり、経理楊鎬、提督麻貴、副総兵李如梅らは多数の兵と武器を喪失し、事実を隠蔽したことを6月に上奏した。

他に遊撃陳寅・周陞からの讒言もあり、万暦帝は激怒して楊鎬を更迭し、天津巡撫万世徳に変えた。

前回の敗戦後、明軍では本国からの増援を得て兵力は約10万となり、慶長3年(1598年)8月、明・朝鮮連合軍は、東路軍、中路軍、西路軍、水軍、の4軍に分かれて南下を開始する。

東路軍は蔚山を、中路軍は泗川を、西路軍と水軍は順天を同時に攻撃する戦略であった。

この内麻貴総兵が指揮する東路軍29,500人(明軍24,000人、朝鮮軍5,514人)は9月21日に慶州を出発。

22日に加藤清正が守備する蔚山倭城を攻撃したが今回は篭城準備がなされており、明軍が城を攻撃しても日本軍の反撃により明軍の被害が増えるばかりで攻略の目処は立たなかった。

麻貴は挑発などを行い日本軍を誘きだそうとしたが、城中の清正は守りを固めて出て来ない。

攻略の目処も立たず、さらに中路軍が泗川の戦いで大敗したとの報告も届いたため、10月6日には蔚山倭城より撤退し、慶州へ帰還した。

『明史』によると、日本軍は偽りの退却をして麻貴の明軍を誘引し、明軍が空塁に入った時、伏兵が起こり明軍は敗北した。

また『乱中雑録』趙慶男によると、9月18日、麻貴が明軍を率いて慶州を出撃。

朝鮮軍の金応瑞が別に東莱へ進撃してから進んで蔚山倭城を攻撃開始し、防柵などを焼いた。

しかし日本軍の攻撃により明軍の被害は計り知れない。

清正は去年の攻撃を戦訓に防戦の準備を重ね、堅く守備を固めていたために明・朝鮮軍は攻めきれずに撤退した。

10月12日、明・朝鮮軍は慶州に到着した。

同じく慶尚道左防禦使の権応銖が都元帥の権慄に送った報告によると「9月19日に麻貴は釜山の日本軍を牽制するために金応瑞が東莱の温井に赴く、翌20日から蔚山倭城を攻撃開始した。明軍は何度も挑戦をしたが、日本軍は守りを固めて出て来ないため明軍の被害は数え切れない。包囲を一旬(約10日間)続けたが攻略の目処が立たないために撤退した」と記述している。

第二次蔚山城の戦いでは加藤清正が守りに徹したため、泗川倭城攻撃し島津義弘の逆襲を受けて潰走した中路軍や、小西行長の順天倭城に水陸から総攻撃を実施した後、兵糧を投棄しながら退却した西路軍と水軍のような混乱を東路軍ではおこすことなく比較的整然と撤退した。

朝鮮王朝実録には、三路の戦い(第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い)において、明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退し、これにより、三路に分かれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたと記述されている。

この戦いに先立つ8月18日、既に豊臣秀吉は死去しており、その死は秘匿されたまま10月15日に帰国命令が発せられ、加藤清正は11月18日に蔚山倭城より撤退を完了して帰国した。

慶州に撤退していた麻貴は日本軍の撤退後の蔚山倭城を接収し、これを自らの戦功として報告した。

このため、明では陳璘、劉綎に続いて3番目に麻貴の功績が評価されている。

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