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合戦名 槇島城の戦い
合戦の年月日 元亀4年(1573年)7月
合戦の場所 二条城、槇島城および淀城
合戦の結果 織田軍の勝利
交戦勢力 織田家 幕府軍
指導者・指揮官 織田信長、細川藤孝、荒木村重 足利義昭、奉公衆、真木島昭光、伊勢貞興、内藤如安、三淵藤英、岩成友通
戦力 70.000 不明

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概要 (説明はWikipediaより)

元亀4年(1573年)2月から7月にかけて行なわれた織田信長と室町幕府第15代将軍足利義昭の戦い。

義昭が敗れて京都から追放され、室町幕府は実質的に滅亡した。

この戦の後の7月28日、元亀から天正への改元が行なわれた。

永禄11年(1568年)9月、織田信長に擁されて上洛し、室町幕府第15代将軍に就任した義昭は当初は信長と協調関係にあったが、将軍権力の抑制を図る信長の一連の動き(永禄12年(1569年)1月に信長が出した殿中御掟等)により次第に信長と対立するようになり、元亀3年(1572年)9月には信長から義昭に17条の意見書が突きつけられ、両者の対立は決定的になる。

『信長公記』によれば、この時期には既に義昭が信長に対し反抗する意思を有していたことは明白になっていたとされている。

信長は和睦交渉を続けつつも、上京と下京への焼き討ちを命じた。

驚愕した京の町衆は焼き討ち中止を懇願し、上京は銀1500枚、下京は銀800枚を信長に差し出した。

信長は下京の市民を気遣い、銀を受け取らずに焼き討ちは中止したが、幕臣や幕府を支持する商人などが多く住居する上京は許さなかった。

4月2日、信長は柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・中川重政・明智光秀・荒木村重・細川藤孝ら7人に7000~8000の軍勢を預け、市外に放火させた。

翌4日には二条城を包囲し、上京に放火した。

信長はそのまま岐阜城には帰らずに近江・百済寺付近へと向かい、近辺の六角義賢が立てこもっていた鯰江城を攻撃した。

信長は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家に命じて六角氏を城に追い詰めると、周囲に砦を築いて包囲した。

このとき「百済寺が鯰江城を支援している」という情報を聞いた信長は、4月11日に百済寺に放火して全焼させると、その日のうちに帰還して岐阜城に到着した。

翌日の12日、武田信玄が信濃駒場で病死、信玄の死は伏せられていたが、武田軍は本国の甲斐に退却帰還した。

4月13日、義昭は二条城は安全でないと考え、自身は内藤貞勝の丹波の城(八木城)に移り、内藤如安を二条城に入れようと考えた。

如安は「軽々しく動くことは怯懦」で義昭の評判を傷つけると意見し、一方で再び信長を敵とするべきではないと進言。

義昭はこの意見を受け入れず真木島昭光の槇島城に移ろうとしたが、如安が説得して取りやめになった。

5月22日、信長は「義昭が再び挙兵した際には瀬田のあたりで道を塞ぐ」と予想し、大軍を湖上輸送するため、佐和山で大船の建造を開始した。

全長30間×幅7間(約54m×約12m)、艪が100挺、船首と船尾に櫓(やぐら)を備えた頑丈な船、という日本史上にも過去に例を見ないほどの巨船であった。

信長が大工の岡部又右衛門を棟梁に任命し、自身も佐和山に滞在した。

7月3日、義昭は勅命を破棄して再度挙兵し、二条城に三淵藤英(細川藤孝の異母兄)、伊勢貞興らの他日野輝資、高倉永相などの武家昵近衆を入れて守らせ、自らは槇島城に立て籠もった。

対する信長は5日に大船が完成した機会を捉え、翌6日に大船で琵琶湖を渡って坂本城に入り、7日には京・妙覚寺に布陣して二条城を包囲。

翌8日には信長の勢威を恐れて三淵藤英を除く武将や公家衆は皆退城してしまい、藤英のみが立て籠もっていた。

しかし、10日藤英は柴田勝家の説得を受け入れ、二条城を開城した。

7月16日、信長は続いて槙島城へ進軍し、五ケ庄の柳山に布陣。眼前を流れる宇治川の水量はかなりのものだったが、信長は「引き伸ばすようなら自分が先陣を切る」と言い、宇治川の戦いの先例にならって二手に分かれて河を渡ることと決めた。

7月18日午前10時頃、織田軍は作戦通りに川を渡ると、しばし休息し、槙島城のある南向きに隊列を整えた。

城から足軽が出てきたが、佐久間信盛・蜂屋頼隆らがこれを50ほど討ち取り、織田軍は城を包囲した。

城は壁を破られて放火され、義昭は嫡男の義尋を人質として差し出して降伏した。

しかし、勝者である信長は敗者である義昭を殺害したり、将軍であるその地位を剥奪したりはしなかった。

信長は「将軍殺し」の汚名を着ることを嫌った、などの説がある。

信長は「怨みに恩で報いる」と言ったとされるが、20日、羽柴秀吉に命じ、義昭を妹婿である三好義継の居城・河内若江城に送り届けさせた。

現在の歴史学では、この際に室町幕府は(実質的に)滅亡した、と解釈されることが多い(但し前述の通り、義昭自身はなおも征夷大将軍の地位にあり、従三位の位階すらも保ったままであった)。

11月16日に若江城の戦いで義継が信長に討たれた後、義昭は僅かな近臣と共に堺、次いで紀伊へと流浪・亡命し、後に毛利輝元を頼って備後鞆(鞆幕府)にまで落ち延びることとなる。

この後、信長は8月に淀城で三好三人衆の1人岩成友通を討ち取り(第二次淀古城の戦い)、越前に出陣して朝倉義景を討ち取り(一乗谷城の戦い)、直後に北近江へ向かい浅井長政も自害させた(小谷城の戦い)。

武田信玄は死亡し武田軍は撤退、三好三人衆の残る2人三好長逸、三好政康は行方不明、松永久秀、本願寺の総帥たる顕如は信長と和睦し、ここに信長包囲網は瓦解した。

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