【時代】 戦国時代から安土桃山時代
【生誕】 永正10年3月17日(1513年4月22日)
【死没】 天正13年9月11日(1585年11月2日)
【改名】 八幡丸、孫次郎(幼名)、戸次親守→親廉→鑑連→道雪
【別名】 親守、親廉、通称:伯耆守、紀伊入道、丹後入道、摂津入道、号:麟伯軒道雪、渾名:鬼道雪、雷神
【官位】 左衛門大夫、紀伊守、伯耆守、丹後守
【主君】 大友義鑑→宗麟
【氏族】 藤原北家秀郷流大友氏族(戸次氏、立花氏)
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
豊後の戦国大名・大友氏の家臣。
臼杵鑑速や吉弘鑑理らと共に大友家の三宿老に数えられた。
大友義鑑・大友義鎮の2代に仕えた大友家の宿将で、北九州各地を転戦し、その勇猛は諸国に知られて恐れられた。
本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。
永正10年(1513年)3月17日、大友家の一族である豊後国大野郡(大野荘)大野郷藤北(大分県豊後大野市大野町)の鎧岳城主・戸次親家の次男として生まれる。
最近、生誕地は、県民の森四辻峠付近の柳ヶ台(大野町高野字城浦)と解明された。
幼名は八幡丸(はちまんまる)。
長兄は早世したため嫡男として育てられる。
幼くして母を失い、父も病床にあったために代わりに継母(父の後妻で臼杵鑑速の姉)によって育てられた。
元服前の14歳の時、病弱な父に「我が父上の名代として出陣致す」と自ら志願し、武功の老臣3人の補佐を付けて、2,000人の兵を授けられて初陣した。
この時は大内領の豊前馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市)を攻め、八幡丸は金の指揮旗を振って奮戦し、兵力で3,000ほど勝る大内軍に勝利して凱旋した。
その直後の大永6年(1526年)、父・親家の死にともない、元服して戸次氏の家督を相続し、親守(ちかもり)、親廉(ちかかど)を名乗った。
家督相続後は大友義鑑に仕え、のちにその偏諱を賜って鑑連に改名する。
その後、天文4年(1535年)8月22日、肥後菊池氏などの肥後国人の反乱の際には、肥後国に出陣して車返の戦いで勇猛奮戦し、乱を鎮圧した。
天文15年(1546年)の秋月文種の一度目の謀反の時には、大友義鑑の命令を受け、佐伯惟教、臼杵鑑速、吉弘鑑理など大友諸将と共に筑前古処山城へ出陣、この乱も鎮圧した。
天文19年(1550年)2月、大友義鑑が嫡男・義鎮を廃嫡にし、三男・塩市丸を後継者としようとしたことから、反発した義鎮派の家臣、田口蔵人介と津久見美作守が義鑑を襲撃するという二階崩れの変が発生、数日後に義鑑は変で受けた傷がもとになって死去する。
この際、鑑連は義鎮を支持し、彼の家督相続に力を尽くした。
また、鑑連は二階崩れの変の直後に阿蘇氏を頼って肥後国に逐電した塩市丸派の入田親誠を追討する、そして7月13~8月に肥後に菊池義武を討伐し、隈本城を攻め落とした。
天文22年(1553年)、41歳となった鑑連は異母弟・鑑方の子・鎮連を養子に迎え、戸次氏の家督を譲って隠居している。
しかし、天文23年(1554年)には、相良氏への護送の最中に菊池義武を豊後直入郡で自害させるや弘治2年(1556年)5月には小原鑑元、本庄新左衛門尉統綱、中村新兵衛長直(名は鎮信とも)、賀来紀伊守惟重らが謀反を起こす(姓氏対立事件)に対してこれらを肥後、豊後で討伐するなど、前線での活動から退いた形跡はない。
[sengoku-2]以後も大友氏の重臣として活躍し、特に筑前や豊前の侵攻を企図する毛利氏との抗争に力を費やしている。
弘治3年(1557年)には毛利元就と通じた秋月文種を自害に追い込み、同年に義鎮の異母弟・大内義長が元就に討たれると、旧大内領の確保にも努めたほか、永禄3年(1560年)8月16日~19日、筑前の豪族宗像氏貞に対して許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城に数度の侵攻や永禄年間には豊前に出陣して、度々大里・柳ヶ浦・松山城や香春岳城、門司城などの地で毛利元就の軍勢と戦っている(門司城の戦い)。
こうした功績から永禄4年(1561年)に義鎮の補佐役である加判衆と筑後国方分・守護代に任じられている。
永禄5年(1562年)、尼子義久の要請を受けた大友宗麟は再度豊前出兵を命じ、二老(戸次鑑連・吉弘鑑理)と7人の国衆を派遣した。
7月、大友軍は再び香春岳城を攻め落とし、原田親種[注釈 4]を追い出せて、城将・千手宗元を降伏する。
13日、鑑連は門司城へ進軍し、第二次柳ヶ浦の戦いに鑑連の家臣・由布惟信が一番槍の戦功を挙げ、その騎馬疾駆や縦横馳突の活躍ぶりを敵味方とも驚かせたものの、翌14日には門司城を攻め落とすことはできず、毛利勢の小原隆言や桑原龍秋ら漕渡の防戦により撃退された。
さらに毛利軍の手に落ち天野隆重と杉重良を守る松山城の奪還を目指し豊前刈田に着陣、9月1日上毛郡夜戦・13日や11月19日七度の松山城攻めにも鑑連・鑑理ら大友勢が攻撃を仕かけてきたが小競り合いに終始した。
松山城を包囲する間に鑑連・鑑理ら大友軍は再び門司城下まで転戦進撃し、10月13日夜昼、大里において第三次柳ヶ浦の戦いに鑑連の家臣・安東常治や安東連善ら鑑連に従って奮戦ぶりなので、門司城代・冷泉元豊・赤川元徳・桂元親三将を討ち取る大戦果を挙げたが、11月26日にも、終日門司城下で合戦があり、数百人の負傷者・死者を出した。
翌永禄6年(1563年)正月、毛利隆元と小早川隆景の大軍が到着して、両軍にらみ合いとなった。
同年、義鎮が剃髪したのにならって自身も剃髪し、麟伯軒道雪と号している。
道雪を中心とする大友勢と毛利氏との戦いは永禄6年(1563年)、室町幕府第13代将軍・足利義輝は、大友家に久我通堅と聖護院道増と大館晴光を通じて代々将軍家陪臣出身の戸次氏・道雪に対して御内書を下していて、道雪が宗麟に対して意見を具申すべき極めて枢要な立場であった。
これで大友宿老衆の筆頭として足利幕府からの信頼が厚く、政治面の才能も発揮した。
この仲介により、一度大友氏と毛利氏の間で休戦が永禄7年(1564年)7月に成立するまで続いた。
だが、この間に3月25日、道雪が由布惟明らの家臣を率いて、大友軍と毛利軍と第四次柳ヶ浦の戦いがあった。
永禄10年(1567年)1月、かつて道雪が討った秋月文種の子・秋月種実が毛利氏の援助を得てひそかに筑前国に入り、秋月氏再興の兵を起こした。
この種実の動きに大友氏の重臣・高橋鑑種が6月に入って筑前宝満城、岩屋城に拠って呼応し、更に筑後国衆・筑紫広門も叛旗を翻した。
こうした動きに対して7月7日、宗麟は道雪に命じて高橋氏、秋月氏討伐を開始することになる。
道雪は出陣すると宝満城を攻略し(宝満城・九嶺の戦い)、臼杵鑑速は岩屋城を攻め落とし、また斎藤鎮実が筑紫広門を降伏させるなど有利に戦いを進めた。
しかし、8月に入って高橋氏の宝満城に抑えの兵を残し、秋月氏討伐を企図したものの、秋月勢の頑強な抵抗を受け、8月14日の甘水・長谷山の戦い(瓜生野の戦いとも)で自ら陣頭に立って太刀を振るい、よき武者7人を斬り倒し、騎馬で敵陣に乗り込んで戦ったほか、毛利軍が筑前国に上陸したとの風聞で、大友軍が筑後国に退陣して待機する際、9月3日の朝から4日未明に発生した休松の戦いでは、種実が先に道雪の陣を強襲したが、これを事前に察知していた道雪は、兵を吉光の地に伏せあらかじめ囮の旗を立てた空の陣に種実を誘き出して撃退した。
そして種実の夜襲を予見して、兵の鎧を脱がせず、馬の鞍もおろさず、鉄砲の火繩に火を付けて待った。
間もなく種実は道雪の予見通り、再び大友軍の臼杵鑑速と吉弘鑑理を夜襲して同士討ちを発生させた、道雪は冷静にこれに対処し、臼杵・吉弘軍を収容した後に撤退を指揮したが、叔父・戸次親久、異母弟の戸次鑑方や従兄弟の戸次鑑比(鑑方と鑑比は同じ鑑堅の名があった)、従叔父・戸次親繁、戸次親宗や譜代家臣の十時惟忠、由布惟清、綿貫吉廉と与力衆の小野鑑幸(小野鎮幸の父)、三池親高など数人を失った。
こうした大友方の苦戦を目の当たりにした筑前国衆からは9月以降、原田隆種や宗像氏貞などの離反者が相次ぐことになった。
特に筑前国の大友方の重要拠点である立花山城主・立花鑑載が毛利元就の調略に応じて叛旗を翻したことで立花山城が毛利方の手に落ち、肥前国の龍造寺隆信も大友氏との対決姿勢を強め、筑前戦線は崩壊の危機に立たされた。
道雪はこうした危機的な状況の中、立花山城を奪還することで戦局を好転させようとし、永禄11年(1568年)の4月24日から立花山城を包囲し、3ヶ月にわたる攻城戦の結果、7月4日に立花山崖下で激戦、そして道雪が立花方の野田右衛門大夫を調略して、遂に23日、立花山城は陥落、立花鑑載が自害した。
その後、同日に高橋鑑種との宇美・河内の戦い、8月2日の毛利軍の清水宗知、高橋家臣・衛藤尾張守、原田親種の連合軍との立花山城下での戦い、8月5日に原田隆種、親種父子や原田親秀との第一次生松原の戦いなど、度々の激戦の末に筑前国の反大友勢力を一掃する。
8月19日、孤立を深めた秋月氏、宗像氏、城井氏、長野氏、千手氏、麻生氏は降伏している。
これにより筑前戦線は小康状態となって、11月25日、筑後赤司城に入った道雪は、大友軍のために忠死した問註所鑑豊の娘、仁志姫と結婚する。
永禄12年(1569年)1月、大友軍5万は龍造寺隆信の討伐に転進、吉弘鑑理や道雪は隆信の降伏を拒絶し、3月23日に神崎郡防戦の後、江上武種の勢福寺城を攻め落とし、4月6日に吉弘鑑理も多布施口の戦いで龍造寺軍を撃破したが、4月15日に隆信の要請により立花山城を奪還すべく吉川元春、小早川隆景率いる毛利勢が筑前に来襲したため、4月17日に道雪が肥後国の城親冬を使者として龍造寺隆信との議和を成立させ、大友軍は5月5日に博多に集結し、翌日には道雪は田尻鑑種と共に多々良浜の戦いの前哨戦で、自ら槍を提げ敵を討ち取った。
5月13日、両軍は多々良川辺の松原にて4回交戦して大友勢の苦戦は続くことになる。
18日に発生した最大の合戦では道雪自ら陣頭に立って先に鉄砲800挺を2隊に分けられ、自分が発案した「早込」(「早合」ともいう。
1発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫)を用いて二段射撃して後は槍隊を繰り出して突進、続いて自分が率いて騎馬隊は馬を乗出し敵の中へ縦横に突て廻りける「長尾懸かり」というかけ合い戦法で毛利方の主力である小早川勢を撃破したが、その後21日・26日なども大小合わせて18回の合戦に及んだ。閏5月3日に立花山城の兵糧が尽きかけていたため、城にいる大友方の守将達は大友宗麟の同意を得て開城、毛利軍が占領した、この戦況になっても両軍の戦線は膠着することになった。
こうした中、主君・宗麟は吉岡長増の献策を容れ、大内一族である大内輝弘を周防国に送り込んで大内氏再興を図らせた。
大内旧臣を糾合した輝弘は毛利方の周防における重要拠点である高嶺城を脅かし(大内輝弘の乱)、また山中幸盛が尼子氏再興の為、尼子勝久を奉じて隠岐国より出雲国へ侵攻したことにより、毛利氏は戦線を維持できなくなり、11月になって撤退し、10年以上に渡った毛利氏と大友氏の筑前争奪戦はようやく終わりを告げた。
元亀元年(1570年)、再び龍造寺隆信討伐のため今山の戦いにも従軍し、4月23日、佐賀城を包囲する間に巨勢・若宮の戦いで龍造寺隆信、鍋島直茂と交戦した。
この戦で記録上、初めて道雪は輿に乗って戦っている。
こうして道雪は大友方の主将として戦い抜いた功績により、元亀2年(1571年)、筑前国守護代に就任して、立花家の名跡を継承し、立花山城主となっている。
なお、この時から道雪は筑前の軍権を握ることになり、加判衆を辞任している。
その後、岩屋・宝満城主の高橋紹運など大友の筑前五城将(道雪、紹運と鷲ヶ岳城主・大鶴鎮正(宗雲)、荒平城主・小田部鎮元(紹叱)、柑子岳城主先後に臼杵鎮続、木付鑑実)と共に筑前において数年間、秋月種実、筑紫広門、原田隆種、原田鑑尚(大鶴鎮正の三男)、龍造寺隆信、宗像氏貞、麻生元重、杉連並、問註所鑑景など筑前、筑後、肥前諸勢力に対して数々の戦を繰り返した。
[sengoku-3]天正3年(1575年)、宗麟の命令で戸次氏の家督を継いでいた甥・鎮連の子・統連に立花氏の家督を譲るように迫られたが、道雪は拒絶して重臣の薦野増時を養子に迎えようとした。
しかし、増時が養子となることを辞退したため、道雪はただ1人の愛娘である誾千代に家督を譲り、立花山城主としている。
天正9年(1581年)、同じ大友氏の一族・家臣であり、道雪と同じく高橋氏の名跡を継いでいた高橋紹運の子・統虎を婿養子に迎え、家督を譲っている。
天正6年(1578年)、大友宗麟は島津氏討伐を企図し始める。
道雪はこの方針に反対していたが、宗麟は日向侵攻を強行した。
この際、道雪は従軍していなかった。
この日向侵攻により発生した耳川の戦いで大友勢は大敗を喫し、宗麟の参謀役であった角隈石宗や重臣の吉弘鎮信、斎藤鎮実、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将を失っている。
これにより、大友家の勢力は大いに衰えることになった。
この大敗を知った際、道雪は宗麟とその嫡子の大友義統、そしてこの合戦を指揮した重臣を痛烈に批判した。
以後、大友氏は島津氏に対して守勢に回ることになる。
この不利な情勢下で道雪は家臣の離反が相次ぐ大友氏に忠誠を尽くし、高橋紹運とともに島津氏と戦い続けることになった。
天正7年(1579年)には宗像氏・麻生氏・原田氏の反乱を鎮圧した。
天正8年(1580年)には豊後南郡衆の裏切りを憂慮して9か条の檄文を出している。
天正8年(1580年)秋、龍造寺氏の筑前遠征が始まり、大友方の荒平城が攻め落とされる。
道雪の居城、立花城攻めが計画される中、筑紫広門の仲介により道雪は龍造寺氏と和睦する。
筑前15郡を二つに分け、東北6郡を大友領、西南9郡を龍造寺領と定めた(別資料では大友方城、立花岩屋宝満の城付を除いて、全て龍造寺領と定められたともある)。
天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、島津方の圧力が強まる中、道雪は高橋紹運や朽網鑑康と共に筑後を守るべく戦っていた。
3月、豊後国の大友軍は黒木家永の筑後猫尾城を攻撃したが、城方の奮戦や龍造寺方の援軍・土肥家実(土肥出雲守)を前に戦線は膠着した。
8月18日、道雪と紹運は大友義統の出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、勇ましい強行軍の態勢で敵領地の筑後川や道路が未整備の鷹取山、耳納連山の高峰や九十九折など山険難所を越え、鉄砲隊で埋伏していた秋月、筑紫、草野、星野連合軍を蹴散らし(田主丸町・片瀬、恵利渡口・石垣表の戦い)、ただ1日で筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程を走って、8月19日夕方、猫尾城の支城・高牟礼城下に到着した。
道雪はさっそく城将・椿原氏部を調略し、24日に高牟礼城は開城降服して、土肥家実も城から逃れ去った。
つづいて犬尾城の川崎重高(一説には河崎鎮堯)も降り、25日には川崎の権現山に陣替えしたが、筑後高良山座主・丹波良寛や大祝保真、宗崎孝直、甘木家長、稲員安守らも大友軍に加わった。
28日には道雪が一族の立花鎮実(戸次右衛門大夫)を将として800兵の別働隊を率いて坂東寺に入って城島城を攻めて、立花勢は鎮実以下、竹迫鑑種(竹迫日向守)と安倍親常(安倍六弥太)は勇戦して数人を討ち取って城の外郭を焼きしたが、城主西牟田家親と西牟田家和兄弟と城兵300騎の激しい抵抗に遭い、そこへ龍造寺政家の援兵が到着したので、百余りの死傷者を出した。
道雪と紹運の本隊は酒見・榎津・貝津などの集落を焼き払って、ついに大友諸将と軍議をひらいて猫尾城の総攻撃を決めて、9月5日に落城させた。
9月8日から11日まで、蒲池鎮運の山下城や谷川城、辺春城、兼松城、山崎城など筑後諸城を降伏、攻落した。
この間にもう一度坂東寺に陣を取り、豊後大友軍の総大将・田原親家と軍議して三潴郡の西牟田村・酒見村・榎津近辺数百の民家を焼き払い、9日に柳川城周辺の山門郡内の龍造寺方の諸城を攻めて、10日に上瀬高・下瀬高・鷹尾村を焼き払って、城主・田尻鑑種が不在であった鷹尾城も占領した。
龍造寺家晴の柳川城は九州有数の難攻の水城であり、その支城、百武賢兼の妻・圓久尼が鎮守する蒲船津・百武城も同じ水路が入りくみ沼地が自然の要害となっていた難攻の城で、さすがの道雪、紹運も攻略の進展ができなかった。
そのため、10月3日には筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあって、高良山に引揚げ、軍勢を転じて久留米城、安武城、吉木竹井城を攻落した。
10月4日、両軍は草野鎮永の発心岳城を進攻し、10月28日(一説には12月8日)には鎮永偽降の謀で、善導寺の戦いに数人の重臣を失った。
のち星野吉実の鷹取城・福丸城・星野城、そして11月14日に問註所康純の井上城を攻めて、秋月領の甘木辺りまで焼き討ちした。
その際、田原親家は両将の戦功を嫉み、更に年の暮れが迫っていたので、豊後に引揚げた。
残された道雪、紹運や朽網鑑康、志賀親守らは、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える。
天正13年(1585年)2月上旬から4月23日まで龍造寺政家、龍造寺家晴、鍋島直茂、後藤家信、筑紫広門、波多親、草野鎮永、星野吉実、秋月種実、問註所鑑景、城井鎮房、長野種信など肥前、筑前、筑後、豊前連合軍およそ30,000余の大軍と小森野、十三部、祇園原など(総じて筒川合戦や久留米合戦)で数々の激戦があったが、道雪と紹運、鑑康、良寬ら大友軍は9,800の劣勢ながら、いずれも見事で兵法、戦術や兵器、陣形を活用してしばしば局地戦で敵大軍を撃破したが、のち道雪は老衰で発病のため、龍造寺側に決定的な打撃を与えることができなかった。
6月、柳川城攻めの最中に道雪は高良山の陣中にて病を得た。
高良大社(現在の福岡県久留米市)で病気平癒の祈願が行なわれ、行動を共にしていた高橋紹運も必死に看病した。
しかし道雪は9月11日に病死した。
享年73。
辞世は「異方(ことかた)に、心引くなよ、豊国(とよくに)の、鉄(かね)の弓末(ゆずえ)に、世はなりぬとも」。
10月28日に大友義統が道雪の妻に与えた書状は、道雪を悼むとともに、生前の忠節を顕彰し、かつその後室を慰めたものである。
道雪の留守を預かってその後方支援を続けた永年の苦労をねぎらったものとして意義深いといえる。
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