合戦名 | 刀伊の入寇 | |
合戦の年月日 | 寛仁3年(1019年) | |
合戦の場所 | 筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸 | |
合戦の結果 | 女真族(満洲民族)の撃退 | |
交戦勢力 | 藤原隆家など | 女真族(満洲民族) |
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。
刀伊の来寇ともいう。
9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸であった。
刀伊に連行された対馬判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい、脱出後に連れ去られた家族の安否を心配してひそかに高麗に渡り情報を得た。
長嶺諸近が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこと、また日本人捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺諸近の家族の多くは殺害されていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったことなどの情報を得た。
権大納言の藤原実資は「賊は高麗人がウソをついて刀伊人であるとしているのではないか」との見解を示した(小右記)。
「刀伊の入寇」の主力は女真族であったと考えられている。
女真族とは、12世紀に金を、後の17世紀には満洲族として後金を経て清を建国する民族である。
近年の発掘によると、10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクおよびからその北側にかけての沿海州の日本海沿岸部には女真族の一派が進出していた時期で、女真系の人々はアムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事していたものと考えられている。
10世紀前後に資料に現れる東丹国や熟女直の母体となった人々で、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った女真族と思われる集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであったと考えられる。
13世紀初頭に蒲鮮万奴は中国東北部に大真国を建てたが、これら日本海沿岸部に進出していた女真族たちもこれに加わっており、この時期にウラジオストク周辺や沿海州周辺の日本海側には多数の山城が建設された。
しかし、日本海側沿岸部に進出した山城群は1220年代にモンゴル帝国軍によってことごとく陥落したようで、近年の発掘報告によれば13, 14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構はその後使用された形跡がほとんど確認できず、これによって日本海沿岸部に進出していた女真グループは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われる。
替わってモンゴル帝国に早期に従属したアムール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフトしたものと思われる。
また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していたことが知られているが、これに反して元朝側の資料でアムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようである。
この認識の差異も内陸のアムール水系への交易路のシフトが大きく原因していることが推測されている。
[sengoku-2]926年に契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。
当時の東北部にいた靺鞨・女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。
10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまった。
女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。
1005年に高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。
1019年に北九州に到達・襲撃するようになったいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の人々の活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体の情勢の変化によってもたらされたものと考えられる。
しかし、当時の女真族の一部は高麗へ朝貢しており、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行うことはほとんど前例がなく、日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて高麗人だったことから、権大納言源俊賢は、女真族が高麗に朝貢しているとすれば、高麗の治下にあることになり、高麗の取り締まり責任が問われるべきであると主張した。
また『小右記』でも海賊の中に新羅人が居たと述べている。
[sengoku-3]寛仁3年3月27日(ユリウス暦1019年5月4日)、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火、略奪を繰り返した。
対馬の被害は36人が殺され、346人が拉致されている。
この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。
賊徒は続いて、壱岐を襲撃。
老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。
賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。
藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。
これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。
そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。
その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。
この時、嶋分寺は全焼した。
島民148名が虐殺され、女性239人が拉致。
生存者はわずか35名。
その後、刀伊勢は筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、4月9日には博多を襲った。
博多には警固所と呼ばれる防御施設があり、この一体の要衝であった。
刀伊勢は警固所を焼こうとするものの、大宰権帥藤原隆家と大蔵種材らによって撃退された。
博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日(5月20日)に肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した。
藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行った。
『小右記』には、長嶺諸近と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女と多治比阿古見が大宰府に提出した報告書の内容が記されており、それによると、高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じたという。
しかし賊は高麗の水軍に撃退された。
このとき、拉致された日本人約300人が高麗に保護され、日本に送還された。
虜囚内蔵石女と多治比阿古見は、高麗軍が刀伊の賊船を襲撃した時、賊によって海に放り込まれ高麗軍に救助された。
金海府で白布の衣服を支給され、銀器で食事を給されるなど、手厚くもてなされて帰国した。
しかし、こうした厚遇も、却って日本側に警戒心を抱かせることとなった。
『小右記』では、「刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと判ったとしても、新羅は元敵国であり、国号を改めたと雖もなお野心の残っている疑いは残る。
たとえ捕虜を送って来てくれたとしても、悦びと為すべきではない。
勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、渡航禁止の制が崩れるかも知れない」と、無書無牒による渡航を戒める大宰府の報告書を引用している。
日本は宋との関係が良好になっていたため、外国の脅威をあまり感じなくなっていたようである。
日本と契丹(遼)はのちのちまでほとんど交流がなく、密航者は厳しく罰せられた。
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