【時代】 戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】 不明
【死没】 天正12年(1584年)
【別名】 家房、家景、左馬介、但馬入道
【官位】 但馬守
【主君】 龍造寺氏
【氏族】 納富氏
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
龍造寺氏の家臣。
納富氏は、伊勢平氏(別名:桓武平氏)を祖とする伊勢から肥前国に移り住んだ武士の一族に由来する。
伊勢平氏(別名:桓武平氏)である納富氏は、壇ノ浦の戦い(1185年)など平家没落に際し、伊勢から船で筑前国姪浜に(現在の福岡市西区姪浜)上陸し、その後、山を超え、肥前国小城一帯に移り住んだ。
[sengoku-2]龍造寺宗家(村中龍造寺氏)当主・龍造寺胤栄の重臣であった納富栄房の子として誕生。
初めは、別名として伝わる家房、家景を名乗っていたものと思われる。
天文17年(1548年)、龍造寺胤栄が没し、水ケ江龍造寺氏から龍造寺隆信がその跡を継ぐと、小河信安、福地信重と共に家老となり、偏諱(「信」の1字)を受け信景と改名した。
永禄元年(1558年)11月の江上武種攻めで戦功を挙げている。
永禄4年(1561年)の川上峡合戦では力戦して勝利に貢献し、戦後の神代勝利との和議を主導した。
天正8年(1580年)頃に家老職を辞し、家督を嫡子・賢景に譲っている。
[sengoku-3]没年は天正12年(1584年)とされているが、この年の3月に起きた沖田畷の戦いにて賢景(納富賢嘉とも)が戦死していることから、父である信景も同時に戦死した可能性が高い。
文武両道の名将であったという。
[sengoku-4]納富信景(最新無料動画を楽しみましょう♪)
[sengoku-sita]