【時代】 戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】 不明
【死没】 天正7年6月8日(1579年7月1日)
【別名】 千熊丸(幼名)
【官位】 右衛門大夫
【氏族】 波多野氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての丹波国の大名。

波多野氏最後の当主。

波多野元秀の子と思われる。

波多野氏は、秀治の祖父・波多野秀忠の死後、細川晴元を支援して三好長慶と抗争し、弘治年間頃に松永長頼に敗れて没落する。

しかし、長頼戦死後の永禄9年(1566年)、元秀は波多野家の居城である八上城を奪還した。

また、播磨国の別所長治を娘婿として同盟を結んでいる。

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永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、波多野氏は織田氏に従った。

秀治の確実な初見は、元亀元年(1570年)11月24日の秀治の太刀・馬贈呈の返礼をする織田信長黒印状である。

天正3年(1575年)10月、信長が明智光秀の軍勢を派遣してくるとそれに味方したが、天正4年(1576年)1月に叛旗を翻し、光秀の軍勢を攻撃して撃退した(黒井城の戦い)。

天正6年(1578年)3月、光秀は再び丹波に出陣すると秀治の籠る八上城を包囲し、兵糧攻めを開始する。

11月には光秀の不在を狙って打って出、また翌天正7年(1579年)1月にも戦闘が行われたと見られ、八上城を包囲する小畠越前守が討死している。

2月には商人の兵庫屋惣兵衛に徳政の免除などをしており、外部から籠城への支援があったとも考えられる。

しかし光秀方の包囲が厳重さを増す中、兵糧も尽き、天正7年(1579年)6月1日、調略(味方の裏切り)によって秀治ら波多野兄弟は捕らえられた。

その後、弟二人とともに安土に送られ、同年6月8日に安土の慈恩寺町末で磔に処された。

辞世は、「よわりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ」。

なお、兵庫県丹波篠山市味間奥にある波多野秀治墓には「天正六戊寅年 六月十日戦死」とある。

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丹波篠山市に伝わる伝承によると、秀治の次男・甚蔵は乳母に抱きかかえられ味間へ落ち延びた。

のち、波多野定吉と名乗り、篠山藩に仕えたという。

なお『氷上郡志』では永禄3年(1560年)に秀治が波多野宗高・毛利元就と共に正親町天皇の即位に献金・警固を行い正四位に叙せられたとされ、大正期には従三位を追贈されている。

ただし、当時の波多野氏当主は秀治ではなく父・元秀であり、毛利氏と異なり波多野氏の献金は一次史料で確認できず、また京都を支配する三好氏と対立し没落している時期のため警固を行ったという可能性も考えられないという指摘がある。

このため献金や存命中の叙任は後世の創作だと考えられる。

また、大路城主波多野秀香は義弟であり、油井酒井氏から養子として波多野氏に迎えられたと伝わっている。

秀香は酒井佐渡守重貞の次男であった。

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